見出し画像

ふつうのクリスマスに願う、幸せのための小さな革命。

クリスマスを目前に控えた週末の朝、台所でお湯を沸かしているとき、なんだか気持ちがふくふくしていることに気づく。パーティーの約束も、イルミネーションを見に行く予定もないのに、何かがうれしい。幸せが、静かにこみ上げてくる。

何かあったっけ。思いつくのは、心待ちにしていた冬至がやって来たとか、シュトレンの贈り物が届いたとか、原稿が順調に書けているとか、どれも特別過ぎない、ささやかなものばかり。でもどうやら、そういうものがいくつも集まって、私の気持ちはふくふくしているらしい。つまり今、幸せだ。

なんてことを書いていいものか、少し怖気づいている。それは、すっかり身体に染みついている価値観のせい。「いいことは続かない。そのうち悲しくてつらいことが訪れる」というものだ。

しかも、ここはインターネット。もしかしたら、つらい思いを抱えながら、たまたまこの日記にたどり着く人がいるかもしれない。そういう人が、幸せにまつわる文章を読んだらどう思うだろうとか、考える。

我ながら面倒な価値観だなと思う一方で、実際のところ毎日幸せなんてことはほぼあり得ないだろうし、慎重になることだって悪いことではない。ただこの先ずっと、幸せの先にある悲しさのことを考えて生きるというのも少しもったいない。たまには、臆することなく幸せでいたい。そう思う気持ちも、肯定していいはずだと信じていたい。

とはいえ、物心ついたときからじっくり育ててきた価値観はそう簡単にひっくり返せないし、大きな力も持ち合わせていない。ここは身の丈にあった、小さな革命から始めてみようと思う。

“良いとき”がどうせ続かないのなら、せめてその瞬間、目の前にある幸せや喜びを思う存分抱きしめて過ごしたい。悲しいときは、素直に受け入れてみたらいい。その時々の感情をちゃんと味わって、糧にしていけばいい。

経験上、心に余裕がないときは誰のことも救えないし、幸せは本来、だれかを傷つけるものではない。幸せでいようとすることは、最終的に周りのためにもつながると信じたい。

それがクリスマスの朝に思いついた、私なりの小さな革命。この気持ちを文字にすることがその一歩。きれいごとに聞こえるかもしれないし、考えるべきことは山ほどあるけど、あくまで個人的な小さな幸せの話として書いておきたい。

今、この日々を幸せだと感じているなら。私にとっての幸せの定義は、こういう日々にあるんだと思う。文章を書くことができて、何はなくとも気持ちがふくふくしていて、時々誰かのために心を寄せることができて、部屋に差す光を見てうれしくなれるような日々。

明日からの私へ、覚えておいてね。きっと絶対にまた道に迷うけど、そのときはここに帰ってきて。時折の幸せは思う存分抱きしめて。そこで溜めた力を周りの人や自分のために使いながら、誰のことも置いてきぼりにせず、私は生きていきたいです。

「一生懸命、言葉を定義しなさい」。
文章を書き始めたときに教わったことを、ずっと心に留めてきました。
今年の前半に定義したのが「ちょっとした無理」、今年の終わりに定義できたのが「私にとっての幸せ」なんて、自分で自分によかったね、と言いたいです。良いときも、そうじゃないときも、そのまま綴ってきた日記を読んで見守ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。
良いクリスマスを。私は今朝、シュトレンを食べました。毎年クリスマスに聞いているアルバムを置いていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?