無視

世界の若者に比べて

日本の若者は自己肯定感が格段に低い、

という調査結果がある。

親とか、出会う大人とか、友だちとか、教育の現場とか、

いろんな関係の中で育まれるはずの自己肯定感。

自己の確立とか

自己愛とか

僕は僕、私は私、ありのままでいい感。

外国の人と接すると、

私は僕は俺はははの主張でびっくりするけれど、

日本人には主語がなかったりする、

日本人の自己肯定感。

その醸成を阻害するものの一つに

「無視」というのがある。

お笑い芸の世界では

リアクション芸とか

「いじる」「いじられる」がお盛んですが、

人の言動(アクション)に

反応(リアクション)しないことから始まり、

理由をいわない、わからない、いわれのない、

無視。

いわゆる「いじめ」であり、人権侵害の始まり。

無視による疎外感は人格形成にどんな影響を及ぼすか。

「いじめ」の話ではないが、

障がい者を殺傷した植松聖の話。

彼は親からの愛情は存分に感じてすくすく育ったようだけれども、

「無視」に関する、

心に残っている出来事をいくつか挙げている。

小二の時の作文事件

図工の作品事件(いつのことか不明)

施設利用者救出事件

パンダ事件

小二の作文は、「戦争をするなら障がい者の背中に爆弾をつけて敵陣に突っ込ませれば戦争に行く人が減るし、その親にとってもいいアイデアだ」と書いたもので、この作文に対して、いつもはコメントをくれていた先生からなんのコメントもなく無視された、という事件。

図工の作品は、接着剤に絵の具を混ぜ、大砲の玉を立体的に表現した戦争の絵を描いた作品だったが、理由を告げられないままに別の絵に描き直された、という事件。

施設利用者救出の話は、やまゆり園勤務の時、お風呂で溺れそうになった利用者を助けたが、その家族からは何のお礼の言葉もなかった(無視された)、という事件。

パンダ事件は、パンダの着ぐるみで街を歩いたら、全ての人が大喜びで、クラブに行っても大人気で何しても大うけだったのに、パンダの顔を脱いだらさっと人波が引き、自分は無視された、という事件。

共通する思いは

「ちゃんと僕をみてほしい」という、

切なる心の叫びか。

これらの体験から植松が導き出した答えは

「世の中には言ってはいけないこと」があり、

そしてそれは誰も触れたがらない、

「真実」

だということ。

植松の曲解は

すべて世の中のせいとした。

そんな世の中を直す革命家となることで

自己を肯定しようとしたのではないか。


どうやら、

大人として、友だちとして、人として、

ちゃんと向き合わなければならない時がある。

その時

無視しちゃ、

いけない。




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