『セクシー田中さん』原作者自殺で考えたこと

セクシー田中さんの原作者が自殺してしまった。ドラマが好きだったから、争いが起きたことも、こんな事態になってしまったことも、ただただ悲しい。当初からいくつか思うところがあったので書いてみる。

誰に責任があるのか

自分は当初、制作過程における作家同士の衝突の責任はプロデューサーにあると思った。「原作に忠実ならドラマ化OK」と原作者が厳しく条件付けした企画に対し、作家性の強い脚本家をプロデューサーは連れてきた。こんなプロジェクトが問題なく進むはずがない。

でも、プロデューサーの裁量を超えた様々な事情が絡み合い、ミスマッチと分かりつつも相沢さんに依頼せざるを得ない状況だったのかもしれない。

ではそもそも原作者が断れば良かったじゃないか、そこまでこだわりが強いなら二次創作を許すべきじゃない、とも思うが、小学館との契約や何らかのシガラミにより承諾せざるを得なかったのかもしれない。

結局我々視聴者には内情は知り得ない。いったい誰に責任があるのか、その量の比はどうなのか、何も分からない。今はただ起こってしまったことを悲しむことしかできない。

ひとつ言えること

でもやはり、我々には知り得ないことだからこそ、居酒屋で関係者と愚痴るに留めておくべき裏側のゴタゴタをSNSに中途半端なかたちで書き込んだ相沢さんに非はあるよなと思う。

自殺に対してではなく、原作者を公の場で一方的に貶め、本人をも巻き込んだSNS上の不毛な争いを引き起こしたことへの非だ。
視聴者の満足度も高く好評のまま終わった作品の後味をわざわざ悪くする必要なんてなかった。

大なり小なり不満や理不尽はどこの現場にだってあるだろう。それは内部に留め公には美しいものだけを差し出すのが創作のプロではないのか。

SNSユーザー達が騒ぎ過ぎだったとも思うが、彼らを責めても仕方がない。騒ぎ過ぎが起きやすい場、構造になっているから、システムを抜本的に改良しない限り状況は変わらないだろう。
影響力のある人は特に、SNSはそういう性質のものだという前提で立ち居振る舞いに注意する必要があると思う。

自殺について

自殺の責任の方まで「相沢さんや関係者のせい」とするのはさすがに行き過ぎだと思う。それとこれとは分けて考えないと。

自殺の報を聞いた時「え?なんで?しかも原作者の方が?」とまず思った。
ネットでは原作者擁護の声の方が遥かに大きかったし、日テレや小学館から圧力がかかりXでの投稿削除と謝罪を強要されたのだとしても、"自殺を選択するまで追い詰められた"というのが腑に落ちなかった。

擁護、応援の声より非難の声の方ばかり気になって過度に自己否定的になり落ち込んでしまう性格だったのかもしれない。"田中さん"みたいに。出版社に嫌われたからもう漫画が描けない、私は終わりだと将来不安が膨らんだのかもしれない。

それにしても事象に対する反応が過剰に見え、自殺の原因が本件だけだとは自分には思えなかった。

50歳の大人が自殺を選ぶ理由は1つや2つではなく、100も200もあるものだと自分は思う。いくつかの大きな絶望と、たくさんの小さな絶望が本人も自覚しないところでいつの間にか積み重なっていて、ついに限界が来たとき死を選ぶ、そういうものだと思う。精神薬の作用だって考えられる。

直近の出来事だけを見て「Aさんのせいだ」と決めつけるのは危険だし、他者の人生への想像力も足りてないと思う。
その出来事がきっかけだったとしても、それは表面張力で何とか保っていた絶望のコップが溢れる最後の一滴だったかもしれない。

だとしたら、一滴だけ注いだAさんにコップの水全部の責任を負わせるのは間違ってないか。あまりに酷だ。それが一滴なのか半分なのか全部なのかは亡くなった本人しか知り得ないし、本人さえよく分からないまま事に及ぶ場合も多いだろう。

「〇〇のせいで〇〇さんは自殺した」なんて短い一文にまとめられるほど人間は単純に分かりやすく出来てるのか。
そうやって他者を単純化して理解してさっさと片付けてしまいたくなる衝動が自分の中にないか。擁護しているつもりが冒涜になってないか。

相沢さんや関係者に「自殺の責任は感じないで」と言いたい訳じゃない。
ある人が自殺してしまったとき、他人を責めること、自分を責めることってエスカレートしがちだから、この捉え方をブレーキとして少し落ち着こう、冷静になろう、特に他人を責めたくなった場合は、という自戒のつもりで改めて言語化してみた。

ある程度因果関係を仮定し再発防止に取り組むのは社会としては必要なことだが、個人としては、ある悲劇に対し白黒判断を付けることには慎重でありたい。


ハマっていたドラマについてこんなことを書くことになるとは。悲しい。

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