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「お金にならない発信」も経済合理性がある説

「インターネット」という人類史史上最強の文明インフラが世界中に張り巡らされた現代において、「お金にならない発信も、実は経済合理性があるのではないか」という仮説を考えたので、それについて書いていきます。

もちろん、「発信」という行為は経済的利益を得るためだけの行為ではないです。じぶんが世の中に放ちたい何かを放つ、そんな行為だと認識しています。とはいえ、「お金になる発信」をしたいと言う人がたくさんいることは否めません。なんなら、この記事を書いている僕も、「あわよくば、、」みたいな気持ちもなくはない。YouTubeも時間を掛けてコンテンツを作るということはしてなくて、チャンネル登録者数4人(1000人以上で収益化)だけど、「あわよくば、、」みたいな気持ちが1ミリもないかと問われれば、「1ミリもない!」とは言えない。気ままにやっているつもりでもなんとなく頭にチラつく。そんなこんなで、自由に「発信」ができる。インターネットって素晴らしい。

と、ここでインターネットについて考えることをやめることもできるのですが、もう一歩踏み込んで考えてみたいのです。インターネットによる発信と経済合理性について。

人々が「発信」というものをしたくなるのは、おそらく「じぶんの手で世界の何かに触れていたい」という気持ちからだと思います。この気持ちって、おそらく「発信」に限らず、あらゆる「取引」において生じる感情ではないかとも思うのです。たとえインターネットがなくても、人は体験した出来事や隠し事をだれかに話したくなるし、余っているご飯は捨てるのではなくだれかにあげたくなる。それと同じように、人はみな金銭を通した取引をすることで「じぶんの手で世界の何かに触れていたい」という欲求を解消しようとする。特に必要のないものまで買ってしまったり、他人の気が引けそうなブランド物に手を出してしまうのは「じぶんの手が世界の何かを思いっきり掴むため」にする行為なのではないかと思うのです。新型コロナウイルスの騒動に乗じて、なぞにトイレットペーパーたちを買い漁る人間も「みんなの話題に便乗している」という快感を得たい人間なのだと思います(間違っていたらすんません)。

そんなことを考えると、「お金にならない発信」ってとても経済合理性があると思います。お金になろうがならまいが「発信」という行為をすることで、「じぶんの手で世界のなにかに触れている」という実感が得られるからです。そして、発信を習慣にすると、「世界のなにかに触れていたい」欲求がある程度まで満たされます。そうすると、無駄に物を買ったり人の気を引くために高価なモノに手を出したりしなくなるのです。要するに、お金にならない発信は「売上増加」にはならないけど「経費削減」にはなるのです。お金を稼ぐことに繋がらなくても、余分なお金が出てくるのです。実質、儲かってますよね?

というのが僕が考える、「お金にならない発信も経済合理性がある説」なのです。インフルエンサーに対して、匿名でアンチリプやアンチコメントを送りまくるアンチたちは「経費削減」活動を頑張っているのです。実は彼らの行動は経済合理性があるのかもしれません。彼らにとっては、ですけど。

世界には数えきれないほどの人間がいるので、僕と同じことを言っている人もいるかもしれないし、逆に僕の説が成り立たないことを証明している人もいるかもしれません。それでも僕は「世界の何かに触れていたい」という感覚を味見くらいはし続けたいので、気ままに「発信」というものをしていきたいと思います。


里芋です。