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幸福・意味・そして大いなるもの

4年前に書き、過去一読んでいただいているのがこちらのnoteです。

おおまかな内容としては

・よい幸せには「達成の幸せ」と「充実の幸せ」があるよ。
・「満足の幸せ」と「快楽の幸せ」もあるけど、幸せの質が低いよ。
・不幸せの要素を減らし、よい幸せを目指すことで正しく幸せになれるよ。

というもので、今読んでも役立つ内容なのでは!?と自画自賛しています。

ですが最近「意味」について調べている中で、議論の穴というか、もっと構造化できると感じた部分がありました。

また、さらに議論を拡張し、このnoteでは自分の世界に閉じている「幸せ」の概念を、もっと世界に開いたものにしたい、という欲が出てきました。

そこで、自分なりに過去の自分を批判して乗り越えていこう!というのが今回のnoteになります。

果たして、私が考える「幸せ」についてそこまで興味がある方がどのぐらいいるのか?という疑問は拭えないのですが、定期的に思考を残しておくことで、自分の考えの発展を知るきっかけにもなりますので、ポジティブに書き進めていきましょう。

それでは、今回の目次です。


「充実」と「達成」の背後にある構造「意味世界」

上にも書いた通り、幸せには「充実の幸せ」と「達成の幸せ」という、質の違う2つの幸せがあると捉えています。

それぞれの違いは以下の通りで

・充実の幸せ
 →自分に自信があり、周囲に良い影響を与え、周囲からも良い影響を受け取って変化していく状態。
・達成の幸せ
 →目標のために変化を行い、物事を達成し、勝者として他の人よりも優れている状態。

具体的には幸せの持続時間が長い方が充実、短い方が達成、という風に区別していました。

これ自体は間違っていないと思いつつ、ではなぜこの「持続時間」という軸が重要になるのか。

また、「充実」と「達成」はどのような関係にあるのか、という点については分かっていませんでしたし、実はその後の4年間も不思議なままでした。

ここで、新しく「意味世界」という言葉を導入します。

近い言葉としては「価値観」のようなものですが、個人の中に収まっているのではなく、個人を取り巻く環境=世界である、という点を強調したく、このような言葉を使っています。

さてこの意味世界、一体どんなものかと言えば、「何かを達成することは幸せなことである」とか「充実した日々を過ごすことは幸福に違いない」とか、そういった「ある現象について意味を付与するはたらき」です。

ここでさらっと書いていますが、現象と意味を分けて考えることが、ここ最近の私の大きな発見であり、4年前との違いです。

「達成」も「充実」も、それ自体は1つの現象です。現象自体には色はついておらず、ただ事実として「達成した人」「充実した人」が居るだけです。

そこに「それは幸せなことである」という意味を付与するのが、意味世界です。

意味世界がなければ、あらゆる現象は文字通り無意味です。それはつまり、自分にとって何ら関係を持たない、事実の塊になってしまう、ということです。

何かを達成することで幸せになれるのは、その達成が自分にとって意味がある領域で行われたからであり、そのことを達成することは素晴らしいことだ、という意味世界の中に自分が生きているからです。

これは充実についてもまったく同じです。ですから、達成と充実という2つの幸せがあるのではなく、「あるものごとを幸せだとみなす」意味世界があり、そこから達成と充実という2つの区分が生じるに過ぎないのです。

では、この区分は意味世界のどんな違いによって生じるのか?

それこそが、先ほど書いた「持続時間」の根底にあるもの、つまり「時間」との関わり方です。

未来中心と現在中心の意味世界の違い

結論から書けば、達成とは未来中心の意味世界における出来事であり、充実とは現在中心の意味世界における出来事です。

簡単に言うと価値の軸足を未来と現在のどちらに置いていますか?というもので、未来のリターンのために現在を耐え忍ぶことができる方は達成型、現在を重視し未来は成行に任せる人は充実型、と言えるかもしれません。

もっと言えば「あなたは現在と未来、どちらに意味をより見出しますか?」ということです。

この問いには簡単に答えられる人、答えられない人両方いるかと思います。
その上で、理由まで言語化できる人は、果たしてどのぐらい居るでしょうか。

きっと、そこまで多くないのではないか、と想像しています。

そのぐらい、意味世界というのは認識しにくいものですし、普段はほぼ無意識といってよいレイヤーではたらいているものだと思います。

ここであえて言語化すれば、未来中心の意味世界に生きている人は輝かしい未来のために現在を犠牲にすることも厭わないでしょうし、時々幸せでない時間があっても、意味に満ちた日々を送っていることでしょう。

つまり、未来に意味を求める人生においては、幸せに直結せずともやらなければならないことがあり、それを単純に苦労、と呼ぶこともできます。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という言葉が現代でも意味を持つかは悩ましいところですが、この言葉は間違いなく未来中心の意味世界でこそ機能するものです。

一方で、現在中心の意味世界に生きている人は、未来は「いずれやってくるもの」であり、そこに自分の意志を盛り込んで変えてやろう、という感覚はあまりないはずです。その分、現在に対しては自分にとって大事なものを理解し、意味があるものを大事にします。

その日々は基本的には幸せでしょうが、あるものに意味を感じ続けるというのも、それはそれで困難なものです。いわゆる飽きるというものですが、何となく幸せなんだけれど生きている意味を感じない、という感覚があるとすれば、それは現在中心の意味世界において、より頻繁に起こるはずです。

上記2つはまだよい方で、意味世界における中心点を持たない人、つまり幸せも意味も感じにくい人が居たとすれば、それは端的に「不幸せになりやすい人」だ、と言えるかもしれません。

これは価値判断の問題で、「少しぐらい不幸せな方が小さな幸せでも喜べるから良いのだ」という意味世界に生きることも可能ですが、ちょっとひねくれている感じもあり、なんだか不健全な気もします。

