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還暦ゴルファーの徒然草 「出来ることを数えて生きる」

こんにちは。還暦ゴルファーです。
54歳の時、日本国際交流基金の日本語パートナーズというプログラムでインドネシアに8ヶ月ほど派遣されていました。

ヘッダーの写真は派遣先の高校生と作った「付箋ピカチュウ」。見本と作り方を見て、それぞれ個性的なピカチュウの誕生です♡

あーでもない、こーでもない

出来上がったピカチュウを写真に撮る為に、自分達で並べ始めました。画面右側で話しているのが、リーダー的存在のコリナさん。日本語クラブ(部活みたいなもの)のメンバーです。
いつも見事なリーダーシップを発揮します。


何故この写真を記事にしたかと言うと、昨日ふと「あれ?抗がん剤治療が始まってから“出来ない事”ばかり数えていないか?」と気が付いたからです。インドネシアで学んだ大切な事を忘れてしまっていた様です。

身体が弱っていると、いつも通りの思考ではない事にも気付けないものですね。そう言う状況の時に、大切な決断を下すべきではありません。
危ない危ない。


現地で学生達に「知っていますか?」と聞くと、皆「はい!」「知っています!」と手を上げます。でも指名してみると「それは、知らない」と平気で答えます。皆同じです。

「じゃ、知っているのは何?」と聞くと「◯◯です!」と誇らし気に答えます。

日本だと聞かれた事を知らなければ、知らないと言う判断をします。知っていても「もしかしたら間違えているかも…」と思った地点で、挙手はしません。

インドネシア人は「出来る事を数える」けど、日本人は「出来ない事を数えている」んじゃないかという気がしました。

だとしたら、とても残念な事です。
絶対値として日本人の方が知っている事が多くても、自己肯定感は低くなってしまうからです。

知っている事が一つでもあれば知っていると言えるポジティブさに強く惹かれました。

何だかとても健全で気持ちが良くて。
私もそうやって生きていこうと思いました。

なのにここ数日の私ときたら、出来なくなった事ばかりに気持ちがフォーカスしていました。

「身体が萎えると気持ちも萎える」
私はこの傾向が強いのかもしれません。


ちょっとインドネシアの事を思い出して、ポジティブ思考に切り替える必要がありそうです。

と言うわけで、今日はインドネシアでのお話にお付き合いください。



手作りのひらがなカルタを作って、各クラスで実施しました。これは職業高校の服飾科の生徒たち。先生がノリノリで読んでいます。

手作りのカルタ

冒頭のコリナさんは日本語でのスピーチ大会に参加するほどなので、ひらがなカルタは簡単です。一方他の学生達は満足にひらがなが読めません。現地ではローマ字表記の教科書で勉強するからです。

彼女のグループを「手加減するのかな?」と見ていると、彼女は一切の手加減をしません。
札は読まれた瞬間に彼女のものに。

見ていて見事なくらいです。「他の学生達はどうするのかな?」と思っていると、遂に一人の学生が「コリナが全部取っちゃう!」と不満の声を上げました。

それに対する彼女の答えが奮っています。
「私はみんなよりたくさん日本語を勉強したんだから!」と悪びれる事なく堂々と返します。

声を上げた学生も黙るしかありません。
その後も彼女の快進撃は続きます。
いやぁ、惚れ惚れします。

ごく当然の受け答えですが、果たして日本人で周りの空気を読まずにこれだけの言動を出来る人がいるでしょうか。「私もこうありたいなぁ」と思った還暦ゴルファーです。


* 出来る事を数えて生きる

* 当たり前の事は当たり前に主張する

この二つがインドネシアで学んだ大切な事。
もう一度しっかりと胸に刻みます。



どこの学校にも学校猫がいます


【日本語パートナーズについて】

インドネシア派遣に当たり、国内で1ヶ月間インドネシア語や現地事情の研修を受けた後、現地の高校で日本語を教えている先生のサポートに入ります。

毎日午前中は語学で、土曜日は小テスト。
本当は予習をしたいところですが、毎日の授業の振り返りだけで精一杯。知恵熱が出るほどで、どんどん痩せていったおじさまもいましたっけ。
今思い出しても過酷な1ヶ月でした。

