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大壹神楽闇夜 序章 2 卑国の神楽


太陽の日差しが木々に遮られ、蒸し返す暑さは幾分ましではあるが、其れでも汗を拭う手拭いはグッショリである。娘達は山道から川を見つけると隊列を離れ、川辺で紬を脱ぎ捨てると川の水でこべり付いた汗を落としはじめた。
 山道を覆い尽くす娘達の群れ。その群れから勝手に外れ川辺に行けば咎められそうなものだが、卑国の娘達にとっては普通の事である。誰も咎めず誰に許可をもらう必要もない。好きな時に休み、好きな時に飯を食う。そして又行列に向かって歩き始めれば、各々が自由に休んでいるのだから自ずと行列に追いつくことになる。運悪く行列に追いつけなかったとしても寝床を作るための陣にはたどり着ける。だから初めこそ誰が先頭を歩き誰が後方を歩くのかが決まってはいるが其はその道中で入れ替わってしまうと言うのが常なのだ。
 只、各々が自由に休む事は許されていても個人個人での行動は禁じられている。少なくとも五人以上で行動する事が義務付けられているのだが、此れは危険を回避する為である。幾ら八重御国がこの地を納めていようと野党や山賊の類は存在しているし、其に山には獰猛な獣がウヨウヨしている。何より食料の確保には一人よりも複数人いた方が効率が良いからだ。勿論、娘達は保存食を常に携帯しているが其だけでは腹が満たされることはないし、其に保存食はいざと言うときに食べる物だ。だからウサギや魚を現地調達し其を食べるのだ。
 何より、卑国を出発し娘達はどこに向かっているのか ? 其は出国(いずこく)である。卑国から出国への道中は中々に簡単な物ではない。なんと言っても高い山を二つ越える必要がある。其れを超えると一つ国がありその先に出国があるのだ。何日歩くのか ? 大凡ではあるが一月程度である。だが、未だ卑国を出て七日。先は長くやっと一つ目の山の中腹に辿り着いた所である。
 隊列から離れた娘達は汗を落とすと今度は汗だくになった紬を川で洗い木に吊した。代えの紬は持って来ているが裸のまま河原に寝そべったり、川に潜って魚を取り始めた。
  そして、飯を食べ体を休めている間に木に吊るした紬は太陽の熱で乾く。間が悪く着るときに半乾きであっても直ぐに其は乾くのだから問題はない。
 紬とは、娘達が着ている衣服の事である。腕をダランと下げた状態で歩けば袖を引きずってしまう程の長さを持つ一風変わった形状をしている。此れは卑国の娘達が纏う伝統的な服であり自分達を守る為の鎧でもある。勿論ただの糸で織られた紬に鎧としての機能は皆無だが、娘達は袖の中に様々な武器を隠し持ち万事に備えているのだ。勿論自国を離れ今回の様に他国に赴く時は必ず腰に剣をぶら下げている。
 この独特な紬は夏は一枚、冬は二枚重ねて着るのが正である。又冬服に至っては袖が長いのは上着だけであり下着は袖の中で手や腕を動かしやすい様に設計されている。此れは長い年月を掛けて作り上げられて来た三子族の伝統でもある。
 だが、こと、夏服に至っては配慮が乏しかったりする。夏の暑さが袖の中の温度を異様なまでに上昇させるのだ。先にも述べた様に袖の中には多様な武器が仕込まれている。その為薄手の布で作られている夏服も袖の部分は分厚い布で作られているのだ。勿論自国で過ごしている時は袖の部分も薄手の布で作られている紬を着用しているのだが、此れは自国にいる時は袖に武器を隠し持っていないからである。だから今回の様な旅の時は袖が分厚い紬を着ての移動となるのだ。
