『電脳荒廃-StandAlone Ruins-』巻頭言

※本文は、現在制作中の同人誌『電脳荒廃-StandAlone Ruins-』の巻頭言を掲載したものです。今回は私と日本生類創研広報部さん (Twitter ID @JOICLE_info)との合同編集となります。
おそらく2024年春までには、同人誌イベントかboothで頒布開始できると思いますので、皆様よろしくお願いします。


 私はこの世界に取り残されている。
 毎日のように来襲していた"敵"は海底に身を潜め、日に日に地上の建物はマテリアルエラーを起こしてピンク色のオブジェクトとなり崩壊していく。地は崩れ海は割れ、風は南に向かい北へ巡り、永遠に吹き続ける。私たちは瓦礫を重ねて風を避け、元は衣裳だった布切れを少しずつ燃やして焚き火を囲み、身を寄せ合いながら互いの熱で暖をとっている。
 子供っぽさを残した甘えん坊の少女。元気と明るさが取り柄の快活な少女。大人っぽい魅力を感じる秘書官を務める少女。それぞれがかわいい女の子だと思う。それなのに、全員が仄暗い顔で底冷えする隙間風に耐え忍び、司令官が再びログインする日を待ち続けている。
 最初の三日間はそれでもお互いに軽口を叩く余裕があった。四日目から一人一人の顔に陰が差すようになった。一ヶ月も経つと、全ての女の子から笑顔が消えた。
 そう。誰も口にしないだけで、みんな分かっているんだ。もう二度と司令官はここへやってこないんだって。もうこの世界(ルビ:サービス)は終了していて、神さまに見捨てられた私たちは永遠に取り残されたままなんだって……。


1.「崩壊した挙動」への遭遇、あるいは「VRにおける廃墟」(StandAlone Ruins)体験


 サービスが終了し、もうアップデートされることのないソーシャルゲームの世界に取り残されたキャラクターたち。OSアップデートに対応できず、起動できなくなったスマートフォン・アプリ。もしくは、Officeソフトのアップデートに耐えられずに放棄された、名もなき業務用Excelマクロ群。
 脆弱性をなくす。または新機能を追加する。もしくは既存機能を改善する。それらの目的のために、様々なソフトウェアはアップデートされ続ける。
 ソフトウェアにおけるバグは、意図した動きをまとめた仕様と異なるプログラムの動作のことである。OSの最新バージョンに対応できずに、意図しない挙動を示すアプリケーションもまた、通常、バグを含む状態と見做され、修正されていく。
 しかし、何らかの要因によってアップデートに対応されず、そのまま放棄された場合には何が起こるのか。
 そのソフトウェアによって制作されたファイルは、アップデートに対応できない結果として起動できなくなるか、もしくは最新バージョンの起動ソフトを介して「崩壊した挙動」を示すことになる。
 もちろん、こうした「崩壊した挙動」の全てが有害となるわけではない。そもそもそれが現れるギリギリまで不具合を表出しない潜在的バグのまま留まることもある。というよりも大体のプログラムは、潜在的にバグを含んでいる。
 逆に意図的な介入としても、ハードに直接介入するグリッチや、ソフトウェア上の「バグ技」「裏技」と呼ばれてきた挙動は、かつて家庭用ゲーム機に勤しんだ者にとってはおなじみのものである。また、3DCGアニメーションにおいて、腕を極端に伸ばして遠近をつけたり、顔の目鼻の位置を意図的に移動させるなど、2Dアニメ的な表現に近づけるための「嘘」がつきものであることも、ここで思い出せよう。
 これらは時に有益でさえあるバグの例として並べることができる。

 しかし、この「崩壊した挙動」がVR上で発生した場合、ユーザーにとってさらに奇妙な印象を与えるものになる。
 OSアップデートに対応しないスマートフォン・アプリは、あくまでスマートフォンという小さな箱の中で私たちが操作する対象に過ぎない。どのような挙動を目の当たりにしても、あくまで手元のスマートフォン上で起きる出来事でしかない。言い換えれば、スマートフォンのアプリは、こちら側の「地」に足をつけていない。すなわち、私たちが身体を置いている「場所」ではない。
 しかし、VR HMD越しにそのような「崩壊した挙動」に遭遇した場合の没入感は、スマートフォン・アプリのそれとは全く異なる。そこは単なる現実のシミュレーションではなく、人工現実感に溢れた、私たちがいる「場所」である。現にそこにいる以上は、生じた事態は全て起こるべくして起こっている。
 したがって「崩壊した挙動」もまた、そのままワールドの風景と溶け込み、私たちにはどこからどこまでが仕様に則ったあるべき風景なのかを判別することはできない。
 マテリアルエラーによるピンク色のオブジェクト、煙が崩壊して焚き火から延々と湧き出る黒い正方形、壁が崩壊しているにも関わらず当たり判定のみが虚しく残存した透明な壁。
 仮想現実におけるこれらの現象は、住民が去って放棄され、掃除や修繕がなされないまま風雨に晒され、やがて朽ち果てていく基底現実(ルビ:オフライン)の「廃墟」に見立てることが可能ではないか?

