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「daughter」 ー山路三郎ー

 彼が目に入るたび、この人も年をとったな、と思う。この店で働き始めた当初はハツラツという言葉が一番似合うようなマスターだった。しかし、店じまい後に外の換気扇前でタバコを吹かしているとき、瞳の奥が水面を漂う小舟のように静かに揺れていて、このどうしようもない寄る辺なさにグッときてしまう女性はきっと多いのだろうとふと思ったことを覚えている。
 一回だけ、彼にタバコをもらいに行った。「おお、いいよ」と気前よく渡されたタバコはコンビニで買える中で一番ニコチンの弱いやつだった。タバコはあまり得意ではない、顔をしかめながら吸い込むのをマスターはケラケラと笑った。人差し指でコツコツと落とした灰がそよ風に吹かれて、道端のたんぽぽを汚す。
「あんた、大事な人はいるか」
「いないです、いたら辛いので」
「はっはっは、まぁ、そうだな」
 マスターがなにをおかしんでるのか全くわからず、横目でじっと見つめていると、彼はまるで愛おしいものを見るようにフワッと笑いかけた。
「いやぁ、君は綺麗だね。きっとこれまでいっぱい辛かったんだろう、いいんだ、それでいいんだよ。同じくらい傷ついてきた人と出会いなさい。傷の舐め合いというのも、なかなか悪くないものだ」
 あやすような、やさしい声色。
「嫌です。塩も涙も唾液も、他人のものほど傷口によく沁みます。それなら、一人でいる方がよっぽど……」
 するりと、指からタバコが転げ落ちた。足元のそれを睨み、立ち尽くしていると、マスターがぐりぐりとそれを踏み潰した。ふと、頭の上に大きな手のひらが乗せられる。たんぽぽに降りかかった灰をそっと払うような、柔らかくて暖かい手のひら。あのとき、人間は頭のてっぺんに「寂しさ」を飼っているのだと知った。人生で初めて撫でられた「寂しさ」は、心地よさげにぐるぐると喉を鳴らし、なぜだか涙が止まらなかった。

「俺、徳島行くんだ」
 そう告げられたのは、街路の桜がふわふわと揺らぐ暖かい日だった。すっかり真っ白になった髪、もう滅多に上がらなくなった口角、時折ぼうっと虚無を浮かべる瞳。なんとなくその時は近いのだと理解していたため、特に驚きはしなかった。もう、随分長い間、重篤な病が彼の体内を巣食っている。毎週木曜日のお昼間だけ病院を抜け出す日々も、もう半年になった。
「そうですか、寂しくなりますね」
 なんとなく彼の目を見ることができなくて、俯きがちでグラスにクロスを滑らせる。
「俺さぁ、娘いんだ。あいつは俺のこと父親だなんて思ってもいないだろうが、利口で優しくてべっぴんさんでよぉ」
「はい」
「あん子がちいこい頃に俺が離れちまったから、あんな寂しい瞳を持つようになっちまったのかなぁ。……もっと側にいてやれれば、なぁ」
「……」
「俺、」
 彼が泣いているのを見たのはその時が初めてだった。ただでさえ小さくなった体をもっとちぢこまらせて、ブルブルと震えている。まるで彼の周りだけ雪が降っているかのようだった。触れてしまえば、彼をかろうじて保っているなにかがホロホロと溶けて消えてしまいそうで、ただそれをみていることしかできなかった。
 一度、徳島の渦潮のポストカードが届いたっきり、彼の消息はわからなくなった。わからない方が好都合だった。わかってしまえばきっと、頭上の「寂しさ」がきっと激情へと変わってしまっていただろう。もう彼に撫でられることがないなんて自覚してしまえば、きっと耐えられないから。

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