 その移動には徒歩の者もいれば牛車に乗っている者、そのまま牛にまたがっている者もいる。今回の行列には牛車が二台、牛4頭、徒歩三千人である。その中で最も豪華な牛車に乗っているのが卑国の日三子である伊都瀬(いとせ)とその横に座っている星三子の香久耶(かぐや)である。日三子とは卑国を収める神(みかみ)つまり女王である。星三子とは次の日三子となる命(みこと)つまり王子の事である。そして彼女達の前を走る牛車に乗っているのが月三子の水豆菜(みずな)と榊(さかき)である。月三子とはつまり将軍職を担う者達の事である。そして、伊都瀬の乗る牛車の両脇と後方を牛に乗った女達が牛車を守る様に並走している。この牛に乗った女達は水三子と呼ばれる隊長職を担う娘達で、牛車の左にいるのが神楽(かぐら)右にいるのが吼玖利(くくり)後方の二名が日梨香(ひりか)と馬木羅(まきら)である。そして徒歩で移動している内の五百人は風三子と呼ばれる上級兵、そして草三子と呼ばれる中級兵が千人、最後に大多数を締める土三子と呼ばれる下級兵が千五百人の計三千人である。
 伊都瀬はこの三千の兵を率いて出国に向かっているわけだが、当然の事八重御国の一部である出国に戦を仕掛けに行くわけでは無い。伊都瀬達が出国に向かっている理由は時期外れの朝廷が出国で開かれるからである。朝廷とはつまり会議の事である。
 伊都瀬はチロリと前を見やり横を見やる。水豆菜と榊は袖を目一杯捲り木で作られた団扇でパタパタと仰いでいる。吼玖利も袖を捲り時折顔から水を掛けている。水と言っても既にお湯になっているので体は冷えないが煩わしい汗は幾分は流れ落ちる。まぁ、流れても直ぐに元の状態になるのだから単なる気休めである。真夏の昼下がり皆暑いのだ。
 皆と同じ様に伊都瀬も紬の袖を目一杯捲り汗を拭うが正直何の意味もない。拭っても拭っても汗が噴き出して来るのだ。既に紬は汗でぐっしょりである。横に座っている香久耶も同じ様に袖を巻くっているが既に諦めている。そんな中、神楽だけが袖も捲らずパタパタと団扇を仰ぎながら平然と香久耶をチロチロと見ていた。
「お姉ちゃんは何でそんな平気なんじゃ ?」
 神楽を見やり不思議そうに香久耶が言った。
「何を言うておる。我はこんな暑さには負けんのじゃ。」
「はぁ、お姉ちゃんは凄いのぉ。」
「当たり前ぞ。我は万人(ばんじん)隊長ぞ。」
 と、誇らしげに神楽が言う。
「其れ関係無いじゃろ。」
 後ろでに振り向き水豆菜が言った。
「何じゃぁ、水豆菜もだらしないのぉ。月三子が聞いて呆れとるぞ。」
「ば…。無理じゃ無理じゃ。月三子もこの暑さには勝てんぞ。」
「全くじゃ。我等も此処らで行水でもせぬか ?」
 力の無い声で伊都瀬が言う。
「其れはええ案じゃ。我は腹が減って死にそうじゃ。」
 と、吼玖利は腹を撫でる。
「我も小腹が減っておるぞ。」
 と、保存食を食べながら神楽が答える。
「あぁ、お姉ちゃん。保存食食べとるんか。」
「別に構わんじゃろ。」
「ダメなんじゃぞ。保存食はいざと言う時に食べるんじゃぞ。」
「何を言うておる。今がそのいざであろう。」
「全く、食い意地が張った娘じゃのう。」 
 神楽を見やり榊が言う。
「我は食欲が湧かんぞ。」
 水豆菜が言う。
「我も食欲が湧かん。」
 伊都瀬が言う。
「何じゃぁ、伊都瀬までだらしないのぅ。暑い時に食べんでどうするんじゃ。」
 と言った吼玖利も既に保存食を食べている。
「何じゃぁ、吼玖利も保存食を食べとるではないか。」
 と、香久耶は、吼玖利を見やり神楽を見やる。そして香久耶はある事に気付いた。
「お姉ちゃん其れ家用やないんか ?」
「家用 ? 香久耶、其方は何を言うておる。」
「いや、其れ家用じゃろ。」
 と、神楽の紬の袖を摘んだ。
「やっぱり家用じゃ。」
 家用とは、袖が薄手の紬の事である。
「な、何を言うておる。此れは、家用ではないぞ。」
「何じゃぁ、神楽。其方は家用を着とるんか ?」
 ジロリと神楽を睨め付けながら伊都瀬が言う。
「涼しい顔しとる思うたら、そんなズッコしとったんか。」
 と、吼玖利が言う。
「な、何を言うておる。ちゃんと見られよ。此れは白の紬ぞ。家用に白の紬はないであろうが。」
「何を言うておる。祭事用の紬は白であろうが。」
 伊都瀬が言う。
「祭事用は形が違うであろうが。此れはちゃんと外用ぞ。」
 と、神楽が言うと香久耶達はジッと其れを見やる。
