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禍話リライト「赤いスリッパの女」

もうすぐクリスマスという時期。街を行き交う人々が厚着になる頃だという。手塚さんという男性が学生の頃、友人の芝浦さん(いずれも仮名)と体験した話だ。


「おい、さっさと風呂に入れよ!」
前からやってきたホームレスらしき男性は、急に声をかけられてむっとした表情で顔を上げたものの、すぐに顔を伏せて道の端へと逸れていく。そう声を発した芝浦が、学生にしてはずいぶんと恵まれた体格だったからだろう。実際に彼は学校でも活躍が有望視される、武道系の部活の現役部員だった。

見ず知らずの相手であっても、少し奇妙なところがあればついつい声を出してツッコミを入れてしまうような手合いの厄介な知り合い。あなたの周りにもいないだろうか。
隣にいる友人、芝浦もそういう人間だった。面倒な性格だったが、この性根のおかげで面倒ごとに巻き込まれたのと助けられた経験はほとんど半々。だから何とか友達付き合いを続けられている。
彼とは通う塾も同じで、その日も寒さに文句を言いながら連れ立って夜道を帰っていた。自販機で何か温かいものでも買うか、と白い息を吐いていた僕達の視線の先。頼りない街灯の光の中に動くものがあった。

女性だ。
こちらへと歩いて来る。何てことのない、どこにでもいるような普通の女性。冬という季節に相応しい、コートを羽織った普通の恰好だった。ただし履いているスリッパを除けば。

「えっ?」

思わず間の抜けた声が漏れる。100円ショップに売っているような、何の変哲もないスリッパだ。ちょっと近所のコンビニまでとか、ゴミを捨てにだとか、そういう時につっかけるくらいならまだ何とか理解できないこともない。だが周囲にそういった場所はない。また女性が浮かべる表情はひどくやつれていて、近所へふらっと出かける途中というよりもまるで長時間歩き疲れたかのようだった。

(これは……関わらない方がいいな)

そう思ったのは自分だけだったようだ。ちょうど女性が僕たちの横へと差し掛かった時――

「それ、足元寒くないんですか!」

案の定、芝浦は女性が通りすがる時に止める暇もなくそう声を掛けていた。おおよそ、彼にこういう声をかけられた人間の反応は二つだ。驚くか、あるいは無視をするか。でも彼女は、そのいずれでもなかった。

「でもねぇ、もうこれしかないんです」

顔見知りに声をかけられたように、愛想笑いを浮かべながらぺこぺこと頭を下げ、そのまま通り過ぎる。
「これしかない? いやいや、んな訳ないっしょ! 他の服はちゃんと持ってんのに、スリッパしかないとか!」
芝浦は侮蔑の色を隠さず、女性に聞こえるような大声で続けている。女性の姿が見えなくなるまでじろじろと無遠慮な視線を送った後、彼は僕に向き直ると「おい、寒いからコンビニで何か買おうぜ」とまるで何事もなかったかのように歩き出した。

先に自分の会計を済ませて、レジの横で芝浦の買い物が終わるのを待っていた時。ポケットにあると思い込んでいた財布が見つからなかったのだろう、店員に「ちょっとスンマセンね」と断ってから鞄を漁り始めた。
「お前がコンビニ行こうって言ったんだろ、サイフくらい――」
「……うわっ」

