男女平等

私はパンサーの向井さんが好きなのだが、先日向井さんがnoteで「男女平等」とは「それぞれ男性女性に誇りをもちながらどちらも平等」か「そもそも男女のカテゴリーが必要なく平等」のどちらを読者それぞれが思い描いているのかを問いかけていなさった。

正直私は後者しか考えたことがなかった。しかしコメント欄では前者のほうが多かったため、大変驚いた。

おもうに私が今まで自分の「女性」という性を日常であんまり気にかけてこなかっただからだろう。また、そうみられたくなかった。今まで世で認識されてきた「女の子らしい」というピンクだったりスカートだったりというものを避けてきたからだろう。動きにくいからスカートはそもそもはかないのだが、スカートなどを避けてきたのはそのものが嫌いというよりはおそらくなんだか「女性としてみられるのが少し嫌」なのだと思う。かわいいよりも強いとかしっかりしているとかってみられたい。

私の中では

女性らしさ=弱い

みたいな式が成り立ってしまっている。実際のところ全然そうではないのだが、なかなか一度成り立ってしまった式を頭から消せない。そして、人に弱さを見せたくないから、なんとなく嫌なのだと思う。
それに加えて単純にシンプルなズボン機能性も見た目も好きだ。

女性らしさ、あまり使われなくなって来た言葉かも知れないが、世の中にはたくさんあるだろう。服装だったり、言動だったり。

私はあまり周囲から言われることはなく自由に育って来たが、それでも、TVなどで「さしすせそ」(さすが〜・知らなかった・すごい・センスあるね・そうなんだという男性を褒める言葉)などといった女性は男性をたてるという役割を耳にしてきた。周囲から言われる機会がなかったからこそこのような役目に猛烈な違和感と嫌悪感を感じて来た。そこから派生して「女の子らしい」というものを嫌がった。変な理由だが、今でもスカートは履かない。もちろん、性を問わず、そうしたい人はすれば良いとは思う。

何故、私はあまり性を意識してこなかったのか

初めにも書いた通り、あまり性を意識してこなかった。理由は2つある。

一つ目の理由は私が社会に出ていないからだろう。

職場にもよるだろうが、今でも女性としての仕事みたいなものがあるところもあるのかも知れない。学校で教室で学ぶ分には特に性別は関係ない。しかしながら、学校を出たらそうはいっていられない部分があるのではないだろうか。仕事内容のほかに服装や化粧といった身なりにも女性らしさをより求められるからだろう。

二つ目は身近に男性が少ないからだろう。

私の父親は私が幼稚園の時に他界している。また男兄弟もいない。それに加えて「ガールスカウト」という女性しかいない団体でも活動して来た。

結果、私は女性らしさを求められずに自由奔放に生きてきた。庭で、木登りして樹液でベタベタになったりもした。火を起こしたりもした。周りに男性がいないからこそ、家庭内などで、何でもやってきた。

私が他の家で育ったことがないから分からないが、子供の頃のお手伝いの時点で自然と力仕事は男の子が洗い物などは女の子がといったふうに分かれている家もあるのではなかろうか。
私の叔母は時々そういう。
私が家で薄着でいると、女の子なんだからそんな格好しない。
テレビをごろごろしながら見ていると、ガールズ(私の姉や従姉妹も含む)はこっちきて手伝って〜。この時従兄弟はテレビを見ている。
叔母の言うことは間違っているわけではないのだが、一言多い。私はこの一言ですごいやる気が削がれる。


結局

私は女性らしくなりたくないし、そうなるつもりもない。多分変われないだろう。女性、男性らしさが無くなった頃にはスカートをはいているかもしれない。

だから、私は男女平等という言葉を「自身のせいにほこりを持つ」ではなく「性にとらわれずに生きる」と捉えたい。これは理想論で、社会に出て「女性」というレッテルを貼られて生きていないからこそいえるのかもしれない。でも、言える立場だからこそ私は言いたい。理想論でも言わなきゃ絶対に現実にはならないからら。そして、もしかしたらこの考えは社会にでる前の今しか思えないかもしれないから。
 
よくいう話かもしれないが、人はいろんなフィルターをもっていて、それが重なったのが個人だから、その色こそ、フィルターとフィルターの組み合わせこそが、個性だと思う。
でも、今の社会は容姿や性別のフィルターの色が濃すぎるのではないかと思う。そのせいでいろんな個性が見えにくくなっている。

また、ルッキズムについても書きたい。
長々と書いたし恥ずかしくなったらいつか消すかもしれないが...

これから1年、受験期になるので、さらに更新頻度が落ちるかもしれない.....



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