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言葉、時間、そして自由

ふと思い立って、妙心寺の大衆禅堂(一般の人でも参加できる座禅会)に行ってきました。

趣と歴史を感じる看板。

京都には座禅ができる場所も色々あるのですが、こちらに伺ったのは

・臨済宗の大本山である
・3時間半ほどと長い(通常の座禅会は1時間ぐらい)
・家から近い

と好条件がそろっていたからなのですが、奥さんと4歳の娘からは

・3時間も黙って座ってるなんて考えられない
・なんでそんなことしに行くのかわからない
・参加費でおいしいもの食べに行こうよ

等々、理解できないぜ、という反応をいただきました。

とはいえ、せっかく参加してきましたのと、思った以上によい体験・気づきがありましたので、その感覚を残しておこうと思い、記事を書いている次第です。

その気づきの内容が、タイトルにもある「言葉」「時間」「自由」です。

ちなみに、臨済宗の宗祖である臨済さんについては、ポッドキャストでもお話してますので、ぜひ聞いてみてください。

それでは、さっそく書き進めていきましょう。

言葉がない、という贅沢

初参加でしたので、係のお坊さんが色々と説明してくださるのですが、禅のお寺には「三黙堂(さんもくどう)」と呼ばれる「その中では言葉を発してはいけない場所」が3つあるのだそうです。

それが「食堂(ご飯を食べるところ)」「浴室(お風呂)」と、まさに今回伺った「禅堂(座禅をするところ)」。

ですので、座禅の合図も基本的には鳴り物(木の板や鐘など)で行われます。

おそらく、トータルで座禅をしていたのは1時間半ぐらいだったかと思いますが、その間、お坊さんの説明と説法以外は基本無言。

参加者も20名ほどおられましたが、当然みなさん、黙々と座禅をしているわけです。

自分にとってはこの(家族には「考えられない」と言われた)「言葉がない状態で過ごす」という時間が、非常に贅沢なものに感じられました。

もちろん、頭の中で何かを考えたりはするものの、それも極力少なくしています。

普段は言葉を通じて人の想いや情報に触れているわけですが、その時間はそうしたものから解放されているわけです。

ある意味では過剰な情報の遮断ということにもなると思いますが、この「言葉を離れて過ごす」というのは、自分にとってはかなり快適な状態である、ということがはっきりと感じられました。

また、禅の言葉に「不立文字」というものがあり、これは「悟りの内容は文字や言葉で伝えられるものではない」という意味です。

実際、和尚さんの説法でも、とある修行中の方から「いつ悟りましたか?」と聞かれてとんでもないことを聞くものだと思った、という話がありましたが、まさにこの「言葉を離れる」というのは、仏や悟り云々を置いたところで、実生活に取り入れていこうと改めて感じたのでした。

とはいえ、それでは禅の世界に言葉がまったく無いかというとそんなことはなく、受付のところには「空」という大きな文字とともに

かたよらない
こだわらない
とらわれない

という3つの心構えというか、スタンスについての言葉がありました。

曰くこれらを保つのが「自由」ということのようですが、これについては後ほど掘り下げてみたいと思います。

時間を離れる、という快感

とかく、現代人は時間に追われています。

タイパのような概念が取り上げられるように、常に効率的な、かける時間に対して少しでも多くの価値=対価を求めるというのは、それはそれで重要な捉え方にもなっています。

それは自分自身も例外ではなく、子どもが起きたら保育園に行くまではタイムトライアルですし、仕事においても1時間話をお伺いし、できるだけ早く、必要なアクションを起こすことが大事であることは間違いありません。

そして、禅においてもまた、時間はおそらく重要です。

昨日も感じたのですが、お坊さんや長年の参加者の方々の動きは、非常にキビキビしています。

それこそ、初参加だと「何が起こったの?」って感じで、ついていくことができません。それぐらい速い。

一方で、座禅を行うにあたっては「炷(ちゅう/しゅ)」という、「1本のお線香が燃え尽きるまで」という単位を使い、その間が座禅を行う時間、となるようです。
(大衆禅堂では、それだと長いので20~25分ぐらいで行われていました)

