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虚像への自己投影

 最近SNS等で話題になったVtuberなのに中身見せるな勢と、全肯定勢の争いに疲れた本人がVtuberを名乗るのをやめるという騒動。
 ちょっと面白かったので個人的意見と感想をまとめてみようと思う。
 まず自分の立場を明確にするために結論から書いておきます。

結論:どうでもいいわ

 以下に記していく文章は、特定の配信者さんを否定するつもりで書いてはいないことをご理解頂ければ幸いです。
 また、記される内容は私の個人的考えで有ることも頭の片隅に置きつつ、読んで頂ければ幸いです。

固定概念に囚われた老兵

 Vtuberという言葉が生まれてからだいぶ経つが、その歴史をたどると時間がかかるので各々で調べて頂きたい。
 大事なのはこの文化が醸成されていく過程で、いつしかVtuberとはこうあるべきだという固定概念が生まれてしまったこと。
 初期に立ち返ると、Youtuberのような動画を仮想の姿(Virtual)で投稿する人をVtuberと呼んでいたが、今は動画をアップする人の方が珍しく、ライブストリーミングが主流になっている。
 この配信スタイルの変化によって、キャラクターはリアルタイムな受け答えが求められるようになり、よほどの手練れでない限り中身が全面にでてくる様になった。
 この変化後も相変わらず2次元のキャラクターが配信をしているスタイルのままで、次第に中の人がキャラクターを突き破り始めたのだ。
 ここで視聴者と配信者の心理的なギャップが生まれはじめた。
 立ち返って、初期のVtuberはキャラクターを重視していた時代があり、その名残で中身が飛び出してくる事についていけない人も居るのではないだろうか、そう考えた。
 視聴者の中にはキャラクターを見に来ている人も居て、一方でVtuberは【私】を見に来てもらっていると考える人もいる。
 このギャップが今回の軋轢を生んでいるのではないか。

Vtuberを名乗る功罪

 VtuberはなぜVtuberを名乗るか。
 Virtualの外見を背負って動画配信サイトを主軸に自己表現をする、総称するスタイルをVtuberというのではないだろうか?そう考える。
 ある意味正しいが、間違っている事もある。
 そもそもVtuberは自己表現の【配信者】のいちスタイルにすぎない。
 Youtuberと言われてどんなイメージを持つだろうか?そこに固定概念はあるか?
 Vtuberも同様で、彼らもただの配信者に過ぎないはずだ。
 なんとなく流行っていて、そのカテゴリーに属せばそれをきっかけに視聴者を集めることが出来る。
 ただの宣伝文句の一つでしかない、故にVtuberを名乗る。
 その配信者が何を見せてくれるか、何を聞かせてくれるかの方が重要であるにも関わらず、言葉が独り歩きしていると私は考えている。
 もしも、誰もがかわいい!かっこいい!と思える外見をしていて、誰にも負けない表現力を持った人がいればVtuberなど名乗らず【私】を名乗るだろう。
 ある程度の匿名性を持った上でYoutuberの様な配信者をすること、これがVtuberである。
 Vtuberという言葉の意味なんて存在せず、そこに特別なスタイルはなく、視聴者が勝手にカテゴライズした百人十色のイメージができあがってしまった。
 そしてVtuberもそのイメージに乗ってVtuberを名乗っている。
 本来のソレは何色でもないのに、フワッと頭の中にあるVtuberという言葉に囚われていないだろうか。
 お互いのVtuberへのイメージの違い、見たいもの見せたいもののアンマッチ、配信を受容する側がこれらを補正出来なくなった結果、黙っていられなくなった人間からご意見が出るのだろう。
 一つ声を大きくして言いたいのだが、Vtuberとは本来こうあるべき!と思う視聴者の考えは自由だとしても、他人の庭に土足で入り込んで文句を言うのは勘違い甚だしい。
 勝手に抱いたイメージを元に裏切られたと文句を言うのは身勝手だ。
 それを踏まえて以下に続く。

自己顕示欲の行き着く先

 主題と関係ない話題のように思える話をしたい。
 増長したイメージの果に今回の軋轢が生まれたと考えているが、中にはぶっ飛んだイメージ増長により生まれた【私】の表現方法がある。
 今回興味を持ったケースで問題になったのは中身の人がリアルの手を放送に写した、ぐらいの飛び出し方だった。
 私が見た飛び出しは、お付き合いを宣言する、結婚しました、子供できました、という芸能人のように自己のプライベート報告をSNSに写真付きで公開する人だ。
 こういうゴシップに興味を持つ人もいるだろうし、大手箱(企業)ならニュースになってもいいだろう。
 個人Vtuberさんのこういう報告を見ると頭の中に大量の?が浮かぶ。
 活動を通じて、中身の人と直接関係を持った人間達に報告をするなら、人生の大きなイベント報告として理解できる。
 顔を見たことがない視聴者相手に、配信者がこれを報告することに意味があるのだろうか?
 あるとすれば、自分を知ってほしいという欲望の発散でしかない。
 またはVtuberという大きなカテゴリーに属している事による、Vtuberのイメージを増長させてしまった個人Vさんの考え。
 自分の庭で、自分がどのように行動し、どんな手段で自己表現するのも自由だが、それを目にする一般視聴者がどう受け止めるか考えたことがあるだろうか。
 知りたいという熱心なファンが居るかも知れないが、無くても全く問題がないはずだ。
 むしろ知りたくなかった視聴者がいるとは考えなかっただろうか。
 この視点の欠落はVtuberさんのSNSの運用法から察する事が出来るが、これは主題から外れすぎるので別の機会に。
 個人Vさんが自ら作った第四の壁を自らが安易に超えてくるのは、他人の庭に土足で踏み込むという行為に類似することを覚えておいて欲しい。
 Vtuberさん側は虚像をまといながら虚像に自己投影をしている人が思っていたより多い、と言うことを改めて考えさせられた。

まとめ

 視聴者側にも求めるものがあり、配信者にも発散したい欲がある。
 需要と供給のギャップにより今回の騒動が生まれたと何度も言うが、視聴者側は見たくなければ見なければいいし、配信者側もやりたいようにやれば良いというのが私のスタイルだ。
 色々書いてきたが、個人的には好きにしろよと言うのが結論。
 結果がどうなるにせよ、その選択は自分のしてきたことで、他人はどうあがいてもコントロールすることは出来ない。
 自分の思い通りの世界を作るには、まず自分が変わるしかない。
 その言葉の意味を知っている人はそう多くはないだろうと思う。

蛇足
 個人Vさんの中には、演者として視聴者との間に第四の壁を作っている人が多い。
 今回のように【私】を虚像に投影しているのを見ると、第四の壁を破ってこちらに乱入した挙げ句、壁の存在を主張する変な人に見える。
 徹底的な意識は存在しないとおもうけど、やるなら最初から第四の壁なぞ作らなければ良いものを…。

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