同じ語学クラスの若者達


私が派遣されたのは首都ジャカルタ。
住居は「ジャカルタの六本木」と言われているエリアにありました。でも道は凸凹で、思わず「六本木を知らんやろ…」と突っ込みたくなります。

派遣先の高校は2校で、話し合って週毎に通う事になりました。1校は住居と同じ通りにある私立の中高一貫校。お金持ちの学校です。

学生達はバイクで通っていたり、私と同じ乗り合いのミニバスで通っていたり。もっとお金持ちの学校になると、お迎えの高級車が来ます。

羽子板対決で勝利し全力のガッツポーズ

いつも全力で楽しむ先生と学生達。色んな文化体験をしてもらったのですが、いつも学生より先生の方が興奮していました。

でも、締める所はきっちり締める先生なので、私も学生達も大好きです。

まだ2歳にならないお子さん(ニオくん)がいて、普段はお母さんが見てくださっているのですが、体調が悪い時など学校側から許可を貰って子連れで登校していました。

職員室で見てくださる先生がいらっしゃらない時は、ニオくんも一緒に教室へ入ります。

ちょっと日本では考えられない光景ですが、学生達も当たり前に受け入れていて誰かがニオくんの面倒を見ています。

ニオくんにレクチャー中

事前に「寛容の国」とは聞いていましたが、実際に暮らしてみて「これほどとは!」と何度も驚きました。本当にtidak apa-apa=大丈夫の一言で赦されるのです。

全てアッラーの思召しです。
日本とは思考の軸が異なっていますね。

いつも全力の笑顔♡

先生は当時まだ来日経験が無く、好奇心の塊でした。後日試験にパスして念願の日本研修に参加されたり、学生達の日本旅行の引率で来日されたりしました。

その度に私も上京して、先生と楽しい時間を過ごしました。「次はジャカルタで」と言ってからコロナ禍で約束はまだ果たせていません。
次はいつ会えるのでしょうか。


もう一校は国立の職業高校37。
この数字が小さいほど設立が早く名門だとの説明を受けました。

確かに職業高校1に派遣されていた人の話を聞くと、私の派遣先校との違いに驚かされる事ばかりでした。

職業高校なので、基本的に卒業後は就職します。けれど37ともなると中々就職先が見つからない様で、学生も先生も大変そうでした。

ここの日本語の先生は、日本で6年働いた経験がある方で大の日本贔屓。

日本への愛に溢れた先生の机の上

先生の机の上には、日本とインドネシアの国旗など様々な物が飾られています。作業出来るスペースは半分も残っていません。

本当に嬉しいですね。
日本で暮らして、日本が大好きになって、日本語を忘れない為に日本語の教師になって。

日本でどんな人たちに出会ったのか、色々話してくださいました。やっぱり全てを決めるのは、人との出会いかもしれません。

帰国してから大学に入り、教員資格を取るって凄いです。それも全て、日本で働いてお金を貯める事が出来たからだと言っていました。

この中を向こうへ渡ります

この職業高校へはミニバスを乗り継いで通わなければなりません。どこでも止まってくれる代わりに、乗るのも降りるのも自分で意思表示する必要があります。

そして時折ショートカットするので、ひと時も気が抜けません。

登校の前日、先生が私のアパート(プール付き!)から学校まで案内してくださいました。路地を何度も曲がるので、その度に写真を撮って付いて行きます。

翌日の初登校日。
朝6時を過ぎると渋滞が始まるので、5:45頃に自宅を出て向かいます。

写真を確認しながら無事到着したら、先生が「うわぁ!一人で来ましたね!」とビックリしていました。

聞けば、前任者は辿り着けず2日お迎えに行ったそう。いやいや、あかんやろ。。

前例があるなら「ここまで迎えに来ます」って、事前に対処してよね。

狭い狭い民家の軒先を通り抜けるのが、どんなに不安だったか。

道路を渡る時も基本的に信号の無い所が多いので、自分で車やバイクを止めながら渡らなければなりません。

躊躇っている方が危ないので、意を決して止めながら狭い隙間を抜けて行きます。
毎回スリリングです。


インドネシアでの生活を思い出したら、ちょっと元気が出て来ました。早朝のアザーン(イスラム教のお祈りの呼び掛け)で目覚めていた毎日が、懐かしいです。


思いがけず長文になってしまいました。最後までお読みくださり、ありがとうございました。
皆様の今日が良き日でありますように♡



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