『天気の子』と、「狂った」天気について

 記事というよりぼやきに近いから結論はないけど、twitterに投稿するには長いのでnoteに書きます。

 新海誠監督の最新作の『天気の子』を観て2日経って、最も刺さったことは異常気象の取り扱い方かもしれないです。
 普段、私は概念の夏とか感傷マゾとかについて言及して悦んでいるけど、女の子との思い出はともかく、少なくとも私が子どもの頃(1990年前後)の夏休みの天気は、概念の夏のイメージとそんなに変わらなかったんですよね。昼間は暑いけど夕立が降れば気温も下がって湿気もなくなるし、特別に暑いのはお盆の前後というイメージでした。
 だから、感傷マゾ本を10代の方に読んでいただいて感想をもらった時は、とても嬉しい反面、「これでいいのかな…」という気持ちもあったんです。住む地域にもよるだろうけど、今の首都圏の大抵の地域は真夏日が多いし、ゲリラ豪雨とか連発する雷とか。『天気の子』の須賀さんの元義母のおばあさんが言っていたように、「天気が狂ってきた」という実感は、私もあるんですよね。

 そういう「狂った」天候の中の青春を描いた作品はあまりなくて、概念の夏の青春を描いた作品が多いじゃないですか。夏休みのイメージ(麦わら帽子に白ワンピースの少女とか、青空と入道雲の下に広がるひまわり畑とか)は完成されつくしていて、もう、入り込む余地はない。あとは夏休みのイメージを、真っ直ぐ描くか、捻くれた視点でメタフィクショナルに描くかの違いであって、描かれる題材そのものは変わらない。
 そうなると、「狂った」天候の中で育ってきた10代の方が青春ものの作品に触れた時に、ヒロインだけではなくて、天気すらも虚構になってしまうんじゃないかという問題が出てくると思うんですよね。ヒロインは虚構でいいんですよ。虚構のヒロインだから、現実が嫌な時に観たくなるじゃないですか。
 でも、天気すらも虚構だとしたら、もしも僕が10代だったら、最初から全てが虚構の作品を自分自身のものとして受け止められるのだろうか…。もう、自分は子どもではないから、そんな疑問が湧いてきます。それに対して、『天気の子』のおばあさんみたいに「かわいそう」なんて言葉は絶対に言いたくないんですよ。大人は、子どもが自分の手で自分の世界を手に入れる手助けをするべきだし、何もしないで憐れむのは最低だよなと思うんです。

 その点、『天気の子』は10代の主人公が自分自身で「狂った」天気を選び取ります。その結果、東京は破滅するけれど、その選択を最大限肯定した作品なんですよね。
 主人公の帆高君が「自分の選択で、世界のかたちを変えてしまった」という発言を、大人の須賀さんは呆れて信用しないけど、「世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」と言ってその選択を責めない。大人の新海誠監督も、「僕たちは、大丈夫だ」と帆高君に言わせて、物語を終える。
 twitterで『天気の子』で検索すると、「気持ち悪い新海誠が帰ってきた!」という感想が多いけれど、この映画はすごく大人の映画だと思うんですよね。
 帆高君ととても似ているけれど、人生の選択肢を選ぶ時にどこかで現実と妥協せざるを得なかった、「何らかの物語の元主人公」(あえてこういう表現を使います)の大人の須賀さんだからこそ、代々木の廃墟ビルで最終的には帆高を助けるし、帆高の選択を責めない。すごく優しい視点だし、こういうことをできるのが大人だよなあと思います。

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