準備しておけよ、と言いかけた時。芝浦が小さく叫んで鞄を閉じた。
どうした、と聞くより先に彼は僕を見て「ごめん、悪いんだけれど立て替えてくれ」と申し訳なさそうに言う。面倒だったが店員と、そして芝浦の後ろに並んでいる他の客の視線が刺さった。仕方なく小銭を出したが、彼は僕と自分が買った缶コーヒーを置き去りにしてさっさと店を出て行ってしまった。慌てて追いかけ、その手に缶コーヒーを押し付ける。
「ほら、お前のだろ」
彼は缶コーヒーを受け取ったものの、どこか上の空だった。
「どうかした?」
「……ちょっとごめん」
芝浦は路地にしゃがみこむと、いきなり鞄をひっくり返した。教科書やノート、筆記用具なんかがバラバラと地面に撒かれる。
「バカ、お前何やってんだよ!」
芝浦の奇行につい声が大きくなる。散らばったものの中に財布を見つけたが、彼の目的は違ったようだ。中身を全て出し切ってしまっても、鞄を逆さにして執拗に振っている。
「さっき、さっきは、一番上にさ、スリッパがあったんだよ」
「……何だって?」
「だから、スリッパ! 財布出そうとして、鞄をあけたら、さっきの女が履いてたような赤いスリッパがあって、だから俺、驚いて鞄を閉めちゃって……」
「んな訳ないだろ、何言ってんだよ……」
そういって宥めるものの、芝浦は「雑に突っ込んだって感じじゃなく、つま先を揃えてきちんと入れたみたいに入ってて、俺びっくりしちゃって……」と相変わらずぶつぶつと続けている。
「見間違いに決まってんだろ、早く片付けて帰ろう」
自分で言いながら、見間違えるはずはないと分かっていた。彼の鞄から散らばったものの中には、赤いスリッパと見間違えるようなものはどこにもない。芝浦自身もそれに気付いているのか、なんとか散らばったものを仕舞って鞄を抱えたものの終始無言のままだった。

「ただいまーっ」
我が家の玄関を開け、居間へ入ると父と兄がすでに食卓へと着いていた。僕もそれに続こうとソファに鞄を放り投げる。
「もうすぐ晩御飯できるから、手洗いとうがいしてきなさい」
台所で料理をしている母にそう言われ、はいはいと呟きながら洗面所へ行く。料理を並べた母を手伝おうと、台所へ向かったその時だった。
固定電話がけたたましい着信音を発し、一番近くに座っていた兄が立ち上がると受話器を取る。一言二言話してから僕の名を呼んだ。
「だれ?」
「芝浦君だよ」
「……芝浦が?」
彼は何度かうちに遊びに来ていたため、兄とも面識があった。しかし先ほどまで顔を突き合わせて話していたばかりなのに、何用だろうか。疑問に思いながら受話器を受け取る。
「もしもし? どうした?」
『スリッパが……』
聞こえてきたのは、絞り出すような芝浦の声だった。
「は? スリッパがどうしたの」
『家に帰ったら、スリッパがあって……』
僕は呆れながら「いや、お前さぁ。スリッパくらい誰の家にもあるだろ」と言い返した。しかし芝浦は僕の言葉に取り合わず、堰を切ったようにつづける。
『うち、今日は親父が出張でさ。母ちゃんもママさんバレーかなんかの会合で、今は俺一人なんだよ。一人のはずなのに、家に帰ったらスリッパがあって……』
「だから、スリッパなんて――」

『うちのはあんな赤色じゃないんだよ!』

急に大声になった芝浦に、僕の声が遮られる。
『上がり框にちゃんとつま先揃えて並べてあって。はいどうぞ、いつもコレ履いてるでしょっていうみたいに置いてあったんだよ! ウチ、電話は玄関入ってすぐの所に置いてあって、そこから今お前の家に電話してんだけど、今もすぐ横に置いてあるからチラチラ見えんだよ、もうどうしていいか……』
やがて芝浦は半ば嗚咽混じりの声で、どうしようどうしようと繰り返し始めた。厄介な性根の友人だが、この様子は嘘でも只事でもない。
「分かった、今日はもう俺の家に来いよ。親には話しておくから」
『……いいのか?』
「仕方ないだろ」
『分かった、ありがとう……じゃあすぐ行くから!』
受話器を置くと、ただならぬ様子が伝わったのか心配そうな表情の父が後ろに立っていた。
「大丈夫か? 芝浦君なんだろ、今の」
「そうなんだけど……」
まさか「家に帰ったら見知らぬスリッパがあって混乱している」なんて、言えるはずもない。だが何も説明せず家に招くというのも無理な話だろう。
「何か、ちょっと混乱してるみたい。今夜は親も帰りが遅いみたいだし、とりあえずうちに来いって言っちゃったけど……大丈夫だった?」
「いいよいいよ、高校生っていってもまだ子供だしなぁ。そういう時もあるだろ」
全て説明した訳でもないが、嘘を言った訳でもない。こういう時はおおらかな気質の父に感謝する他なかった。