「お姉ちゃん真逆…。作って貰うたんか ?」
「そんな事、我がするはずないであろう。良いから離すのじゃ。」
 と、神楽は袖を引っ張る。
「正直に言うたら離しても良いぞ。」
「何じゃぁ、聞き分けの悪い妹じゃ。親の顔が見て見たいぞ。」
「何を言うておる。いつも見ておるであろう。」
「ああ言えばこう言う妹じゃ。良いから離すのじゃ。其方の汗が付くであろう。」
 と、神楽はグイグイと袖を引っ張る。
「にゃははは…。神楽はズッコの天才じゃからな。大方真技菜(まきな)に大金叩いて作って貰うたんじゃ。」
 と、そのやり取りを見ていた水豆菜が笑いながら言った。
「なんじぁ。其れなら我も作って貰うんじゃった。」
 と、香久耶は口を膨らませる。
「全く其方まで何を言うておる。其方は星三子ぞ。我の跡を継ぐものが国の規律を乱してどうするつもりじゃ。」
 と、伊都瀬が嗜める。
「全くじゃ。其方は星神子としての自覚が足らんのではないか。我は其方の姉として心配で堪らんぞ。」
「お姉ちゃんがズッコしとるからじゃ。」
「ズッコズッコ言うでない。他の三子が聞いたら誤解するではないか。我は常に正しく生きておる。」
 と神楽は袖を取り返すと川辺を見やった。
「伊都瀬。あそこに良さげな場所があるぞ。」
 と、神楽は話題を変えるようにその方向を指差した。神楽が指差したその場所とは、三年程前に土三子達が牛車で川辺まで行ける様にと道を舗装した場所である。
「ほんまじゃの。我等はあそこでひと休みじゃ。」
 そんな苦労の甲斐もなく誰も其れを覚えていないと言うのが現実である。だが、結果的に毎年この場所で伊都瀬達は休憩をしているので、やり甲斐はないが無駄では無かったといえる。
「水豆菜。我等は其処から川辺に降りようぞ。」
 伊都瀬が言う。
「何じゃぁ、ちょうど良い場所にちょうど良い道があるもんじゃな。滝華、我等は其処から川辺に行くぞ。」
 と、水豆菜は牛飼童を務める草三子の滝華(たきか)に命じた。滝華は”応”と答えると、進路を川辺に向けた。
 「助菜山(ジョナサン)。もう直ぐたらふく水が飲めるぞ。もう少しの辛抱じゃ。」
 そう言って神楽は牛の頭を優しく撫でてやると、助菜山がモゥゥと鳴いた。
 水豆菜達を乗せた牛車が先に道を進み、その後を伊都瀬達を乗せた牛車が下りていく。神楽達はその後ろを護衛する様について行く。予期せぬ攻撃に対処する為であるが三子族を襲う馬鹿な蛮族はいないと言うのが実の所である。
 川辺に着くと伊都瀬達は先ず袖に入れている物を道具箱に仕舞う。日三子であっても保存食と匕首ぐらいは隠しもっているし、場合によってはそれ以上の武器を隠していることもある。今回はお供も多く万人隊長の神楽もいるので匕首と保存食だけである。
 只、例外として神楽はいつ如何なる時でも匕首と保存食以外の物を袖に入れるような事はしない。理由は何と言っても重いからである。確かに青銅で作られた武器は小さな物でも結構重い。だから仕込めば仕込むほどいざと言う時の動きが鈍ってしまうのだ。其れに神楽は小技よりも大技が好きである。
 神楽は、匕首と保存食を道具箱に仕舞うと帯を外し助菜山の腰に掛けると、そのまま川辺まで行き紬ごと川に入って行った。助菜山は待ってましたとばかりに水を飲み、神楽は体にこべり付いた汗を流した。
 火照った体の熱が水の冷たさでスゥッと引いていく。真夏の太陽が照り付けていても川の水は不思議と冷たい。体が火照っている所爲かもしれないが其れは非常に冷たく感じた。
「生き返るのぅ。」
 と、川の水をゴクゴクと飲み助菜山を見やる。
「其方も喉がカラカラであったろう。我もじゃぞ。この水はただじゃ。たんと飲まれよ。」
 神楽は結構ケチな事を言う。ケチな事を言うがケチでは無い。ケチでは無いが金払いは非常に悪い。
