見出し画像

素人が哲学ラジオを始めた理由。それは「哲学だっておもしろい!」を届けたいから。

本日、哲学好きの弟(私)と、哲学に馴染みの無い兄によるエンタメ型ラジオ番組「それ哲ラジオ」の第1回&第2回を公開しました。

まずはぜひ、聴いてみていただきたいです。
Spotify(当然無料)で聞けます。

さて、この番組のコンセプトは「それって哲学なの?といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求する」ことです。
ただ、そもそもどうして、大学で哲学を学んだわけでもない素人が、わざわざ哲学についてのラジオなんてやり始めたのか。

その理由について、ラジオで話すと長いしくどいし、そもそも個人的すぎて面白くならなさそうでしたので、公開にあわせてnoteで書くことにしました。

ただの哲学好きの素人が、ラジオをやる意味。
一言で言えば、それは

自分が好きなものを、
なかなか好きになってもらえない悔しさ

であり、

面白くないわけがない哲学が、
つまらないものと思われていることへの、ささやかな反抗

です。

もしラジオを聴いていただいて、ご興味をお持ちいただけたら、合わせて読んでいただけたら嬉しいです。

それでは、始めていきましょう。

「哲学って面白い!」と思えるまでに、ぶっちゃけ7年かかりました。

いきなりの告白ですが、事実です。
哲学・思想の本を読み始めて10年ぐらい経ちましたが、「なんとなく読める」と思えるようになったのは3年前ぐらい。

なので、7年間ぐらいは読む本読む本「全然わからん、なに言ってんだこの人」って思いながら、それでも少しずつ読んでいました。
(今でも「なに言ってるが全然わからん」と思う本はいっぱいあります。そういう時は解説本や前後の関連する哲学者から攻めたりするので、めちゃくちゃパワーがかかります。)

思えば、ここで挫折しなかったのがラッキーだったのかもしれません。
もしかすると、大学などでちゃんと哲学を学ぶことで、もっと早く哲学のおもしろさに気づけたかと思います。

ただ、独学であちこち寄り道し、遠回りをし、自分自身を頼りに古今東西の哲学者を辿ってきたからこそ、心からの実感として「哲学っておもしろい!」と感じられるようになりました。

では、この自分なりのブレークスルーが起きたのはなぜか。
それは、自分の中で「自分にとって、哲学とはこういうものかもしれない」という感覚を掴んだことでした。

もちろん「哲学とは何か」という問いに対しては、それこそ哲学者の数だけ答えがあり、統一されたものは無いように思います。

例えば、20世紀イタリアの哲学者、エンツォ・パーチは、哲学を行っている人間が実質的に問題にしているのは「実存の理由はなんであるのか」だと書いています。

この言葉に対して、異論や反論を唱えることは容易ではないものの、不可能ではないでしょう。

そこにあえて自分にとって意味のある問いと答えを出すとしたら、それは

問:哲学とはどういう営みなのか?

答:哲学とは一人の人間が、その生きる世界を言語で記述するものである。

というものになります。

こう捉えたとき、私自身の中で、哲学が古臭い無味乾燥なものではなく、生き生きとしたみずみずしさを持つようになりました。

ここで、2人の哲学者を引き合いに、少しだけ説明してみたいと思います。
それは、デカルトとニーチェです。

哲学が面白くないわけがない。なぜなら、一人の人間の人生が詰まっているから。

哲学好きの方でなくても、二人の名前、もしくは「我思う、ゆえに我あり」や「神は死んだ」といった言葉は、名言としてご存知かもしれません。

では、この二人がやろうとしたことは何だったのでしょうか?

もちろん、一言で片づけられるものではないのですが、あえて単純化するなら、それこそが「自分の生きる世界を言語で記述し、他の人に提出した」となるでしょう。

例えば、デカルト。
彼がやったのは、神様(キリスト教)が正しいとされる世の中で、人間(疑うことのできない我)から出発して、神様の正しさ(存在)を保証しようとしたことです。

これ、めっちゃすごくないですか?

