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人はパンのみに生きるのか

私は今、障害者グループホームの開業・運営サポートを生業としている。障害者グループホームにはもう30年ほど前から支援者としてかかわってきた。その中で、グループホーム利用者の通院同行を誰がやるのか、という問題が制度の変遷の中で一つの問題として浮上してきた。

私がかかわった頃はグループホームの支援者が利用者の通院に同行することに一片の疑問すら感じなかったのだが、支援がサービスという形になり分業化されることによって生じた問題である。

とあるグループホームの経営者が「お金にならないなら通院同行なんかやらなくていいんじゃないのか」と発言した。

経営者としたら至極「正論」である。全き「正論」であり、経営の理にかなっている。話はこれで終わる。付け加えることなど何もない。

現に、通院同行はやらないというグループホームも「普通に」ある。

資本主義において利潤を産み出す行為こそが生産であり、労働とは資本を拡大するための行為であり、すべての労働は費用対効果のもと貨幣価値に換算される。

ほとんどの経営者はそう考える。そして、必ずこう言う。「経営が安定してこそ利用者の幸せが保証されるのだ。倒産したら利用者の幸せなどない。だから、経営あっての福祉なのだ」と・・・

確かに論理に矛盾はないかに見える。この理論は決して営利法人に限ったことではない。あながち間違っているとも言えない。措置に対する選択の自由と権利、更には最大多数の最大幸福といった視点や哲学から捉えると正しさとは相対化される。

我が国の構造改革が福祉にも波及し社会福祉基礎構造改革により措置から契約へと制度がパラダイムシフトをなし、福祉が市場に飲み込まれてから20年が過ぎた。

生きにくい困難さを抱え社会で風雨に曝されて生きていく人たちがいる。それが障害であったり、困窮であったり、あるいは介護、依存、虐待、犯罪の被害や加害であったりする。それらさまざまな障壁を抱えている人たちとの関係性を「サービス」という貨幣価値行為に還元したことで、この問題は生じている。

経営者にとって利用者は流動資産である。資産であるから「ご利用者様」なのである。「障害者はテレビを見るんですか?」「障害者の部屋にはエアコンがいるんですか?」「居室にテレビがあればリビングにはテレビはいらないでしょう」「障害者は美味しいものを食べるんですか?」とまで言う経営者もいる。

これらの問いもまた市場経済という価値観念を是とすれば極論として問いの立て方は正しい。

その発言をした個々人を責める気は微塵もない。なぜなら、資本主義の必然だからである。ほとんどの経営者はそう考える。

福祉事業の経済構造は極めて明解である。利潤と支援とは相反関係にある。過剰な労働は剰余価値を産まない。労働と利益が相関関係にはないのである。

簡単である。儲けるには支援を薄くすればいい。(人件費を抑えるのも同義)

なにも、経済体制を転換させよと檄を飛ばしているわけでもない。何かのイデオロギーをアジっているわけでもない。

ただ、あまりにも哀しい。

「お金にならないなら人を支援しなくていいじゃないか」「安くてまずい飯を食わせて儲けて経営を安定させられるのならそれでいいじゃないか」そう考えることができるというその心のありようがあまりにも哀しい。その言葉に魂を乗せて発するということがあまりにも哀しい。

イエスの足に高価な香油を塗った罪深き女性は金銭では得られないものを得たであろう。

思考は深く沈殿し、言葉は消滅する。パンを至上としている人には言葉は通じない。

これはモノローグである。


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