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むしはむものたちの家

重く冷たい扉を開くと、まだ薄暗い朝の光景が広がっていた。白い息を吐きながら外へ出て、扉を閉める直前。廊下の奥に兄の姿が見える。
生前と同じ生気のない顔。生きている頃に比べ鬱陶しさは薄れたが、だからといって無になる訳ではない。近所迷惑も顧みず、力任せに扉を閉めた。

誓って言うが、俺は殺していない。両親の遺産を食い潰し、家族の思い出が詰まった家を丁寧にゴミで埋めて行く兄。そのゴミに足を取られて階段から落ちたのだろう、あの日俺が帰宅すると兄は首を妙な方向へ曲げてひゅうひゅうと虎落笛のような息を立てていた。
殺してもいないが、助けもしなかった。翌朝まで適当に時間を潰し、再び帰宅すると兄は予想通り冷たくなっていた。
幽霊となった兄を初めて見た時はさほど驚かなかったが、化けて出る程度に未練があったことは意外だ。未練ではなく俺への怨念だったとしても、ただ見つめてくるだけで何も実害はない。兄貴の幽霊との生活は、気を遣う必要がないだけ前より楽だった。

仕事を終えて帰宅した時。いつも通りの静かな家なのに、少しだけ胸がざわついた。返事をするはずもないが、つい「兄貴?」と呼び掛ける。居間にも、仏間にも姿はない。であれば二階の自室か。
「入るぞ」
不必要な断りを入れてからドアを開く。ゴミと油と、何らかの異臭が冷たい空気とともに流れ出る。やはり兄貴はそこにいた。
だが一人ではなく、隣にいたのは赤い着物を纏った……恐らく女だった。
体は縦に引き伸ばされたように長く、首はさらに長い。胸元にまで伸びたそいつの口吻に胸を刺され、兄貴がのそのそと藻掻いている。女の黒い目が俺を見た。

何事か兄貴が呻く。死んでから初めて聞くその声は、掠れているが「逃げろ」と言っているような気がした。
死んでまで兄貴面かと毒づいた時。廊下の奥で何かに踏まれて床が軋んだ。振り向くと、毒々しい翡翠色の着物を纏い、袖口から手が鎌のように伸びた女がそこにいた。(続く)

甲冑積立金にします。