 だが、助菜山には常に栄養があるだろうと思われている草を仕入れては食べさせている。風の噂であれ何であれ、あの草が良い。この草が良いと聞けばその都度その草を仕入れるのだ。当然の事、其れらの草は非常に値の貼る物で水三子の給金で賄える代物では無い。だから、助菜山にして見れば良い飼い主であるが、金払いが悪いのだから、草屋にしてみれば非常に嫌な客である。
 其でも草屋は神楽の注文通りに草を渡す。これは、神楽が怖いからでは無い。少なくとも買うと言っている以上神楽は僅かながらの代金を支払う事があるからだ。仮にこれを断れば神楽は間違いなく盗みに来るのだ。盗まれれば代金どころかそれ以上の損失を確実に伴ってしまう。
 酷い時は目当ての草以外の草を全て燃やされた事もあるし、草を全て奪った挙句其れを安値で売っ払われた事もあった。勿論、当初はこの事を日三子である伊都瀬に訴えた草屋もいた。勿論これは卑国以外の国で草屋を営んでいる者だ。その理由は卑国の三子達の考え自体が盗む者より盗まれる者が悪いと言った考えなので、盗まれた事を公言する事を恥と考えているのだ。そんな国の日三子であるから当然’其方が悪い’で終わってしまう。だから、結局草屋は神楽の言い値で草を渡しているのだ。その結果、草屋は神楽のことが大嫌いだが、助菜山は神楽のことが大好きなのである。
 助菜山が’モウゥゥゥ、モウゥゥゥ。’と、雄叫びを上げる。
「おう、おう。甘えた声を出しおって。」
 そう言って神楽は助菜山のもとに行き水を掛けてやった。助菜山はお礼に神楽の顔をペロペロと舐める。
「こりゃ、こりゃ。くすぐったいぞ。」
 と、助菜山と戯れ合っている所に吼玖利がやって来た。
「神楽。」
 と、声を掛けながら神楽に水を掛ける。
「ヒャヒャァ。」
 驚く神楽を見やり吼玖利はケラケラと笑った。
「む、む、む…。仕返しなのじゃ。」
 と、神楽も吼玖利にバシャリと水を掛ける。
「ウヒョウ。」
 と、吼玖利も又水を掛ける。
 キャアキャアと恋声を響かせ乍、二人はバシャリバシャリと水を掛け合い、戯れあいながら、やがて梁のある体を密着させる。神楽の大きな乳が吼玖利の並の乳を飲み込んでいく。そして、神楽は強く、更に強く吼玖利を抱きしめる。
「我の乳が潰れてしまうぞ。」
 頬を紅に染め吼玖利が言う。
「其方の乳は小さいから大丈夫じゃ。」
 神楽も又頬を紅に染め言った。
「嬉しゅうないぞ。」
 「何を言うておる。何方かの乳が小さいからこの様に抱き合えるんじゃ。」
「そうじゃな。」
 そう言うと吼玖利も強く神楽を抱きしめた。
「暑いのぅ。」
「ほんまじゃのぅ。」
 と、二人は抱き合ったまま川に浸かり、深く、更に深く沈んで行く。水中で紬を脱ぎ更に強く抱きしめ合い今を実感する。
 神楽と吼玖利は恋仲である。此れは、此の二人が特別な訳ではなく女しかいないこの国では普通の事である。だから此の国の女が男と交わるのは子を産む為であり、それ以上の感情を抱く事はない。
 二人は暫く水中で戯れあった後ゆっくりと水面まで浮かび上がって来た。
「こらこら、そう言う事は草陰でやられよ。」
 水豆菜が言った。
「全くはしたない娘じゃのぅ。」
 榊が言う。
「何じゃぁ、其方らも戯れ合えばええじゃろ。」
 吼玖利が言い返す。
「何を言うておる。榊は我の好みではないぞ。」
 紬を洗いながら水豆菜が言う。
「そうじゃ。我もこんなオバハンは嫌じゃ。」
 同じく紬を洗いながら榊が言った。
「ハァァ ? 三つしか変わらんじゃろが。」
「三つもじゃ。」
「三十も二十七も同じじゃ。」
「ふんふん、オバはん、オバはん。年取るとすぐ怒る。」
 と、榊は鼻歌まじりで歌い始める。
「何じゃぁ、その歌わ。」
 バシャリと水豆菜が榊に水を掛けた。
「何するんじゃ。このババア。」
 と、榊も水を掛け返すと、其処から水の掛け合いが始まった。
「何じゃぁ、あの二人は。一番の年増がおる前でよう言いよるよのぅ。」
 と、神楽がチロリと伊都瀬を見やる。伊都瀬は大層不機嫌な顔で神楽を睨め付けていた。
「おっ、そうじゃ、そうじゃ。紬も洗い終わったからの。我は狩に行って来るぞ。」
