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がん患者の家族の気持ち

あの時、父に末期癌が見つかって、私は癌患者の家族となりました。癌患者の家族は『第二の患者』と呼ばれるそうです。そのくらい、ショックは大きく、終わることのない闘病期間、(いや、終わってしまっては困る、それは死を意味してしまうから)、ずっと、24時間朝から晩まで毎日毎日ずっと、首にナイフをつきつけられているような、崖から腕一本でぶら下がっているような、そんな緊張感を強いられます。

最愛の父をなんとしてでも助けたい、苦しみを無くしてあげたい、悲しみを減らしてあげたい、全ての願いを叶えてあげたい、奇跡を起こしたい、との想いで、私はずっと強烈なアドレナリンが出ているような状態でした。だから、首にナイフを突きつけられた状態でも笑顔で明るく前向きに、活動的に優しく過ごせました。少なくとも、父や家族の前では。

私がプラスのエネルギーで生きていれば、父にも良い影響があると、免疫力が上がると信じて、たくさん笑って、父をたくさん笑わせました。非科学的でしょう?分かっています。でも、藁をも縋るんです。

一緒にお笑いを見て、眉毛を下げて大笑いしている父の顔が今でも忘れられません。忘れるわけありません。楽しそうだったな、幸せそうだったな。私が死ぬまで、宝物です。

家のベランダや室内に観葉植物をいっぱい置いて、空気を綺麗に、視覚的にもホッとできるようにしました。宇宙飛行士がロケット内の酸素清浄のためにサンスベリアという観葉植物を持っていくと聞いて、父の寝室にサンスベリアをズラっと並べたりして。父はびっくりしただろうな笑、でも、素直に受け入れてくれてました。「なかなか良いやないか」なんて言って。

食事では有名な療法があるのだけど、スープとか。もちろんそれは全部取り入れつつ、でも父が楽しめることを優先して、流行りの食べ物とか買って行ってワイワイ言いながら食べたりしてました。

親孝行といったら結婚とか?と思った私は結婚を決めました。父がホッとしてくれるかなと思って。何より孫を産みたかった。すでに姉の子供達、父にとっての孫達を溺愛していたので、それならばもっともっとその幸せを増やして届けたいと、私は思ったのです。

やっと授かったお腹の子が臨月の頃に、父は旅立ちました。

父の様子から、覚悟はしていました。ここ数年色々調べてきて知識もつけていたので、その時が来ていることはおおよそ見当がついて。だからって平静でいられるわけありません。いよいよ首に突きつけられていたナイフがグリグリと深く刺さっていくような感覚。でも目の前には父がいる、家族がいる。穏やかに、穏やかに、私が泣くわけにしかない、悲鳴をあげるわけにいかない、と自分に言い聞かせて、なんとか冷静なフリをし続けました。笑顔をさらに増やしました。明るく、楽しい雰囲気を私が父に送り込まなければ、終わってしまう。父が、終わってしまうから。

あの人は大変なのに笑っていられるなんて凄い、なんて良く言うけれど、そうじゃない。笑ってないとやってられないの、笑ってないと、精神が保てない。そのくらい、ギリギリなんです。

人は皆いつか死ぬ。
だから、もうすぐ死んじゃう父は特別じゃない、それに、私もいつか死ぬからまた父に会える。だからサヨナラじゃないから、またね、だから。あの頃私は常に自分にこう言い聞かせていたと思います。

あとは、苦しまずに行かせてあげたい、縋るのは、その希望でした。

最後2週間、父は入院しました。コロナ禍で面会も許されず、父は1人で逝きました。考えるだけで胸が痛い。苦しい。ギリギリ意識があった時、オンラインで面会が許されました。家族でワイワイうるさいほどに普段通りに楽しく話した後、そろそろ疲れちゃうから切るねと言って、父は『バイバーイ♪』と笑顔で言いました。お茶目な父の顔、声。それが私たちが聞いた、父の最後の言葉。

父が旅立って、息子が生まれて、私は末期癌患者の家族を終えて、母親になりました。ナイフは、もう突きつけられていないけれど、ナイフの跡の痛みは今も消えません。きっと一生消えないでしょう。消したくもありません。

癌患者の家族は、人にも依るでしょうが、多かれ少なかれこのくらいの精神状態で本人と一緒に闘っています。終わっても、終わることなく。

この恐怖を、覚悟を、想いを、癌に関わらずどんな病気でもそれに関わるお医者さんには知って欲しい。決して事務的に、量産的に、サクサク流して行って良いものではないのです。

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