だが、それから一時間が経っても芝浦は現れなかった。
「……遅いわねぇ」
母がラップのかかった夕食を見て呟く。すでに僕達家族は食事を終え、芝浦のために用意した分はすっかり冷めていた。
「大丈夫なの、迎えに行ってあげたほうがいいんじゃない?」
「俺が電話に出た時も、何だか随分テンパってたぞ」
母や兄の声にも焦りが滲んでいる。父は頷くと車のキーを手に取った。
「もう遅いし、迎えに行こう。車を出すよ」
父の言葉に頷き、僕も上着を羽織ると連れ立って車庫へと向かった。
5分もかからず到着した芝浦の家は静まり返っており、どこにも人の気配がない。チャイムを鳴らそうとした時、わずかに玄関が開いていることに気付いた。嫌な予感はしたが、父と顔を見合わせてそっと開く。人の気配はなく、そして赤いスリッパとやらも見当たらない。どうしたものかと考えあぐねていた時。

がちゃん ぱたん
がちゃん ぱたん

静かな家の、暗がりの向こうから。そんな軽い音が聞こえてきた。
「……お邪魔しまぁす」
一応そう声をかけてから靴を脱ぎ、屋内を進む。音が発せられている方向は家の奥。記憶にある限り、そこは芝浦家の風呂場だった。
「何なんだよ……」
ぼやきながらもじわじわと歩みを進めている最中、音の正体に思い至る。風呂場と洗面所を隔てている、樹脂製のあの何とも頼りない二枚折りのドアだった。それが何度も繰り返し、開いては閉じ、開いては閉じられている。
脱衣所に辿り着いた時。僕と父は膝立ちになってぶつぶつと呟きながらそのドアを開閉し続けている芝浦の姿を見つけた。彼は僕らにまるで気付いていないようで、相変わらずドアにかかりきりだった。
「芝浦、何をやって――」
その時になってようやく芝浦はドアから視線を外す。だがその視界に僕たちを捉えてはいなかった。
「そうだ、洗わなきゃ、洗わなきゃ……」
呆然としている僕たちの間をすり抜けていく。そして足元の靴を拾い上げると、裸足のまま庭へと飛び出した。
「おい、芝浦!」
彼の姿を追って庭へと出ると、芝浦は蛇口を思い切り捻ったところだった。ホースからじゃばじゃばと流れ出した冷水を、水が自身にかかることも厭わず地べたに置いた靴へと注ぎ続けている。
「何やってんだよ、お前! しっかりしろってば!」
焦点の定まらない目で水を注いでいた彼の肩を何度もゆさぶると、ようやく正気に返ったようだった。
「とりあえずここはもういいから、鍵だけ閉めて車に乗りなさい」
父にそう促され、芝浦は力なく頷いた。

――後で聞いたところによると。
僕との電話を切った直後。家を出ようとした時、洗面所から音がしたそうだ。がちゃ、と。あのドアを開く音が。独りでに開くような仕組みでない。続いて洗面所に、誰かいるような物音がする。
「親父、帰ってたのか?」

