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懲悪と救済⑴

〈懲罰としての死〉
幼い頃から大人たちに、「命を大切に」と教えられてきた。国語の教科書に書いてある戦争の話だったり、道徳の授業を通して、人間を含めた”生命”の貴さを知っていく。


そりゃあ自分だって死ぬのは恐いし、事故や事件に巻き込まれて痛い思いをするのは嫌だ。苦しみたくない。でも自分の親がいつか死ぬかもしれないということを考えると、いつも涙が溢れてくる。
小学生の頃に留守番をしていると、「もう両親に会えないかもしれない」「帰ってくる途中で事故にあってそのまま死んでしまうかもしれない」と、最悪の事態を想像して(大体杞憂に終るのだけれど)ひどく悲しい気持ちになったのを、今でもよく覚えている。


死や痛みは恐い。
それでも、命が粗雑に扱われる事件が世には絶えない。
そんな事件が起るたびに、テレビや新聞でそれを目にするたびに、遣りきれない気分になる。


”死刑判決が下った””控訴された””確定した”
死を以て殺人を罰す。死刑制度が日本にはある。


奪われた命の多寡は問題ではない。また、殺された人々の命が、受刑者ひとりの命と採算が取れるなんてこともない。
命は命である。罰として絞首刑に処される、敢えてその命を奪われるという事実は、なかなかに惨い。

ただそれでも、あの時のあの事件について極刑が下されたとき、
私は心から「遂に決まったか」と思った。


”死を以て償う”または”償わせる”ということ。
それは決して形式的に行われるのではいけない。
私たちがすべからく対峙しているのは、血の通った、生身の人間である。


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