 と、神楽は、紬で伊都瀬の視線を遮りながら岸に上がって行く。
「狩なら我も行くぞ。」
 と、吼玖利が言うと、伊都瀬が”狩なら香久耶と行かれよ”と言った。
「何じゃぁ、何で香久耶なんじゃ ?」
 吼玖利が言う。
「偶には姉妹で狩をするのも良いであろう。」
 と、伊都瀬が軽く香久耶の肩を押す。吼玖利はプクッと口を膨らませ神楽を見やる。
「まぁ、我は別に構わんが…。」
 と、紬を木に吊すと香久耶を見やり吼玖利を見やった。吼玖利は何とも残念そうな表情で神楽を見やっていた。香久耶はバシャバシャと水しぶきを立てながら岸に上がって来ると、’お姉ちゃん。我も狩に行くぞ。’と言った。
「其方が狩とは珍しいのぅ。」
 と、香久耶の顔をジッと見遣る。
「まぁ、我も偶には狩ぐらいせんといかんじゃろ。」
「まぁ、良い。では、行くぞ。」
 と、神楽は茂みに向かって歩き始めた。
「え ? お姉ちゃん。紬は着んのか。」
 紬を木に吊るしながら言った。
「何を言うておる。サンダルを履いておるであろうが。」
「え ? いや、紬…。」
「紬は濡れておる。」
 と、神楽は裸のまま更に歩く。そしてピタリと歩くのをやめた。
「いかん、いかん。矛を忘れたぞ。」
 と、神楽は周りを見渡すが、自分の矛が無い。当然そんな所には置いていないのである訳がない。只、神楽は其を覚えていない。神楽とはこう言う娘である。何と言うか全体的に適当なのだ。
 神楽は一度首を傾げ助菜山を見やると助菜山の横腹に矛が縛り付けてあった。神楽は”助菜山。こっちに来るのじゃ。”と助菜山を呼んだ。だが、助菜山はがぶがぶと水を飲んでいるので神楽の呼び掛けに応じる気配は無い。
「これ、助菜山。其方はいつまで水を飲んでおる。こっちに来るのじゃ。」
「…。」
「全く。仕方ないのう。」
 と、神楽は呼ぶのを諦めてトボトボと助菜山の方に歩いて行った。
 水を飲む助菜山の横にくると神楽は縛り付けてある紐をスルスルと緩める。と、突然助菜山がモウゥゥゥと激しく泣き出しそのままジャブジャブと水に浸かろうと歩き始めた。
「これこれ、助菜山。動いてはならん。」
 と、言うが助菜山が聞くはずもない。
「待てと言うておるであろう。」
 と、結んでいる紐を緩め終わると矛を取り’フゥ’と一息。そして、助菜山はさらに深く進んでいく。
「これ、其方はどこまで行く気じゃ…。い…。」
 と、神楽は助菜山のケツに縛り付けてある道具箱を見やる。
「い、いかん。ちょっと待つのじゃ。助菜山。」
 と、神楽は矛を投げ捨てると助菜山のケツをギュッと掴んだ。必死に止めようととするが、当然助菜山の力には勝てない。ズルズルと神楽も水の中に引き込まれて行く。其でも神楽は力一杯助菜山のケツを引っ張る。
「駄目じゃ助菜山。待つのじゃ。道具箱の中には…。」
 無駄な抵抗である。其でも必死に助菜山のケツを引っ張り、ケツをパンパンと叩く。が、助菜山はそんな事には全く動じず、駄目じゃ駄目じゃと神楽は必死である。
 伊都瀬は何をしておるのだろうと言う顔で其を見やり、吼玖利はけらけらと笑っている。そして其を見かねた香久耶が’お姉ちゃん。道具箱を取ればええんやないか’と助言した。神楽は’おお、そうじゃ’と、ケツを引っ張るのをやめ腰に縛り付けてある道具箱の紐を慌てて解いた。道具箱は間一髪香久耶のお陰で水没する前に回収できた。
「ふぅ、危なかったのじゃ。」
 神楽は道具箱を岸まで運ぶと”どっこらしょ”っと其を置きその横に腰を下ろした。其は何と言うか一仕事終えた。そんな感じのくつろぎ方である。
 神楽がここまで必死に道具箱を回収するには其なりの理由がある。其れは中に替えの紬が入っている。勿論其もある。化粧道具が入っている。当然其もある。匕首が入っている。お気に入りの髪留めや髪飾りに櫛が入っている。勿論其もあるがそのどれもが水に濡れても差し支えのないものばかりである。だから神楽が必死に其を回収した理由は他にある。其は中に保存食を入れていたからだ。この保存食は乾燥させた物であるから水に濡れると駄目になってしまうのだ。