そう言いながらドアを開けた時。確かに、風呂場には誰かがいたのだという。家族ではない誰かが。

「――そこから1時間くらい、ずーっと説明されてさ。でも何を説明されたか全然思い出せないし、そこにいたのが男か女かも覚えてないんだ。でも俺も反省するみたいに正座して、ずっと話を聞いていて」
「誰なんだよ、それ……」
憔悴しきった顔で打ち明ける芝浦の話を聞いていると、こちらまで怖くなってきた。隣で聞いていた父も何が何だかという表情だったが、落ち着かせるように父が芝浦の肩を叩きながら声をかける。
「とりあえず、今日のところは家に泊まりなさい。お母さんは何時頃に帰ってくるの?」
「確か、午後10時くらいには帰ると言っていました……」
時計を見上げると、ちょうどそれくらいの時間を差していた。
「心配しているだろうから、電話をしておいた方がいいな」
「じゃあ僕がしておくよ」
芝浦は正気を失っていた先ほどよりはマシな顔色に戻っていたが、まだ落ち着かない様子だった。彼を居間に残し、着信履歴から芝浦家の番号を呼び出す。数コールののち、『はい、もしもし?』と女性が応答した。
彼の母親だろう、声色から少し切迫した雰囲気が伝わる。夜更けに帰宅したら息子がいないのだ、焦るのは当然だろう。
「すみません、芝浦君の友達の手塚です。彼、なんだか家に独りで心細くなっちゃったみたいで今うちにいるんですよ。で、もう夜も遅いから今日は泊まれって父が言うもんですから、ご連絡をと思いまして」
『あぁ、なんだそういうことなの! びっくりしたわぁ』
受話器の向こうから聞こえる声に、明るさが戻る。
『よかった、ねぇ! 今手塚君の家にいるんだって!』
声が少し遠くなる。受話器を口元から離し、背後にいる誰かにそう報告したようだった。
「すみません、もっと早くお電話できればよかったんですけれど……」
口ではそう言いながら、心中には違和感があった。芝浦の母は、今一緒にいる誰かに話しかけた。でも芝浦は両親との三人暮らしで、他に家族はいない。そして父親は出張で、今は家にいないはずだった。
僕の疑念が伝わったのか、受話器の向こうは無言になった。彼の母も、その背後にいるらしき誰かも、何の声も発しない。何か言わなければ、と沈黙に耐えかねたその時。


がちゃん ぱたん
がちゃん ぱたん


あの音だ。
そう気付いた瞬間、失礼だとは微塵も思わず受話器を叩きつけるようにして通話を切った。


翌朝、手塚さん一家は車で芝浦さんを家まで送り届けたそうだ。芝浦さんだけではなく、車中の手塚さん達も一様に憔悴していたのは、誰かが深夜にインターホンを何度も何度も鳴らしたためほとんど眠れなかったからだという。途中警察に通報したものの、生憎逃げられたため犯人は分からずじまいだった。
友人の家で一泊した息子を出迎えた芝浦さんの母は、どこにもおかしいところはなかった。だから手塚さんは、電話で抱いた違和感は何かの勘違いなのだろうと自分を無理矢理納得させた。
「何かあったら連絡してくれよ」と言い残して別れたが、後日芝浦さんが急に転校した等というオチはない。奇妙なことがあったのはその日だけだという。

少しばかり変わっているからといって、見ず知らずの人に声をかけてもろくなことにはならない。そういう話である。


【出典】
 本稿は膨大なホラー知識と実話怪談のレパートリーを揃えるかぁなっき氏が語り手の「猟奇ユニットFEAR飯」による実話怪談チャンネル「禍話」で過去に放送された内容を、若干のリライトを加えつつ文章に起こしたものです。
ただし元となった「禍話」2022年12月17日放送分は通信障害が原因で、通常のツイキャスではなくTwitterのスペース機能を使用して放送されました。そのため音声のアーカイブは公開されておりません。
 現在は毎週土曜日午後11時から約一時間に亙り青空怪談(著作権フリー)が放送されています(ただし2024年6月はお休みされるとのこと)。本稿を読んで興味を持たれた方はぜひ。
【以下参考】
禍話(@magabanasi)
https://x.com/magabanasi
禍話 簡易まとめWiki(有志によるまとめWikiです)
https://wikiwiki.jp/magabanasi/

甲冑積立金にします。