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「daughter」 ー佐伯可奈ー

 「真っ白な陶器みたいな人」というのが彼女、佐伯可奈の第一印象だった。毎週木曜日の昼十二時、彼女はカフェ「daughter」のドアのカウベルをカラコロと鳴らす。他の人が入るときはガラガラとうるさいベルも、彼女が入るときには耳をくすぐられるような柔らかい音になる。いつも椅子の上で居眠りをしているマスターは、その音を聞くとゆっくり目を開き、コーヒー豆をミルの中にぽとぽとと落とし始める。「どうぞ」と、手書きのメニュー表をテーブルの端に置けば、一瞥もせずに「コーヒー、ホットで」とシンとした声で告げる。そして、会計の際に、予約していたコーヒー豆を一袋バッグの中にしまい、マスターに「来週も取り置きをお願いします。取り置き名は佐伯可奈で」と告げて扉をカラコロと鳴らし帰っていく。それが佐伯可奈という女だった。
 そんな彼女が、三ヶ月も「daughter」を訪れないときがあった。最初は心配こそしたものの、転勤か結婚かの理由で、きっと引越しでもしてしまったのだろう、と自分を納得させた。常連の店を何も言わずに去っていくその潔ささえ、彼女らしいなと思った。佐伯可奈が来なくなったとて、日常は今まで通り穏やかに淡々と進んでいく。ただ、少し木曜日が味気ないものになっただけだ。ただ、少しカウベルの音が好きじゃなくなっただけ。
 六月。湿気がジメジメと頭皮を湿らすようなある日、あの柔らかなベルの音が再び「daughter」に響いた。濡れたショートの毛先を白い頬にぺったりと貼り付け、ペールオレンジのリップを薄い唇にキュッと塗った佐伯可奈は、肌をピリピリと刺すような色気を纏っていた。
「あら、店主さんはいらっしゃらないのかしら」
「はい。もうお年でしたので、老人ホームへ。徳島の、自然豊かなところだそうです」
「そう……。それでは、あなたこれ、もらっていただける?」
 肩にかけた本革のトートから、慣れた手つきで木軸のシャープペンシルと薄汚れたオレンジの小さなノートを取り出し、カウンターに置く。
「もう二年になるかしら。私、店主さんと毎週交換日記をしていたの。んふ、古風でしょう」
 木軸のシャープペンシルは長年使い込まれたからか赤茶色に変色しており、ノートの四隅は柔らかくなって丸くなっている。
「もう終わりなのよ。でも、私なかったことにはしたくないの。あなた、これ読んでいいわ。だから、きっと……」
 そう言った佐伯可奈は、悲しそうに、しかし滴るように色っぽい女の顔で微笑んだ。それっきり、佐伯可奈に会うことはなかった。ノートも、開かなかった。


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