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尾行

今年はまだ蝉の声を聴かない。もう八月も半ばだ。田舎よりは煩くないが、昨年はもっと鳴いていた記憶がある。
あの生命力が強そうな蝉が地中から出てくる元気すら湧かない。終末を予期させるような夏だった。
それなら僕の異常なくらいの体調の悪さにも言い訳ができる。世界が終わるほど暑いのだから仕方がない。
仕事を在宅ワークに切り替えてから思いもかけない病気になった。なので今は勤務時間を大幅に短縮して自宅療養をしながら短時間労働をしている。幸い病気といっても命に別状はないが、無理が効かない身体には変わりない。医師からの忠告で、かなり行動制約が加わった。
それにしても毎日毎日クーラーをつけっぱなしにしないと暑くてたまらない。しかも篭りっきりでいるためか体力がどんどん減っていく。削られていく。
血糖値が下がっているせいかもしれない。食欲は全くないし、あまり歩きたくないがコンビニで食べ物なりドリンクなり何かを買って栄養を流し込もう。
僕は洗いすぎてクタクタになったシャツとずり落ちそうに腰のゴムの緩んだ丈の短いジャージの下を履いて草履を引っ掛けて外に出た。近場だからこんな格好でも大丈夫だろう。生きていくことにだけ全力を注いでいるので、身につける衣類なんかどうでもよかった。
病気になってから途端に手のひらを返すように連絡が来なくなったり、態度を変えてきたりした人間とは全て縁を切った。そして僅かな友人との緩やかで無理のない関係と仕事だけというシンプルな生活にシフトチェンジした。
持ち物もあらかた捨てて、目指したわけではないが自然にミニマリストに近いものになっていった。
かえって僕は清々しかった。
今までの生活が虚無で、これからの生活が本当の始まりみたいな気がした。

冷たい部屋から外界に移動すると、体温に限りなく近い、なまぬるい空気が身体にまとわりつきく。まるでゼリーのような空気の中を進む。その液体と個体の中間にあるものを両手でかき分けるようにして僕はのろのろと脚を引き摺るように歩いた。
飲食店の大きな室外機の前で、勢いついた熱風をまともに受けておもわず僕はよろめき前につんのめる。
暑い。内臓ごと蒸されそうだ。

すると視界に白いワイシャツの男が入り込み、ハキハキとした元気のある明るい声で電話応対をしながら軽やかに自分を追い抜いていった。
鉛筆の芯みたいに痩せているのに、目の前で「売り物件」という看板があるその横に立てかけてあったテーブルを素早く畳んでひょいと担いだ。
突風のように現れた人物が、暗い思考を吹き飛ばしていった。
思考なんてものは、所詮はリアルに勝てないように出来ている。
僕は最近ある変な1人遊びを思いついた。気になる通行人を見失うまで尾行する遊び。
この男についていこう。しばらく尾行すると体力のない僕は相手にすぐに置いていかれた。慌てて探すが見当たらない。テーブルを担いだまま早足であの男はいったい何処に向かおうとしていたのだろうのか。見失ってしまったので仕方なく元来た道を引き返そうと回れ右をする。歩き出すとすぐに左側の駐車場に車がたくさん停まっているのが目に入ってきた。その中の一台の車内にさっきの男を発見した。しばらく男は何か資料らしきものを見たり、あちこち整理したり電話をしたりでなかなか発進しようとしない。15分は中にいただろう。やっとのことでゆっくりと駐車場から出て来た車には◯◯賃貸住宅と書かれていた。
男の雰囲気から「家を売る人」だと予想していたのだったがニアミスだった。車はこれ以上追えないのでこの男は終了だ。

コンビニのある方向へまたのろのろと歩いて行くと、豪華なマンションから白い犬を抱いた大きな男が出て来た。こちらは簡単に予測がついたので尾行はやめておいた。この男は昼間に散歩をしているのをよく見かけるが、犬を下ろしたことは一度もない。抱きしめられて歩かせてもらえない犬はいつも助けを求めるような表情でこちらを見てくる。それが少しやるせなかった。蝉すら鳴かないこの灼熱の空気の中で工事音がまた鳴り響きだし僕は耳を塞いだ。
交番では市から委託された業者が手続きをしている姿が見えた。道路の拡張工事をしていて僕は軽い恐怖を覚える。車線の多い道路がジリジリと近づいて来て僕のプライベートゾーンを少しずつ喰んでいく。そんな気がした。
街がゆっくりと確実に息をしながら広がっていく。まるで大きな鉄とコンクリートで出来た芋虫の化け物のように。またも猛烈な怠さと息詰まりを感じて僕は深呼吸をして肩を大きく回してみた。次の遊び相手を探す。気持ちを切り替えようとした。ふと足元を見ると蝉の死骸が無残にも転がっていた。

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