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やまの言葉を高円寺で話した。 インターネット時代のコミュニティと技術

ちょっと、展示で語られた話

熊猟の写真を眺めたヒトから聞かれたことで、印象に残っている問いを書き留めておく。いくつかの問いと語りに関し、今から書くこの話は、回遊するからだを運ぶ "Migratory" body and architectureというテーマに流れ込んでいくと思う。

「狩猟はレジャーですか?」

クマが獲れたらうれしい。ただ、獲れなくても、それは熊猟だ。熊猟では里から山に向けて5-10kmくらい奥に入っていく。ひと月足らずの春熊猟の猟期のなかで、日々入る尾根や沢を変え、幅としては20kmほど一つの班が受け持つ。このように、クマが穴から出る時期に、里と山の境界をヒトとクマが歩いてお互いの領域を確認する。それは、里でのクマとヒトの遭遇による事故を未然に防ぐことにつながる。見つけたり獲れたりは、春の猟期の一割くらいだが、残りの見つけもしない日々も大事なのだ。歩ける範囲、背負って運べる範囲というのは、身の程が単位となっていてよいものだなと思う。
 小国町では、熊猟に行くヒトたちを、マタギとはいわず、山衆と呼ぶ。山衆のいない他の東北地域をみると、山際で定期的に発砲音をさせる装置に囲まれていたり、獣をよけるために人が柵に囲まれて暮らしていた。問いへは、命への尊敬という面からも応えることができそうだが、狩猟者というくくりの中で、小国の山衆を特筆する点として、複数人性や、里という空間に対しての関わりがある。

「コミュニティは場所に宿るか?」

インターネット、ギグエコノミーの出現で、コミュニティーがハブとなる人に宿り始めている。「中心のない組織は作れるか」という問いをここ数年考えている。コミュニティが場所に宿れば、個は複数のコミュニティを移動することが出来、組織の個々の複数性はコミュニティを、中心が変化し続ける組織とするのではと考えて、問いへの手掛かりとしている。少し話が飛ぶ。回遊する話をする。回遊は、英語にすると"Migratory"で、"Migratory"は、境界を越える群れの移動と日本語に訳すことが出来る。今回の展示の場所であったバー鳥渡。"Migratory"には、渡り鳥という意味もある。"Migratory" bodyは、「回遊する體(からだ)」を訳したものだが、"Migratory" bodyは「流動体」と日本語に戻すことも出来る。流動体は、面白い。流動体については、夏にでも話すとして、コミュニティーに話を戻す。
 場所に宿る領域を越えて、また別の場所にいく。そこには、ヒトがいて、その土地で手に入る素材と、それに慣れ親しんだ人たちが生んだ技術がある。いくつかの場所を季節をリズムに巡り、そこの環境でモノを造る。モノを造ることは、生きている時間や空間を具現化することで、いのちを燃やしてやる価値がある。
 福島の大玉村では藍、藍に必要な灰を手に入れるのは山形の小国、自分という文脈が、今まで無かったつながりを作る。作品ではなく、つくる場所をつくる。これが、前段に述べた問いへのアプローチで、建築と言っていい。
 ヒロセ写真研究室a.k.a.バー鳥渡で写真とは何かを、佐藤充さんに聞きながら、写真と建築の類似と相違を考えた。類似は、何をとるかではなく、その中から何を選び出すかという点。相違は、ユニットの大きさ。「建築を写真のユニットで考える」を、作ることの痕跡と、素材の選択で考えていきたい。
 展示最終日にヒロセさんから語られた、ブロック写真の目地は、そうした建築と写真を考えるアイディアの源泉だった。来年の写真展が楽しみである。

すでにある技術と、みらいの技術

技術を習うには時間がかかり、それとともに非言語体系ごと入ってくるので人生への影響が大きい。回遊することで、複数のコミュニティの重なりとなることは、ある意味インターネット時代のハブとしての重要性が増すことではあるが、それよりも、種子の伝播のように、何か発現するチャンスが意図せずカラダにくっ付いて広がっていくことに面白さを感じる。
 教育は、体系化できるようなものとは思えないけれど、もし可能性があるとしたら、そうした場所の記憶が鼓膜やなんらかの、膜を越えて共振したり、浸透することなのではないかと思う。
 すでにある技術も、使う際に自分の瞬間の表れであるので、これからの技術である。必要な素材や技術を手の届く範囲で使うことの面白さはここにあると思う。

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