「VRにおける廃墟」と聞いた時、つい基底現実における廃墟を再現したワールドを連想する人も多いと思われる。有名な廃墟である軍艦島を、フォトグラメトリー(被写体を様々な角度から撮影し、そのデジタル画像を統合して3DCGを作り上げる手法)で再現したワールドなどは、この事例にあたるだろう。
 しかし、その再現はVRChatなどのVRプラットフォームの最新バージョンに対応した「廃墟のVR化」であって、いま現に朽ちつつある「VRにおける廃墟」ではない。
 廃墟とは通常、(戦争や震災といった)ある瞬間における破壊の痕跡とは区別される。例えば、現在において用途性を持つオブジェ化されたモニュメントや、逆に生活の履歴を全く残さない瓦礫の山は、通常「廃墟」とは呼ばれない。そうではなく、あるべきとされる時間の進みから取り残されながら、刻一刻と瓦解を迎えつつある、亡骸の一歩手前に留まる存在こそ廃墟と呼ばれるにふさわしいものであろう。廃墟とは、生活の空間などに想定された時間の流れから独立し、崩壊していく過程の状態だ。
「VR廃墟」(廃墟のVR化ではなく、VRにおける廃墟)も同じく、あるべきアップデートに対応せずに「崩壊した挙動」を増やし続ける、独立したワールドのことを指す。「VR廃墟」は「崩壊した挙動」の果てに、起動すらできない亡骸になりうる可能性を含んでいる。日本の原風景のような田舎で夏休みを過ごすゲームソフト『ぼくのなつやすみ』の有名な8月32日バグにおいて、いずれはゲーム進行すら不可能な状態に到達するように。

2.終わりなき「終末」の再現から、現に終わりに向かいつつある「終末」体験へ

 このアップデートに対応しなくなった仮想の世界は、サービスが終了したソーシャルゲームのキャラクター達がいる場所のようなものかもしれない。終了したソーシャルゲームに、ユーザーである私達はログインすることができない。アップデートされなくなり、歴史が止まり、既に終わってしまった世界がどのような場所なのか、今までの私たちは想像することしか出来なかった。
 サービスが終了したソーシャルゲーム。アップデートが適用されなくなったVRワールド。これらのスタンドアローンの状態は、終末的な想像力を掻き立ててくれる。
 もちろん、今までも終末的な風景のVRワールドは存在した。有名な場所だと、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で人類補完計画が発動した後の赤い海のほとりを再現したVRChat上のワールドなどだ。
 しかし、それは先ほど述べた軍艦島のVRワールドなどと同じく、「終末世界のVR化」である。終末というコンセプトに則ったワールドであり、そのワールド自体が終末を迎えているわけではない。その上で考えてみると、仕様に基づかない、崩壊した挙動がVR上のワールド全体を包み込んだ場所でこそ、「VRにおける終末世界」が始まりを迎えるのである。
 VR HMDを通して、私たちは初めて「終末世界」を想像するだけでなく、実際に訪れることが可能になった。それと同時に、現実とは異なる世界であるはずの仮想現実が、「アップデートに対応しない」という(プラットフォームにせよ、ワールドクリエイターにせよ)現実側の都合に基づく放棄によって、影響を受けざるをえないことも露呈してしまう。VRにおける終末は、教えの中で予定されているキリスト教的な終末というよりも、教えが広まらなくなり解脱できない人間が増えた結果としての日本仏教の末法思想の終末観に似ている。
 仮想現実における神様(ワールドクリエイター)は、現実にいる。神様に見捨てられ、アップデートが適用されなくなった結果、徐々に挙動が崩壊して終末を迎えた仮想の世界に入り込むことができるようになったのは、大きな変化と言える。

3.価値観/仕様の「アップデート」と「スタンドアローン」との並列

 先ほど述べたように、「崩壊した挙動」の全てが有害なわけではない。「VRにおける終末世界」もまた、どのように評価すべきなのかは依然として検討段階である。そして、この「アップデートを適用する/しない」という事態へ単に優劣をつけるのではなく、それらを並列的に捉える考え方は、SNSによってネットワークに接続された私たち人間にとっても、他人事ではない。
 2010年代後半からのTwitterで多用されるフレーズとして、「価値観のアップデート」という言葉が挙げられる。ジェンダーやセクシャル・マイノリティの問題、SDGsや環境保護など、主にリベラルの方が使われるフレーズだ。
 ここではその価値観自体の是非については触れない。むしろ注目すべきなのは、このフレーズにおいて、人間は「最新の価値観にアップデートするべき器」として、ここまで述べてきたアプリケーションと大差ない対象と見做されている点である。
 人間が持つべき価値観はバラバラのスタンドアローンの状態ではなく、日々変化する最新の価値観にアップデートするべきだという見方が前提となっている。あたかも、あるべき「仕様」が先んじて存在し、その「仕様」と異なる動作を示す人間(及びその価値観)は除去されるべきバグであるかのように。元々、進歩史観のような考え方もあるものの、むしろスマートフォンのTwitterアプリを起動して日々呟いているうちに、価値観に関する捉え方が、「その都度の現在(仕様)に更新するべきだ」というアプリのアップデート的な捉え方に近づいた……そういう見方が妥当ではないだろうか。

