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共によつばを育ててきた人たちへ

 前回の記事にて、「よつばと!」は第5巻をもって章が区切られている、という説を私は提唱した。それは「夏が終わる」という明確な線引きの他に、これ以降この作品の基礎となる「”よつば”を”よつば”たらしめるもの」が生まれた時期だからでもある。今回は、なぜ「よつばと!」が漫画界において異才を放っているのか、その秘密に迫っていきたい。

■よつばに命が吹き込まれた瞬間

 そんなの最初から生きているキャラクターとして描かれていたじゃないか、と思われるかもしれない。けれど私は、あずまきよひこが意図的に、よつばに命を吹き込んだ瞬間があると考えている。

 それは5巻第33話「よつばとはれ」におけるよつばの言動だ。
 第32話「よつばとあめ」にて、よつばととーちゃんが海についての会話を交わすシーンがある。

「子供はみんな水たまりが好きだな」
「おとなはおっきいからうみがすきだな」
「…今年の夏は海行ってねえなー」
「じゃああしたいく」
「今からか!?クラゲいるぞ」
「わー」

 非常に小さなコマに書かれた何気ない会話である。しかしながら、次の回ではこの会話の内容がフォーカスされ、「クラゲいるぞ」という否定の意味を込めて言ったとーちゃんの言葉を、よつばは「クラゲがいるから見に行く」と解釈したことで話が展開されていく。

 ……かつてこんな漫画があっただろうか?

 (一般的に)漫画という媒体はわかりやすさを求められることが多い。たとえ伏線を張っていたとしても、それが回収されるときには、どこで貼られた伏線がどのように効いているのかが明確になっているものである。しかしこのやりとりは、「よつばとはれ」の中で”以前そういう会話があった”程度にしか触れられず、私は今単行本を読み返しているからわかるものの、月刊誌で追いかけている人にはけっして優しくない描き方である。
 それでも、このシーンは描かれなければならなかった。子供特有の、固定概念がないが故に生まれる突飛な発想を、作者は的確に抽出したのだ。
 時として語られる「人間味」という曖昧なものの正体は、この演出においては、「勘違い」として浮き彫りにされている。現実に起こりうる勘違いを漫画の登場人物がしている。これほど作品の強度を高める方法が他にあるだろうか?
 泣き叫ぶよつばの声を聞きながら、とーちゃんは夏の空を見上げる。街の風景が断片的に映し出されるこのページは、「よつばと!」において作品を支える重要なシーンとして数えられるだろう。夏が終わり、命を吹き込まれたよつばはさらなる人間味を帯びていくことになる。

■誰もが知っている「正義の思い込み」

 6巻に入ると、よつばの行動原理がより明確に描かれるようになってくる。これまでは「面白そうだから」「やりたいから(衝動的)」という行動が目立つよつばだったが、次第に「どうして彼女はこの行動を選択したのか」がわかりやすく(しかしわざとらしくなく)表現されているのだ。

 その始まりは6巻第40話「よつばとはいたつ」だ。風香に牛乳を飲ませたかったよつばは、登校する風香を追って学校に侵入してしまう。道中、車からクラクションを鳴らされたり、瓶を坂から落としてしまったり、周りの見えていないよつばが奮闘する。
 このストーリーは、「誰もが持っている共通の感覚」として描かれている、と私は思っている(調査をしたわけではないけれど……)。一度決めたら後ろをふりかえらずやりきる、そうしなければいられない、という経験は誰しもが一度は通る道なのではないだろうか。最後は迎えに来たとーちゃんからきつく叱られるわけだが、ここまでの流れを含めて、幼少期の記憶を掘り起こされている感覚に陥るのだ。

 自分の正義を貫く。その結果怒られる。私たちが記憶の奥底にしまっていた何気ない体験が、よつばに投影される名作回といえるだろう。(この感覚は度々登場し、12巻第78話「よつばとあおいろ」でもメインテーマとして取り扱われる)

 ちなみに、学校に忍び込んだよつばが生徒に発見されるシーンで「外人だぞ」と指摘する人がいる。数少ない、よつばが「外見的に異質なもの」として描かれる場面である。

■美しさは「意味のなさ」に宿る

 漫画・小説・アニメと、実写の映像作品における一番の違いは、「意図しないものが映り込むかどうか」に尽きる。
 漫画・小説・アニメなどの「すべてが人為的な作品」には、作者が意思をもって書き込んだ(描き込んだ)ものしか現れない。その作品に描かれない奥行きや解釈がくみ取られることはあるが、あくまで読者に直接触れるのは「表現された部分」のみだ。それに対し実写の作品は、カメラというフレームがあるので、そこに含まれる意図しない映り込みも、視聴者に直接届けられることになる。(もちろん映像をチェックする人は細部まで見ているとは思うけれど、100%を「意図したもの」で造ることは不可能に近いはずだ)

 この前提をもって「よつばと!」という作品を見返していきたい。
 例えば8巻第51話「よつばと文化祭」では、終始雨が降っている。しかしこの話の中で、雨が降っていることはなんら影響を及ぼさない。むしろ文化祭という「祭り」を題材にしたストーリーなのだから、どうしても晴れをイメージしてしまうのではないだろうか。しかしあずまきよひこは、けっして普通には流れない。読者である私たちの中にある、遠い昔、大切な用事の日が雨だったような気がする、という感覚だけを丁寧に切り取っているのだ。雨が降っているからあの催しは体育館に移動させよう。去年に比べて客数は少ないな。みんな心なしか憂鬱そうだな。こういった、ぽつりぽつりと頭の中で小石のように転がっている記憶の断片が、作者の手によって「意図的に」表現されているのだ。

 また、題材の大きさで話すと、7巻第44話「よつばとねつ」も同じことが言える。牧場へ行く話を描きたいと思ったとき、「熱を出して延期になる」回を作るだろうか?この回はもちろん必要があって用意されたわけではないはずだ。しかし、誰がなんと言おうとも、「よつばと!」にとっては必要な回であることは間違いない。作品の強度、また求められているものを考えたとき、それがたとえ悲しい記憶であったとしても掬いあげなければいけないものだったからだ。

 7巻第47話「よつばとしゅっぱつ」。よつばはようやく念願の牧場へと向かうことになる。実際に牧場へ到着するのは第48話「よつばとぼくじょう」からなのだが、この漫画には「出発するまでの過程」を描く義務がある。車中の描写では、めずらしく四人の会話の応酬が続く。北海道のローカル番組「水曜どうでしょう」では、カメラを長回しして面白い会話だけを編集して放映する、という手法がとられているらしい。キャラクターが描かれず、車内から青空だけを映したコマはさながらどうでしょうのワンシーンのようである。映像作品の境地である「偶然を映し出そう」とした演出を、限りなく漫画で再現しようと試みたのが、「よつばと!」であるといえるだろう。

■私たちが記憶を失っている可能性

 こうして「よつばと!」は確立した手法によって私たちの元へ届けられる。すると次第に、「この話は私が体験したはずなのに、傍らによつばがいないのは何故だろう」という思考になってくる。

……もちろんこれは極論だが、「よつばと!」に対する狂気的な愛がなければこれだけの文は書けていない。これは次回予告も兼ねることになるが、9巻第59話「よつばとやきにく」は、本当に創作物なのだろうか、という疑問がわいてくる。(ちなみにここが第2の転換期であると考えられる)あまりにも、そう、あまりにも「知っている光景」に思えてならないのだ。「よつばと!」はすでに私たちの記憶と混ざり合っている。第3回となる次回は、「よつばを包む気配のこと」をテーマとして語っていきたい。

▼次回「よつばを包む気配のこと」


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