続いて、ニーチェ。
彼がやったのは、それまで1,000年以上当然とされていた「神様が存在する世界」を否定して、その前の時代にあった秩序を引っ張り出してきて、自分の生きる時代でのその秩序の価値を再定義し、さらにそれを乗り越えようとしたことです。

これ、マジでヤバくないですか??(突然の語彙力の喪失)

普通に生きていたら、その前提にある「正しさ」とか「秩序」みたいなものは、疑う必要がないわけです。
仮に疑ったとしても、正面からぶつかって戦うことは、しなくても生きていけるわけです。

つまり、(優れた)哲学者というのは、それでは生きていけず、その「正しさ」や「秩序」といったものに正面からぶつかり、格闘し、その過程や結果を他人に伝えられるレベルに言語化したという、稀有な存在なのです。

その稀有さたるや、同時代の人からは見向きもされなかったりします。
だって、その時代の「正しさ」と戦っているわけですから。
普通に考えたら、その行為に意味なんて見出せないし、なんでそんなことをやっているか分かりません。

だからニーチェが、「自分の死後100年間はニヒリズムの時代で、次の100年間は本格的なニヒリズムの時代になる」などという、自分の思想が200年近い影響力を持つなんて大仰なことを言っても、私としてはただの妄言とは片づけられないわけです。

さて、ものすごく駆け足ですが、二人の哲学者について語ってきました。

ここまで読んで「そりゃすごい、おもしろいな!」と思っていただければ、ラジオも楽しんでいただけるかなと思います。
もちろん、「全然興味持てんなあ」と思う方がいるのも当然だと思いますし、それで全然よいと思っています。

そう言い切れるのは、僕が素人で、好きというだけでやっていることだからです。

素人だからこそできる、素人なりのラジオをお届けします。

もし自分がどこかの大学に所属していて、博士論文を書いたり専門とする哲学者や思想を持つとしたら、おそらくこんなラジオはできなかったと思います。

この記事を書くまでに2話ほど収録しましたが、哲学に興味を持っていただきたいと思ってお届けするラジオにおいて、哲学的に正しいことをきちんと伝えるのは、とても難しいと感じます。

もちろん、自分の知識不足や発信力不足によるところが大きいのですが、それ以上に、哲学の厳密さをラフな話し言葉で厳密に伝えることがどうしても難しいのです。
そこにこだわると「興味を持ってもらう」という前提が壊れてしまう。

つまり、本職として哲学について語るのであれば、その厳密さにおいてラジオという形式が、そもそも適していません。
あえてやるなら「音声による講義」になると思います。

一方で、キャッチーさだけを前面に押し出して、上辺だけをなぞったり本質ではないエピソードトークなどに終始してしまっても、「哲学」という活動に興味を持ってもらうことはできません。

自分のチャレンジはまさにそこで、まずはある程度その哲学者や思想家、または概念自体の本質を掴む。
そしてそれを、現代に生きる自分のような普通の人が興味を持つレベルでお届けすることに、取り組んでいきたいのです。

そして、なぜそれをするかと言えば、冒頭にお伝えし、少しずつ辿ってきたように「面白くないわけがない哲学が、つまらなかったり近づきがたいと思われていることへの、ささやかな反抗」なのです。

昨今、音声メディアにおいて、先人の皆様が歴史や言語学について、素晴らしい発信をされています。
この「それ哲ラジオ」も、それらのフォーマットに乗っかっているにすぎません。

それでも「これをやりたい!」と思ったのは、歴史や、言語学や、もしかしたら数学や物理学や天文学など、様々な学問がありおもしろいと思われる中で、

哲学だってな、哲学だってな、おもしろいんだぞ!

ということを発信することで、自分の10年間を肯定してあげたいから、という気持ちからのように思います。

とはいえ、本当におもしろいかどうかは聴いた方が判断することです。
そして、それが哲学的な意味を保てているかどうかも、聴いた方に判断いただくことです。

だからこそ、せめてちゃんと自分がおもしろいと思い、哲学的に意味があると思えることを発信することを大前提に、このラジオをお届けしたいと思っています。
その努力がどこまで実るかは分かりませんが、半年・1年と続ける中で、少しずつ上達する部分もあるでしょう。

それまではお聞き苦しい点も多いかもしれませんが、少しでも興味をお持ちいただける方は、ぜひお付き合いいただけたら嬉しいです。
そして、もし「おもしろいかも!」と感じていただけたら、身の回りの人にもこのラジオの存在を伝えていただけたら嬉しいです。

生まれたばかりの「それ哲ラジオ(クリックで開きます)」
どうぞよろしくお願いいたします。

※こんなよく分からない取り組みに、おもしろがって付き合ってくれる兄を持てたことも、本当にラッキーだなと思います。
小さい頃は兄弟喧嘩ばかりで、一時期はそれほど連絡も取っていなかったのに一緒に哲学についてラジオをやるなんて、人生本当に何が起こるか分かりませんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?