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チー牛の行方

 夜勤の現場仕事を終えて、始発まで時間があったので、飯を食おうと思った。

 選択肢は限られている。北口の牛丼屋か、南口のこれまた牛丼屋。実は北口には牛丼屋が通りを挟んで二軒向かい合っているのだが、そのうち一軒は24時間営業ではないのである。なぜ駅ごとに牛丼屋があるのか、不意に切なさが込み上げてくる。いつから日本人は牛丼ばかり食べるようになったのか、何ゆえ日本の外食産業はかくも想像力が貧困であるのか、それとも想像力が欠如しているのは消費者の方なのか。

 なんのワクワク感もなく、殺伐と連なってゆく私の(早朝の)食生活。

 その時ふとチー牛という、何かの記事で知ったネットスラングを思い出した。チーズ牛丼を注文する人をステレオタイプに分類する、偏見を煽るようないささか差別的な言葉。

 そのチーズ牛丼というものをいっぺん食べてみたい、「チー牛ください」とぼそりと呟いて偏見に加担してみたい、そんな仄かな期待が胸の中に灯ったのである。ささやかなワクワク。

 夜の白みつつある夏の午前4時、牛丼屋の自動扉が開くと中の空気は澱んでいた。先客は1人のみ(とっくに食い終え、スマホをいじっている)で、店内はなんとなく外よりも薄暗い。

 アジア系(自分もアジア系だが)の女性店員が2人、奥の客席で大きな声で話し込んでいた。むろん、日本語ではない。こちらを一瞥すると、また会話に戻る。いらっしゃませ、そんな言葉は全く聞かれなかったし、水も出てこない。

 テーブル備え付けのタッチパネルで注文を手早く済ましたけれど、彼女たちが1ミリも動こうとしないものだから、だんだんイライラしてくる。自分のあとにもう1人客が入ってきて、カウンターについて不安げにあちこち見まわし、やがてため息をついて出ていったけれど、なんだかバツが悪くて、その人とは視線を合わせないようにした。

 始発に間に合うかジリジリし始めた頃、ようやく長話を切り上げて、店員のうちの1人が厨房へ入った、かと思うとすぐに出てきた。そりゃ具を白飯によそうだけだからな。

 しかし、運ばれてきた品を見て私は目を疑った。それは牛丼ですらなかったのだ。白飯の上に3色のチーズの破片を散らしたいわばチー飯、彼女は具をよそうことすら失念したのである。

 ここで私は写真を撮ることを忘れるという痛恨のミスを犯したのだが、そこからこの時の動揺を察してもらえるかと。一瞬、このようなメニューが実際に存在し、タッチパネルの操作を誤ったのかと注文履歴を確認した程である。

 私の動揺を見てとった店員は、さすがにその原因を一瞬にして悟り、万国共通の驚きの仕草、すなわち目と口を大きく開いて、手のひらで口元を覆うという仕草をしてみせた。それから、目鼻立ちのハッキリした浅黒い肌の彼女は吹き出した。私もまた吹き出した。

「スグニ作リ直シマス」
「お願いします」

 たしかに彼女は「作り直す」と言ったのだが、出てきたのは先ほどのチー飯の上に具を載っけたものだった。

ネタを提供してくれたのかな?

 この時には状況を楽しむ余裕ができていたので、ちゃんと写真に残しておいたが、肝心のチーズがほとんど具に隠れてしまった。

 そういえば、昔牛丼屋(こことは違うチェーン)で「鯖焼き定食」を頼んだら、やはりアジア系外国人の店員さんが運んできたのは、「牛シャケ定食」だったことがあったけれど、あれは単なる聞き違い(それにしても甚だしいが)であって、メニューにないものを提供したわけではない。単なるガッカリであり、当然この時のような高揚を感じることはなかったのである。

 そう、今回は何にせよ、ワクワク感のない、殺伐と続く食生活に於ける一服の清涼剤のような体験であったことは間違いない。

 オ代ハケッコウデスと最後に彼女は頭を下げた。でも、顔は笑っていた。一言もクレームをつけなかった私が、その言葉に甘えさせてもらったことは言うまでもない。

(了)

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