 正に間一髪である。只、道具箱から保存食を取り出せば其でよかったと言うのは神楽にとっては又別の話である。
 神楽はボウッと澄み切った空を見やり’優雅じゃ。この優雅がずっと続けばええんじゃがのぅ。’とボソリ。其れを横で見やっている香久耶が’お姉ちゃん。狩に行かんのんか ?’と呑気なことを言っている神楽に言った。
「狩 ?」
「ほうじゃ。皆待っとるんじゃぞ。」
「おお、そうじゃ、狩じゃ。忘れておったぞ。」
 と、神楽は投げ捨てた矛を取りに行った。
「全く。相変わらず騒々しい娘じゃ。」
 伊都瀬が言う。
「何ぞ言うたか ?」
「何も言うとりゃせん。其れより、香久耶を頼んだぞ。」
「応…。」
 と、神楽は一度頷き香久耶を連れて茂みの中に入って行った。
「まだまだ子供じゃな。」
 と、伊都瀬がボソリと言うと、’そこがかわゆいんじゃ’と、吼玖利が言った。
「かわゆい ? 我はあんな凶暴な娘は好みではないぞ。」
「神楽は凶暴ではない。ちょっと我儘なだけじゃ。」
 と、吼玖利が言うと、’我儘のぅ。’と、伊都瀬はクスリと笑った。
「何じゃぁ、今馬鹿にしたであろう。」
「馬鹿になどしておらん。只…。」
「只 ?」
「華咲にそっくりじゃと思うてな。」
「華咲に ? うーん。確かに神楽は母上似じゃな。」
「じゃろ。顔も性格も我儘なとこも阿保な所も。特に凶暴な所は瓜二つじゃ。」
「何じゃぁ。伊都瀬は神楽が嫌いなんか ?」
「真逆…。あの娘はこの国の宝じゃ。少なくとも我はそう思うておる。」
「宝は神楽やのうて香久耶じゃろ。星三子なんじゃからの。」
「心配なんじゃ。」
 水を掛け合い乍水豆菜が言った。
「心配 ?」
「又オバハンはいらん事を言う。」
 と、榊が水を掛ける。
「は。其方もオバハンであろうが。」
 と、水豆菜が水をかけ返した。
「さて、我はそろそろ上がろうかの。」
 と、伊都瀬は立ち上がり岸に向かって歩き始めた。
「何じゃ、もう上がるのか ?」
 吼玖利が言う。
「我は其方らの様に若うない。冷やし過ぎは毒になるでの。」
 と、伊都瀬は寂しい表情を浮かべ言った。
「そうじゃな…。」
 そう言って吼玖利は水豆菜の所に行くと’阿保水豆菜’と言った。
      *    *    *     *
 さて、香久耶を連れた神楽は茂みの中を暫く歩き適当な石を見つけ其処に腰を下ろした。
「どうしたんじゃ ?」
 香久耶が問う。
「良いから座られよ。」
「何じゃ、狩はせんのんか ?」
「我は座れと言うておる。」
 と、再度神楽が言うと香久耶は素直に従い腰を下ろした。
「香久耶…。思う事が有れば話せば良い。」
「どうしたんじゃ急に ?」
「何も無しで伊都瀬が其方を狩に同行させるはずがないであろう。」
「何を言うておる。伊都瀬が我を同行させたのはあれじゃ。最近公務が忙しかったから、気晴らしじゃ。」
「星三子に公務などないであろう。」
「え、あ、いやだからじゃな。」
「香久耶。我は其方の姉ぞ。其方が困っておるのなら助けるが姉の務め。其れに其方は千家(せんのけ)から選ばれた初の星三子じゃ。祖母、母上、姉妹皆期待しておるのじゃ。」
「期待…。」
 ボソリと呟き香久耶はギュッと拳を握った。
「じゃから言うて気負うでない。其方は未だ十三じゃ。我も十三の頃は…。」
「違う。」
 遮る様に香久耶が言った。
「違う ? 何がじゃ。」
「お姉ちゃんは十三で子供を産んでおる。其れに乳も尻もデカいではないか。我は未だに子を産んでおらん。其れに我はお姉ちゃんの様に強うない。」
「何を焦っておる。其方は今からじゃ。」
「だったら、だったら聞くが我は後五年でお姉ちゃんを抜けるんか ? お姉ちゃんは十三の時で既に強かったではないか。我は、我は違う。我は臆病じゃ。怖いんじゃ。秦国が攻めて来るんぞ。戦になるんぞ。何で、何で我なんじゃ。何でお姉ちゃんやのうて我が星三子なんじゃ。」
 そう言って香久耶は大きなため息をついた。
