誕生日

今日は25歳の誕生日。

ここには僕の承認欲求も恥じらいも全て捨てて書き残そうと思う。

誕生日の朝はなんだか気持ち悪い気分だ。

朝起きたら

自分自身の承認欲求が疼く。「みんなから祝われたい。」そう心の底にいる

過去の欲求を満たすことが出来なかった自分が嘆いている。

僕は1月3日生まれ。そう。世間が正月というおめでたい雰囲気の中で誕生日を迎えるのでよく忘れられる。

だからこんなことをよく思う。

「あー、普通の日に生まれたかった。」

だって、普通の日に生まれたら日常の中に特別な日があるから

きっとみんなも忘れないでしょ?

僕は「正月」という非日常の中に「誕生日」という非日常があるから。。。。

もはや正月を恨みたくなる。笑

でも、これが宇宙の采配だと思って渋々受け入れてる。

だから小中高と僕は「みんなから祝ってもらえたことがない」

だってみんな正月が「休み」だから。

だからその欲求を満たす為には「自分が開くしかない」

そう思って今年もインスタライブをやったり4年前の誕生日はフィリピン留学をしていたので、そこで「todays my birthday!!」というボードを持って校内中を練り歩き、たくさんの人から「happy birthday!!」というお祝いの言葉を頂いたりもした。

もうそういうことなんだと思う。

正月が誕生日の僕は「みんなに祝ってもらいたい!」という強大な承認欲求を

満たす為に「自分から祝ってもらう為に毎年行動を起こすしかないんだと思う」

もう僕からしたら、職場に行って「〇〇ちゃん今日誕生日だよね?おめでとう!」

なんて言われてみたい人生でした。そういう普通の日に生まれてきた人が心から羨ましいです。はい。

まあ負の感情はここまでにします。

そもそもなぜ誕生日を多くの人は祝いたいのか?プレゼントを渡したいのか?

皆さんはなんでだと思います?

多くの人は「誕生日おめでとう!」と言うけど、この言葉をもう少し掘って見ると

僕はこうなると思う。

「生まれてきてくれてありがとう!」

生まれてこなかったから何もない。生まれてきて誰かと巡り会い何かを共にすることでそこに愛が生まれる。その愛を毎年感じる為に「誕生日」はあるのだと僕は思う。

ということは僕は冒頭に「みんなから祝われたい」と書いたが

「みんなから祝われなくてもいいな。」と思えてきた。

誕生日は自分がその人に与えた愛が帰ってくる日。そう思えてきた。

「この人から誕生日メッセージをもらいたいなー」と思って

その人からはメッセージは来なくて。なんかわかんないけど期待した分だけ傷つく。

そうじゃないよな。純粋に自分がその人への愛が足りてなかっただけ。

来年、その人からメッセージをもらえるように愛を与え続けろって話。

まずは与える。

最後に。

父さん。母さん。僕を正月に産んでくれてありがとう。

正月に産んでくれたお陰で、僕は誕生日について

考えることができています。笑

そして多くの人に支えられ、いまを生かせてもらってます。

25歳。100歳までの人生と考えると、もう四半世紀生きたのか。

ここまであっという間だった。

「オギャー」で生まれ「ありがとう」で死ぬ。

そんな人生にしたいから、何があっても死なないって決めてる。

横を見たら「自分の仕事で稼いでる人」「いい車に乗ってる人」

「いい服着てる人」きっとこれからも隣の芝はいつだって青く見える。

でも、青く見えるってことは「自分もそうなりたい」と少しは思ってるから

嫉妬するんだろ?まだよくわかんないけど「いける」って思ってる自分がいるから

踠いてるんだろ?もっと足掻け。もっと苦しめ。そして光を掴め。

そして目に見える所も大事だけど、目に見えない所をより大切に。

それがお前の生き方になる。そうやって心の中のリトルキャンタがボヤいてる。

そんな2022年。25歳にします。

キャンシャ(感謝)



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