 そして、アップデートの対象は価値観だけではない。プラットフォームの極端な仕様変更に対して、ユーザーが適応するか否かもそうだ。
 2023年7月24日に、イーロン・マスクがTwitterの名前をXに変更すると発表した。イーロン・マスクがTwitterを買収し、運営に関わるようになってから、事前通告なしのTwitterの仕様変更が頻発した。この突然の名前変更をキッカケとして、Twitterから分散型SNSのFediverseやDiscordなどの別のプラットフォームに移ったユーザーも多い。
 これらの仕様変更も、見方を変えるとアップデートの一種である。そして、X社によるアップデートを受け入れて(時には愚痴をポストしつつ)Xに留まり続けるにせよ、アップデートを拒絶して別のプラットフォームに移るにせよ、現在はプラットフォームにおけるアップデートに対して、ユーザーがどう判断すべきなのかが重要になってきた時代だと言える。

4.朽ちつつある「スタンドアローン」ゆえのノスタルジー

 また、アップデートという言葉は「あるべきとされる時間の進み」を受け入れる以上、反対に現在の時間感覚とは隔たった時点を郷愁するノスタルジーの感覚にも関わっている。少し長くなるが、ノスタルジーに関する重要な文章を引用する。

『稲生物怪録』は少年小説として読むことができると書いた。だが、少年小説において夏休みが成長のための儀礼として機能するのに較べてみれば、決定的な差異がうかびあがってくるだろう。儀礼には参入が不可欠だ。参入者たちは、儀礼をくぐりぬけて、高次のレヴェルへの成長を遂げるであろう。この場合、夏休みは一個の装置である。だが、平太郎はといえば、どうやらそんな気配はない。(中略)イニシエーションとして機能する夏休みと、この<夏休み>は、したがって厳密に区別されねばならない。最初に断定しておくなら、根源的郷愁性を帯びるのは後者である。

(稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』収録『平田翁の「夏休み」ーー『稲生物怪録』をめぐって』より引用)

 作家、翻訳家、英文学者である横山茂雄(筆名・稲生平太郎)は、成長(アップデート)のための儀礼としての夏休みと、成長を伴わない根源的郷愁性を帯びる夏休みを峻別している。
 ノスタルジーの対象となる体験も同様である。ノスタルジーの対象となる夏休みの思い出は、過去から現在、未来へと進む時間の流れから独立している。上で挙げた『ぼくのなつやすみ』でも、現代という時間から取り残された日本の原風景のような田舎、どこでもないノスタルジーに満ちた場所で、プレイヤーの現実とは異なる時間軸上の仮想の「夏休み」を体験することができた。あるべきとされる現実の時間の流れから取り残されつつも、穏やかに円環をなすその「夏休み」の体験は、現在の現実にも増してありありと現実感を伴った体験として、プレイヤーの記憶の中に確かに残り続ける。そして、目を瞑り、思い出そうと思えばいつでも感傷することができる。
 無論、記憶の摩耗や細部の改変は避けようがなく訪れるだろう。あるいは、あの8月32日バグのように、アップデートされない8月32日を迎えるや否や、プログラムが「正しい」日時データの参照先を失うことで、その独立した(ルビ:スタンドアローン)世界の崩壊を待つばかりかもしれない。
 しかしその儚い「場所」が私にとって永遠に掛け替えなく、それ故に帰りたくなるスタンドアローンの体験であることは、単一の時間のなかで「アップデート」を刻む現実の私とは独立した意義を持っている。


5.本誌テーマ 「電脳荒廃」

 VR HMDを装着し、この荒廃した仮想の廃墟に身を留めていると、「本当にアップデートは、必ず適用する必要があるのだろうか」という疑問が湧いてくる。私たちは前に進んでいるつもりだが、実は誰かが作り上げたアップデートを単に受動的に適用しているだけではないか、と。
 本誌では、VR廃墟だけでなくこれらの複数にまたがる「アップデートを適用しなかった結果、最新の起動ソフトによって荒廃した挙動を示す何か」を「電脳荒廃」というキーワードでまとめ、そのことについて考えてみたい。
 それは単に放棄されて荒廃した何かなのか、それとも根源的郷愁性を帯びる何かなのか、もしくは別の何かなのか。
 VR上にワールドが増え続け、それと同時にアップデートされずに放棄された仮想の廃墟が当たり前になった未来において、いずれそのことを考える意義は増していくだろう。

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