「其れは、其れはじゃな。そうじゃ、其方はお頭が良いからじゃ。」
「お頭が良うて何になるんじゃ。」
「ーーー。」
 と、神楽は返答に困った。何故なら、卑国では強い女が一番重宝され、その次に子を沢山産む女が良いとされている。特に日三子は強くて当たり前と言う認識が強かった。なので、神楽のお頭ではその問いに答えられる程の良い返答が思いつかなかったのだ。だから、神楽はソロリと香久耶から視線を逸らした。
「日三子は誰よりも強うのうてはいかんのじゃ。先陣を切る勇気がないといかんのじゃ。我には其れがないんじゃ。」
「じゃ、じゃから我がおるんじゃ。其れに星三子は戦には出ぬ。何も怯える事等ないであろう。」
 視線を逸らせたまま神楽が言う。
「伊都瀬が死んだら ? もしも伊都瀬が死んだら…。」
「そんな心配せんで良い。伊都瀬は年増じゃがまだまだ強い。其れにじゃ、其方が日三子になるは二十四の年。其れまでは月三子が代行を務めよる。良いか歴代の日三子が見よる霊夢は絶対なんじゃ。じゃから、其方には、其方にしか出来ぬ何かがあるんじゃ。我はそう信じておる。」
「お姉ちゃん…。」
「其れに其方の事は我が必ず守る。何があってもじゃ。」
 ジッと香久耶を見すえ言った。
「其じゃ、其がいかんのじゃ。」
 ハッとした様に香久耶が言った。
「何がいかんのじゃ ?」
「お姉ちゃんは我を過保護にしすぎなんじゃ。じゃから、皆が我を軽視しよるんじゃ。」
「誰が其方を軽視しておるんじゃ ? そんな奴は我が小突いてやるぞ。」
「そうでは無い。我は守られんでも大丈夫じゃ。」
 香久耶がそう言うや刹那、神楽の雰囲気が変わった。
「もう良い。それ以上言わんで良い。」
 そう言って神楽は立ち上がった。
「なんでじゃ ? なんでお姉ちゃんは分かってくれんのじゃ。お姉ちゃんが側におる限り我は弱いままじゃ。お姉ちゃんに頼りきったままじゃ。臆病な星三子のままじゃ。」
「其れは我の所爲では無い。香久耶、其方が弱いのは其れは其方が弱いからじゃ。」
 ドスの利いた声で神楽が言うと香久耶はブスッと黙ってしまった。神楽の言葉に反論できないからでは無い。ただただ神楽が怖かったからだ。本当は色々と言いたい事はあった。ほぼほぼ神楽の所爲だと言いたかった。香久耶の訓練をいつも陰ながらに邪魔をして来たのは他の誰でも無い神楽だからだ。
 香久耶の練武相手を脅し態と負けさせたり、弱い者とばかり練習させたり、初任務の時は香久耶達が任務を遂行する前に神楽が先に終わらせていたり、その他の任務もことごとく潰したり、香久耶が強くなろうとするのをことごとく邪魔して来たのだ。だからと言うわけでは無いが香久耶は非常に弱い。そして未だ人を殺した事がないのだ。だから、全く戦い慣れしていない香久耶にとって秦国との戦は非常に怖いものであった。
「良いか香久耶。我は其方を守る。これは我に与えられた天命なんじゃ。其方が星三子に選ばれた様にじゃ…。」
「其れは…。其れは昔お姉ちゃんが見たただの夢じゃ。」
 俯き小さな声で言った。
「ただの夢では無い。我は…。我はあれを霊夢じゃと思うておる。」
「霊夢は日三子が見るものぞ。其にお姉ちゃんが見たのは子供の時であろう。」
「年は関係ないんじゃ。我は其方が…。其方が…。」
 と、神楽の表情が曇った。其れは言い知れぬ嘆きであり悲しみである…。
 ブルブルと、ブルブルと手が震えだす。
 思い出したくない夢。されど忘れてはいけない夢だと神楽は信じている。
「我は死なんよ。殺されもせん。」
「当たり前じゃ。その為に我がおる。」
「本間、お姉ちゃんは頑固じゃな。」
「頑固では無い。其方の物分かりが悪いだけじゃ。」
「そうじゃな。でもな、お姉ちゃんを見ておると自分が嫌になるんじゃ。」
「嫌に ?」
「我もお姉ちゃんの様に強うなりたかった。千家で弱いのは我だけじゃ。」
「其方は強うのうて良い。其方はお頭が良いのじゃ。お頭の良い日三子になればええんじゃ。」
「お頭の良い日三子のぅ。」
