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鶏と卵

この間、ブログの数供養で、鶏の1年間に消費される羽数を見ました 。650億羽、牛や豚は何トンと表現されていましたが、鶏はちゃんと羽数まで数えられていました。 牛や豚より小さいのに...。またご丁寧に、現在生きている鶏の数も 230億羽と把握されているのです。

ただ卵は、 羽数ではなく 2273万トンと重量で把握されていました。

鶏は食べられるために飼育され、我が子の顔を見ずして、その子もまた、人に食べられるために増やされるのです。

こんな当たり前のことですが、無関心ならそのままで無関心で、いれることです。

これは、人類の鶏に対する殺傷を批判する記事ではありません。

何故なら、私の体はほとんど鶏肉で構成されるているといってもいいほど、鶏肉好きなのです。

小さい時に友達の誕生会に呼ばれ、何人もの友達が呼ばれたのですが、その家は裕福な家で、その家のお母さんとお姉さんが手羽先をたくさん、お昼ご飯のために作っておいたと思いますが、友達が皆、野球をしてる間に私ともう1人食いしん坊の友人は、こっそりその手羽先の所へ行き、残らず食べてしまいました。隠れて食べたことも手伝って、本当にあれは美味しかった。
そして、どれだけ怒られたかも覚えていないほど、あれが初めて、他人に怒られた最初でした。

昔、我が家では どこかでいいもの食べようかということになると、新宿の中村屋に行き、そこで中華料理のコースだか、セットだかよく覚えていませんがそれを食べたのを覚えています。 その主役もまた鶏の唐揚げでした。焼き塩とコショウで食べました。

小学生の時に私のおばさんがケンタッキーフライドチキンを買ってきてくれました。それは今まで考えたこともないような味で、肉に辿り着くまでの衣がジューシーで、しかも中身はしっかりと鶏肉でした。

キリスト教徒でもないのに、クリスマスには当たり前のように鶏の丸焼きが出ると勘違いをし、後になってそれは実は七面鳥でなければいけないということを知りました。

卵、これもまた不思議な食べ物です。どれだけ貧しい生活をしても、卵はその食卓を豊かにします。ご飯だけではどうしようもないところに、卵をかけると、そのご飯はキラキラと光り輝き、口の中に甘くまろやかな舌触りをもたらします。

昔、妊自在中絶魔が、家族数人で、卵一個を分け合って食べたと、貧乏自慢をしておりました。

同じタマゴから作っても、目玉焼きと、卵焼きと、炒り卵と、ゆで卵では、まるで違う国の料理のようです。

今日まで54年の人生、いったい、何世代の鶏の一族にお世話になったのでしょうか?

彼らの命を奪い、幸せを奪い、ぬくぬくと太ったこの体。

人間と卵のこの不条理な関係はいつまで続くのでしょうか? 不条理なことが嫌なら、鶏の一生を考えればすぐさま、その気持ちは収まるでしょう。

最近、毎日真言を唱えていますと、喉に痰が詰まるので、なかなか上手く唱えられなくなり、もしかしてこれは朝夕と食べている卵のせいではないかと考え、卵を食べることをやめることにしました 

今の私は一昨年の経験から学ばなくてはいけません。 10年、20年、30年、そんなスパンでは何もないかもしれませんが、あるいは彼らは心の中での強かな怒りが、今その復讐の成果が着々と私の身に発現しているのかもしれません。

そもそも癌というものは、私たちがいろいろと殺生して食べた生き物が、最後の抵抗として私たちに残した爆弾なのかもしれません。

動物がかわいそうだ、動物を大事にしようね、でも家畜は、パクパクおいしいねと食べる。

多面的矛盾こそが人間 の本性であり、人間こそが矛盾をおっかなびっくり楽しんで生きる生き物なのです。

鶏と卵は可哀想だ。鶏と卵に感謝しよう。でも鶏と卵はおいしいね。

合掌




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