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ジャングルジムの上で

彼は丘の上に佇み月食を待っている。
経験が彼をがんじがらめにしてしまったの。
人生への愛が高まれば高まるほど、
人間関係も連動するかのように厄介なものになってゆく。
まるできつく絡んだ糸のように自分ではそれをどうすることも出来ないの。

鋏を入れてしまえば別の扉が開くかもしれない。
でも彼はそれを怖れて望まない。

誰かが彼を小さな奴だと言ったけど彼は懸命に挑んでいるだけ。
小さな日々の営みを… 。
誰にも解らないけど、
それがずっと続き、これからもずっとずっと変わらぬ線路のように続いてゆくの。

小さな奴と呼ばれた彼は虚しさと時に怒りと、赤面したくなるやりきれなさを抱えて
袋小路を独りで行ったり来たりすることなんてしょっちゅう 。

小さな彼は大きな悲哀のドン底で時に誰にも聴こえぬように呟くの。
『もう草臥(くたび)れてしまったんだ』

ジャングルジムの上でかつて彼だってあんなに楽しくやっていたのに。
あんなに輝いていたのに。

あの頃の彼はなんにでもなれたはずなのに。
沈滞からの脱却を試みようとするたびに、いつも試みにあわせられるのは彼のほう。
『もうウンザリなんだ』
と彼は言うわ。

人々から受けたあらゆる光や影を処理しなくては…。
あらゆる人々のジェスチャーを見すぎて食傷気味の彼。
『もう誰も信じたくない』と彼は言うの。

今までのやり方を全て棄てて、
今までの愛も形も真理もすべて棄てて、
たとえ同じ線路でも新しい進みかたを見つけたはずなのに。

それは今はまだ解らない最悪な泥濘(でいねい)の中に居るとしか思えない
貴方に、与えられたとても見えにくいチャンス。
劣等感を表出するのは誠実な証拠よ。
まるで健気(けなげ)みたいに振る舞う偽善者には、何も貴方のことなど解りはしないわ。

彼は丘の上に座って、少年の頃からずっとずっと何億光年もの未来と過去の出逢う
その『瞬間(とき)』を待っているの。

どんなに歳をとってもそれは変わらない。
交わりの時が
全ての始まりだと彼は信じているから…。
でも渇いてクールな彼にはもう何も出来やしない。
彼は失敗することなど、もはや無いのだから…。
仔馬のようにギャロップであの丘の上まで駈けてゆくことすら無いのだから…。

ジャングルジムの上でかつて彼だってあんなに幸せだったのに。
あんなに輝いていたのに。

闇の中で、かかとをくじいた惨めな自分を、あるがままに引き受けること。
それはどうしようもなく恥ずかしいことだけど、まずはそこから始めるしかないのね。
それはクールな人間でも健気にふるまうことでもない。
貴方がもうやめたいと思えば、
貴方がそうしたいと思えば、
貴方がもう一度幸せになりたいと思えば、
それは多分既にもう貴方の目の前にあるのよ。

私を棄てて
怖れず貴方の歩みを貴方の未来へ向けて。
貴方が決して愛してはいない人であっても、
貴方にはきっととても必要な貴方の人生の一部なのよ。
傷の深さが貴方をがんじがらめにしてしまった。

でも傷ついたのは貴方だけじゃない。

貴方のかたくななプライドを越えて、
貴方が嫌いな人ともう一度ひとつになった時、
貴方の嫌いな人は貴方の世界に絶対に必要な愛そのものだったと、
いつか…
きっといつの日か…
気づきを得る時がくるわ。
私を棄ててそのことを思い出してね。
その今にも壊れそうな瀕死の真実を…。
それはきっと頑固なまでに貴方が心を開き、
帰ってくる日を待っていてくれる…。

だから私を棄てた意味が生きるはず。

今でも尚、
今でも尚…。

私は貴方の棲む東の空を見つめ続ける。
多分 死ぬまでそれは続くわ。

あの女性(ひと)が喜び安堵してくれることは貴方の世界に再びきっと…
再びきっと…。
それは頑固なまでに貴方が来るのを待っている。

貴方が丘の上で月食を子供の頃からずっとずっと待ち続けてきたように、

あの女性(ひと)もまたきっと…
思い出してね。

私を棄ててそのことを思い出してね

それは頑固なまでにきっと貴方を待っていてくれる…。

愛しいひと
思い出して。

ジャングルジムの上でみんなであんなに語り合ったことを、
あんなに幸せだったことを…。

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