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殿、電柱に御座る

私はカメラ趣味者である。音の出る黒くて重い箱を持ち歩いている点では通信兵とかディスクジョッキーとかアマチュア写真家とかいう言い方もできようが、写真家というのはいささか正確でないように思ってしまう。フィルムもカメラも実用性よりも銘柄やカタチで選んでいる節があるあたり、どうしても純粋に写真を撮るだけではなくカメラという機械を追いかけているのだろう。

NikonのAiのレンズが良いと言った次の日にはAiの爪が邪魔だと言い始めるのはこの類の趣味者によくある悪癖である。猫も杓子もAIを担ぎ上げる世間に張り合えるほど節操のない有様を晒している身であるが、そんな私にもずっと撮り続けている被写体が少なくとも一つ、ある。

電柱だ。


この国の津々浦々、よほど人間が多いか少ないという土地でもなくば、道という道の空を横切っている電線。それに律儀に手を差し伸べ、支えて送り届けているのが電柱たちだ。変電所で起こされた電気は数度電圧を下げて送電鉄塔を伝い、ついには数千分の一の電圧となって電柱から各家庭へと引き込まれる。

したがって、吉幾三の故郷に電気が来るということは、即座に電柱の出現を意味する。電気の灯りの到着以来、戦後にかけて日本の街角を驚くべき速度で電柱たちが埋め尽くしたのは想像に難くないだろう。日本の山々の多くは人工林だが、常緑樹のスギ・ヒノキに次いで多く植林されたカラマツは鉱山で使用するほか、電柱に供する素材として植林されたものである。もっとも、ご存知のように今見かける電柱は多くがコンクリート製で、森の電柱たちは幸か不幸か金に変えられることなくすくすくと育っている。


どこへ出かけても大体見られるし、直線的で巨大で、しかもごちゃごちゃとややこしい器械にあふれた電柱ほど良い被写体はない。こう表現するのは「男性的」な側面を否応なく見せつけるようだが、10歩下がって見ればなんとすらりと美しい立ち姿を見せることか。今思いついたことだが、これは軍艦にも似ている。彼女らの「雄姿」に通じるものがあろう。

具に電柱のディテールを観察すると、彼ら・彼女らが色々な顔を持っていることがわかる。電柱は工場用に高電圧で送られてくる電気の電圧を下げて各家庭に届けるため、柱上変圧器(トランス)が備え付けられたものが多い。トランスも色々で、波板で覆われたもの、細長いもの、複数あるもの...電柱はトランスだけで、トランスの位置や間隔だけで大きく印象を変える。街灯や監視機器、電線の配置、傾きの細部のディテールが電柱一つ一つの容貌を形作っている。工場地帯と住宅地では電線の配置も異なるから、その土地によって偶然に出会える貌がある。

そんな偶発性の中で電柱を撮り歩くことは、人物スナップに近い体験である。道を歩いていれば、しばしば「撮らないままにしておくことができない電柱」に遭遇する。取り付けられた看板のせいか夕焼けのせいか、気付けば撮っているような電柱。それが身近にあったなら、単調さを嫌う心情との葛藤の中で角度を変え、時間を変えて撮ることになる。そうして、さまざまに変数(時・場所・方向)を持つ電柱写真がフォルダに沈澱してくるのである。

さて、複数の見解によれば私がこのような無機質を体現した(かのようにみえる)物体に惹かれるようになったのには数種類の原因が推定されている。大抵はアニメだ。

丸メガネをかけた15歳の私に聞いてみよう。決定打は『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)だという。この21世紀に入って急速に市民権を得たアニメには大量に電柱が登場することで知られている。構成主義的な柱がぐらぐら煮立つ常夏の青い視界を区画するのは、本作を見た方に少なからぬ鮮やかなイメージを残していったことと思う。本作における電柱シーンとして第拾八話のようなものを挙げる方は多かろうが、私の中でエヴァの電柱といえば第25話冒頭のそれであった。庵野監督が「機能美」ゆえに愛した電柱、傾いていればこそ良いのだという電柱、その荒廃しきった繊細な姿の描写は大変に美しい。

ところが、四角いメガネを着用した17歳の私は『serial experiments lain』(1998)だと言っている。lainは特定ファンに熱烈に愛されているアニメとして知られている(そして年々なぜか支持者を増やしつつあるらしい)。本作において電柱は人々をつなげるものであり、リアルとヴァーチャル世界(「ワイヤード」)の境だ。ネットワークを介した無意識下での常時接続を表す電柱。白飛びしたハイコントラストな画面に炭を垂らしたように立ち並ぶそれらは、『エヴァ』のそれほどディテールに富んでいるわけではないが大きな意図が込められたものには違いなかった。独特の効果音と澱む影が、美しい姿の向こう側として、新しい電柱像を私に示してくれたことは確かだ。

多くの人々にはほとんど意識されない一方で、生活空間に深く根ざし、コンテンツの中でさえ生き生きと立ち並ぶtelegraph poleは、現代日本に生きる人々にとって意識の表層に突き出した隣人だ。そしてこれからもそうあり続けよう。無電柱化が進んではいるが、せせこましい東京の街中でさえ完成するかは怪しいし、少なくとも私が生きている間にそれを見ることはないように見える。物言わぬ彼ら/彼女らを撮り歩くことは、しばらく止みそうにない。


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