「そうじゃ。お頭の良い日三子じゃ。」
「やっぱり、我はお姉ちゃんの様に特別にはなれん様じゃ。」
 そう言って香久耶は腰を上げた。
「何じゃ急に。」
「お姉ちゃんは特別じゃぁ言うたんじゃ。」
 香久耶はジッと神楽を見やった。
「何がじゃ ? 我は皆と同じぞ。」
「何を言うておる。そもそも目の色が違うではないか。」
「目 ?」
 と、神楽は香久耶の目をジッと見やり’同じじゃぞ’と言った。
「お姉ちゃんが見とるのは我の目じゃ。お姉ちゃんの瞳は右が黄色、左が青色じゃ。」
「な、何と…。」
 と、神楽はもう一度香久耶の目をじっと見やった。
「じゃから…。其は我の目じゃ。」
 そう言って香久耶はケラケラと笑った。
     *    *    *    *
「何じゃ、餓鬼が偉そうに。」
 阿保水豆菜と言った吼玖利に水豆菜が言った。
「餓鬼はどっちじゃ。伊都瀬を見てみい。そなたの所為で元気がなくなったでは無いか。」
「ほんまじゃ、水豆菜はいらん事言いじゃ。」
「な、我は只、本間の事を言うただけじゃ。」
「本間の事でも言うてええ事と悪い事があるんじゃ。」
 と、吼玖利が水豆菜の尻をギュッと抓る。
「痛て !」
 と、水豆菜が悲鳴を上げると’バチじゃバチじゃ。バチが当たったんじゃ。’と、榊がケラケラと笑った。
「な、何を言うておる。我は只…。」
「只、何じゃ ?」
「香久耶やのうて何で神楽や無いんかと思うておるだけじゃ。」
 ボソリと水豆菜が言った。
「シッじゃ。シッ。」
 と、慌てて榊が口を押さえる。
「分かっておる。我とて平時であれば誰が星三子であろうと何も思わぬ。じゃが時が時じゃ。不安に思うて何が悪い。其方達もそう思うておるはずじゃ。」
 水豆菜がそう言うと榊は口を継ぐんだが吼玖利は水豆菜を睨め付けて言った。
「我はそう思わぬ。香久耶には神楽が付いておる。」
「だから ?…。」
 と。水豆菜が睨めつけ返す。
「だから…。」
「良いか吼玖利。誰かに守られるが日三子ではない。日三子は先陣を切って突き進む者ぞ。日三子が弱ければ我等が思いは消え、願い伝わらず。我等魂引き継がれず。闇に支配されるんじゃ。」
「そんな事分かっておる。」
「分かっておらぬ。既に秦国は天煌国を統一したんじゃ。いつ戦になってもおかしゅうないんぞ。」
 水豆菜が言った。吼玖利は何も言わず伊都瀬を見やる。伊都瀬は、伊都瀬は保存食を食べながらジッと茂みを見やっていた。
 フワリと生暖かい風が吹く。茂みがガサガサと揺れる。見慣れた風景、何も変わらぬ空。流れる雲は毎日と変わらずゆっくりと流れている。
 もしも、この全てが、全てであるのならどれだけ救われたであろうか。フト、伊都瀬はそんな事を思った。もしもそうだったら、何も考えず、何も悩むことなどなかったかも知れない。
 だが、時は止まらず。五百年と言う長き平和は終わりを迎えようとしていた。
  その全ては、既に今は昔。周国の支配から逃れて六百と数十年。先人達が奴婢として生きて来た歴史を知る者は既になく。只その時の事を口伝で知るのみである。
 常識を遥かに超えた朝責は此の国の全てを奪い、若者は奴婢として献上させられた挙句無残に殺されて来た歴史。その見返りに得た文明は此の地に住む人々に戦う事を教え、強き者が国を支配する事を許す。
 古の歴史。例え口伝であっても繰り返す事許されず。ハミ集落の初代主であるマカラが作り上げた女だけの集落。やがて、国となりその国を命を掛けて守った比美胡。その後、卑国となっても八重御国と共に生きて来たのはこの日の為である。
 長閑に優雅にされど胸中は皆不安であった。闇は海を渡り此の地に辿り着く。友好か侵略か…。五百年の平和と言う灯りを飲み込もうとする闇を目前にひかえ娘達は出国に向かうのである。
 時は紀元前二百十八年六月七日後世に語られぬ歴史の幕が上がろうとしていた。

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