ですので、理想としては幸せと意味の関係においては、幸せでもありかつ意味(ここでは意義、の方が理解しやすいかもしれません)も感じているという、両取りを目指したいわけです。

そのためには、意味世界において未来と現在と、両方が同じぐらい大切であり、自分自身の意味を感じる軸になっているという、そういう状態を作ればよいわけです。

ですが、普通に生きていれば、おそらく未来か現在か、どちらかに偏ってしまっているでしょう。

では、どのようにこの両取りを実現していくか。

ここで重要になるのが、2つ目の新たな言葉「大いなるもの」です。

2つの意味世界をつなぐ「大いなるもの」

いきなりふんわりした言葉になってしまいましたが、内容としてはシンプルです。

要は自分という個よりも大きい存在、例えば家族とか組織とか社会とか神とか仏とか歴史とか・・・その他あらゆる「自分を含み、かつ自分よりも大きい存在」のことを、ここでは「大いなるもの」と表現してみました。

さて、この「大いなるもの」が登場することで意味世界がどうなるかというと、簡単に言えば新たな参照項が増えます。

どういうことかというと、未来か現在か?という問いは、基本的にはゼロサムで、片方を選べばもう片方は捨てざるを得ないわけです。

ですがここに「大いなるもの」、つまり自分を含んで自分より大きい存在を想定すると、その存在を通じて未来の自分と現在の自分を接続することができるのです。

例えば経営者などは良い例で、例えば自分がやりたいこと、好きなことだけをする(現在中心)場合、その会社が永続するかといえば、それは難しいでしょう。

一方で、事業の利益拡大だけを重視し、毎年数字を積み上げることしか重視しない(未来中心)場合、まずもって経営者自身が自分のやっていることに虚しさを感じ始める日が、いつかきっと来るでしょう。

つまり、意味世界が自分だけに閉じてしまっている場合、未来と現在はどこまでいっても対立してしまうのです。

しかし、意味世界をより広げて、組織やそこに所属するメンバー、またはその会社が所属している地域や国にまで及んだ場合。

自分の仕事が誰かの役に立ち、利益が組織の健全な発展とメンバーの生活を支え、地域からも応援され望まれて新たな事業を立ちあげるとしたら。

そこには、現在と未来の強固な関係が生まれてきます。

つまり、人間は一人では現在と未来を適切に関係させられないのですが、「大いなるもの」を経由することで、それが可能になるのです。

そう考えると、偉人のような人たちが「結局は世のため人のため」とか「私は役割をいただいただけ」といった感じで、個を離れ集団に近しいアイデンティティを持ち始めることも十分に理解できます。

おそらく、彼ら・彼女らの意味世界が十分な広がりを持っていたからこそ、結果として偉大なことを成し遂げたのだろうと思います。そうでなければ、途中で飽きるか苦労がしんどくて続けていられなかったはずです。

そしてこれは、どうして人間が宗教に始まり、自分の居場所であれ、推しのアイドルであれ、自分以外の存在に自分を拡張し、預けようとするかの理由にもなります。

それは現象の世界においては「信じることの尊さ」「所属することの安心感」「推しがいる豊かさ」と色々な形で表現できます。

しかし、意味の世界においては「自分の意味世界を拡張し、断絶している未来と現在を関係づける」という、その一つの理由しかない、と言えるでしょう。

もしそうであれば、現象の世界であれやこれやと対処するのではなく、意味世界において「未来と現在をつなげるために、どのように自分の意味世界を拡張するか」というたった1つの問いに向き合えば、色々な問題が一挙に解決できるはず。

なぜなら、これが幸せと意味に関する、一段根源的な問いであるはず、だからです。

願わくば、意味に満ちた幸福な人生を

おそらく、自分自身が幸せに生きることを望まない人は、そう多くはないと思います。

ですが、幸せに生きることを人生の中心に据えている人もまた、そう多くはないと思います。

思うに、それは現在としての日々の生活において、意味を感じにくいのです。

だって、幸せについて考えているとき、自分自身は幸せではないので。

しかし、時々私みたいに「どうすれば幸せになれるかを考える、それ自体に意味を感じ、しかもその考えている時間が幸せである」みたいな、ちょっと変わった意味世界に生きている人が現れる。

そうすると、その領域についての思考が深まったり、あるいは、その仕事が偉大であればあるほど、人類全体に影響を与えるような成果が出たりするのでしょう。

残念ながら、今時点ではそこまで大きな成果が出るイメージはありませんが、この「自分の意味世界を適切に扱う」ということができれば、今よりももう少し、多くの人に役立てるのではないか、と思っています。

むしろ、方法論自体は世の中にたくさんあって、色々なワークショップや研修、コーチングなどが、実質的にこの意味世界にアプローチしているのでしょう。

だからこそ、私がやるべきは実際にそこで何が起こっていて、その構造がどんなもので、どのように取り扱えばもっと良い変化につなげられるのかという、その部分をしっかり掴むことであると、今時点では思っています。

もしかしたらまた4~5年後に見返して「この時はあんまり分かってなかったな」と感じるかもしれませんが、もしそれが起こるなら、自分にとってはとても嬉しいことです。

願わくば、自分自身だけでなく、少しでも多くの人が、意味に満ちた幸福な人生を送ることができますように。

結局、自分が成し遂げたい未来はこれしかないので、そこに向かって自分なりの「大いなるもの」を見つけ出せたらいいな、と思っております。

今後も色々と考えて取り組んでいく所存ですので、少しでも楽しんでいただいたり、気づきにつながることがあったら嬉しいな、と思います。

それでは、今回もありがとうございました。(それ哲ラジオ風の締め)

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