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部屋と文鳥とわたし

大雨。
この部屋は角部屋で木造なので雨が聞こえやすい。幹線道路から一本入っていて、線路が少し向こうにあり、車の音とか踏切とかが雨の向こうのほどよく遠くに聞こえる。外界をすぐそばに感じられる安全圏という感じがして気に入っている。
こんな雨の日に予定もなく部屋に引きこもってるのは最高だ、と思う。
本当はまめがここにいるといい。
少し切なくなる。

まめは私が社会人になってすぐに飼い始めた文鳥で、まめといた2年間はとても特別なものだった。
私だけをまっすぐ見つめてくれていて、愛してくれていた。最後までずっと一緒にいた。
今も毎朝、毎朝思い出している。
前の狭い部屋にいる時期から飼い始めて、今の部屋には一緒に引っ越してきた。部屋探しの条件は、「バス・トイレ別、2階以上、日当たり良好、文鳥可」だったから、この部屋は何よりもまめに似合う部屋で、まめのための部屋だった。だからまめがいなくなってしまって、この部屋に私はひとりでいて、まめがいないこの部屋にひとりでいたって仕方なかった。私とまめは一心同体で、私はからだの真ん中が空になったような気がして、部屋のどこを見てもまめがいて、かなしくてかなしくてかなしくて、もう空っぽなのにもっと空っぽになるまで泣いた。
いのちのあるあたたかいものを愛することは、とても満たされることだった。満たされるということは、この上ないしあわせであり同時に喪失への恐れでもある。満たされれば満たされるほど、この存在が失われてしまった時に私はどうなってしまうのかという恐ろしさも迫り上がってくる。そしてその喪失は現実になってしまった。愛することは命がけだ。

遠くで雷が鳴り始めた。
雷は結構好きだ。小学校3年生くらいの頃、音速と光速の違いを習い、雷が光ってから音が聞こえるまでの秒数を数えれば雷が何キロ遠くに落ちたかが分かると知った。雷雨の日には、授業そっちのけでいつピカッと来るか神経を研ぎ澄ませ、空が光れば待ってましたと秒数を数え、7秒だ、遠い、2秒、近づいた!など言い合っていた。落ち着きのない子どもだった。

雷の日、私に似てまめも落ち着きなくかごの中をガサゴソ動き回っていた。「大雨だねぇ、まめは雷初めてだねぇ、大丈夫だよ、ここは安全だよ」と声をかけかごの中に手を差し伸べると素直に手に乗ってきて、撫でてやったりすると少し落ち着いてみえた。愛おしかった。気が立っている時は手を差し伸べるとかわいい珊瑚色のくちばしで容赦なく指を噛んできた。文鳥というのは小さな体に似合わずパワフルなもので、噛まれるとめちゃめちゃ痛い。全力でつねられる。まめは、私が痛いのも分かってやっているのだ。全力で「怖がらせるなんてひどい!」という気持ちをぶつけるように、噛む。私が痛い痛い痛い!と言ってるのを分かっていて、やめない。それがまた愛おしかった。雷は、私のせいではなく天気のせいなのだけど、まめにとっては外の世界のことは全て私のせいであるのでお構いなしなのだった。
感情の全てを文字通り身ひとつでぶつけてくる白いあたたかいつやつやの綿毛。しあわせだった。

雨が強まる。
私はこの部屋でひとりだ。
ひとりは気楽で、さみしい。さみしさは、不在に慣れたくないという反発の気持ちなのかもしれない。忘れたくなくて、忘れていないよ、という気持ちを確認したくて、さみしくなりたくて、さみしくなる。言い訳をする必要なんてないのに、私は君を忘れていないよ、ということを証明したくて、さみしくなる。意志としてのさみしさ。
まめがいなくなって、もうそろそろ季節が一巡する。私はまたひとつ歳をとった。この部屋も随分迷って結局更新した。まめのいないこの部屋に私だけがいても意味がないと思っていたけれど、この部屋の家主は私で、雨の日のこの部屋はやはり居心地がとてもいい。ひとりでも。
今日は一日雨だ。雨と雷の音を聞きながら、わたしはひとりで、ひとり分の生活を続ける。

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