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土倉鉱山のこと

市役所からの取次ぎで回ってきた電話は岩手県盛岡市から。最近亡くなられたお母様が幼いころ土倉鉱山で暮らしていたと聞いて、いまもその鉱山が残っているのか、どんなところなのかを知りたくて問い合わせてこられたとのこと。

御祖父様が土倉鉱山で働いておられ、昭和15年に家族は岩手に移られたそう。お母様が鉱山は雪崩がひどかったという話をしていたのが印象に残っておられるという。

土倉鉱山の資料をひも解くと、昭和9年1月、昭和11年1月、昭和14年2月、昭和15年1月の4回の雪害で26名の死者と多数の負傷者が出たと書かれている。これら雪害の影響で昭和15年には選鉱場ほかの施設を出口土倉と呼ばれる里の方へと移設されている。ひょっとするとこの昭和15年の雪崩をうけて引っ越されたのかもしれない。

鉱山が昭和40年に閉山したこと、今も選鉱場は見ることができること、最近ではツアーも開催されていること、現地へのアクセスについてお話しすると、具体的なイメージがつかめましたとお礼をおっしゃって電話は終わりました。

最盛期には1500人が住んでいたといわれる土倉鉱山には全国から労働者が集まっていました。土倉鉱山の記録は写真も含めいくつか残されていますが、まだ整理されていないものも多くあります。

近い機会に地元の方と一緒に資料をまとめ整理して、今回ご連絡をいただいたような方や、多くの方に重要な地域の近代化遺産の歴史について知ってもらえる機会を作れればと思います。

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