ここで感動したのが、まさにその時間の単位です。

つまり、あくまでも自然の流れの中で座禅=一つの動作を行う、ということ。

5分、7分と区切られた、人工的な時間ではなく、お線香が消えるというその日の気温や湿度等々にも影響され得るその時間において、座禅をするということ。

これが、普段升目のような時間の中で生きていると感じる感覚からすると、かなりの解放感であり、快感でした。

言葉と同じですが、時間も日常においては人間を取り巻きつつ、なかなか意識されにくいものです。

ここに感覚的に気づき、かつそれらから解放されるということ。

この観点は、ぜひ日常においても取り入れていかねばと思ったのでした。

自由とは、不自由を積み重ねて成り立つものである

何度か書きましたが、座禅の合間に和尚さんの説法がありました。

これがまた、非常に面白かったです。

係のお坊さんは「老師」と呼ばれており、まず間違いなく、非常にお偉い方なのでしょう。

だからこそ、飾らない言葉で話す姿は、なかなかに感慨深いものがありました。

その中で、主なテーマとして「自由」が取り上げられていました。

この「自由」がどういった意味合いかという点について若干説明すると、故事を扱う中に「人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」という言葉があり、それはつまり「悟りの境地に至ったら、人のことを気にするのではなく自分であれこれの山に=登りたい山を選んで、どこにでも行くのだ」ということです。

そしてここでいう自由とは、まさに「登りたい山を選んで、どこにでも行く」という、まさにその部分にあります。

これはもちろん仏教の、悟りの境地の話なので、物理的な山登りでの話ではありません。

どちらかと言えば修行として、悟ったからそこで終わりだ、というのではなく、そこから本当の自分自身の道を選び、進むことができる、ということでしょう。

このことは逆に言えば、悟りの境地に至るまでは、「自由」に何かを選んだり、行動したりすることはできない、ということにもなり得ます。(和尚さんはそこまで言っていませんでしたが)

上述の「かたよらない・こだわらない・とらわれない」にあてはめると、何か自分の外部に軸を置いていてはだめだよ、ということにもつながるでしょう。

(そんなことを調べながら書いていたら、自由についての論文があったので、ご興味ある方はご覧ください。まさに妙心寺の、仏教的な知見からの内容です。)

ですが、これも最近個人的に感じていることなのですが、「自由にやりなよ」という人はたいてい、その道でプロと言われるような、ある種の研鑽をかなり積まれている人であることが多いのです。

いわゆる、守破離の離、きちんと下積みも色々なチャレンジもした上で、「自由」に自分の在り方を保っている。

それはなかなか、一朝一夕ではできません。

もし、和尚さんの「自由にやりなさいよ」という言葉だけを捉えて僕が何かを自由にやろうとしても、それはその意味での「自由」ではないし、「それって自由なの?」と問われたら、きっと何も返答できないでしょう。

つまり、「自由」にやるには一定の「不自由」を積み重ねて、自分の中に自由の土台のようなものを作り上げなければならないのだというのが、説法を通じて感じたことでした。

あともう1つ。

説法の中で不自由の例として「家族のしがらみ」というものが挙げられて「家族がいるとなかなか自由ではいられない」という話があったのですが、これも時と場合と受け取り方によるな、と感じました。

もちろん、家族がいると一人暮らしのようには好き勝手に過ごすことはできません。

ただ、そこにおいて自由であること、つまり自分と暮らす家族が幸せであるように、自分の在り方においてそこに関与すること。

あえていえば、家族のしがらみという不自由さを通じて、家族の幸せということを自由に実現するために、自分自身が行動するということ。

こうした「不自由を積み重ねて自由に至る」という観点においては、禅の不自由な修行(お坊さんは大変そうでした)も禅の悟り=自由につながるし、仕事の下積み時代の不自由さも、自分らしい仕事の価値発揮につながるし、家族のしがらみによる不自由さも、自己を超えた自由な幸せにつながるのだろう。

すなわち、一定の不自由さをくぐり抜けることが自由に至る道なのだろうという、そのようなことを実感できた時間なのでした。
(だから、今すぐ自由になることができるのは、不自由さを深く経験した人だけであり、四の五の言わずにやりなさい!にも一定の意義上がる、という話でもあります。)

こうした実感ができたことは、約3時間半、2,000円の座禅体験のリターンとしては破格だと思います。

が、これも時間に囚われた考え方かなと思いつつ、これからも言葉と時間に囚われすぎず、ある程度の不自由を通じて、いずれは自由に至れるように生きていこうと考えております。

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