ある諜報員の手記

 “特異点”。《クロスベル再事変》のときのそれとは異なる意味で、今回の諜報対象はそう呼ばれることがある。帝国軍情報局から回された資料を読みながら、知らず苦い顔になっていることを、俺は自覚せざるを得なかった。

 ヴァン・アークライド。それが対象の名だ。ここカルバード共和国の首都イーディスに居を構える《裏解決屋スプリガン》──要はグレーな仕事も引き受ける何でも屋。裏の世界に少しは通じている者なら、噂くらいは聞いたことがあるはずだ。表と裏の両方に顔が利く──と言うと大層なことのようだが、便利に使われているだけだろうと思っていた。が、なんだこれは?

 曰く、遊撃士協会にもMK社にも、あの《結社》にすら顔が利く。曰く、ロイ・グラムハート現大統領のみならずサミュエル・ロックスミス前大統領とすら面識がある。そして、例の事件Aの件解決の陰の立役者。

 無茶苦茶だ。導力映画の主人公でもあるまいし。
 このうちのどれくらいが真実かはわからないが、これが本当だっていうなら、確かにそれは“特異点”と呼ぶにふさわしい。情報局が警戒するのも無理はないってことはわかる。

「まあ、いくらかはハッタリ……どの程度が真実かを探るのがお仕事ってわけか」

 資料に添付された写真には、本人のもののほか、事務所とやらに出入りしている素人のような若者も写っている。刺激することは控えるべきだが、こっちの方面から探ってもいいだろう。そうと決まれば──

「……着信?」

 帝国軍情報局が秘密裏に入手した第六世代戦術オーブメント《Xiphaザイファ》。資料と一緒に送りつけられてきたそれは、これからのお仕事諜報任務のために必要なものであるはずだった。前世代の《RAMDAラムダ》は鳴り物入りだったが、戦役前のあれこれで帝国の後塵を拝したことと、エプスタイン財団外しで急速に低迷。それを塗り替えるように、軍を端緒として普及が進む──いや、そんなことを考えている場合じゃない。

 この《Xipha》に直接の着信があることなどありえない──はずだ。連絡先を把握している情報局は、通信に勘づかれる危険を冒してまでうかつに連絡してきたりなどは、しない。

 呼吸が浅くなる。俺は、嫌にぱさつく唇をなめながら、ボタンを押し、聞こえてくる声に耳をすます。

「初めまして。私がわかるか」

 詐欺か──と思いそうになって、こんな話し方をする詐欺師がいるかと思い直す。わかるわけが──

「いや、待て。この声は……どこかで──そうか。大統領臨時補佐官、ルネ・キンケイドか?」
「その肩書きか。まあそちらの方でも構わないが」

 例の事件の際。共和国北西の村がひとつ消え、そのときにラジオで何度となく流れたその声を、俺もあのときここイーディスで聞いた。肝が冷えなかったと言えば嘘になるあの事件の中、不気味なほど冷静に響いたその声を。今の肩書きがなんだかは知らないが、CID中央情報局の中での勢力争いに明け暮れていたのではなかったか。

「まあ合格だ。これくらいがわからないようであれば困る」

 わかったことがある。こいつは性格が悪い。木っ端の俺では、太刀打ちができない程度には。しかし、怖じ気は悟られる。俺は声に動揺を載せないように、短く問う。

「何の用だ」
「単刀直入に言おう。うちに飼われないか」

 どういうことだ、とは言わなかった。さすがにわかる。そして、俺にはもう選択肢が残されていないということも。着信で気がそれた間にか、ドアの向こうに気配が生じていた。そういうことだろう。

「安心してもらいたいのだが、それほど期待はしていない。その依頼もそのまま続けてもらって構わない」
「──助かる。が、なぜだ。自分で言うのもなんだが、俺は末端だぞ?」
「何、あれの周りで起こることは把握しておきたいものでね」

 冗談を言うようなその口調に、背筋に冷たいものが走るのを感じる。CIDの要観察対象だってのか、あの“特異点”は。

 俺の頭は対象の危険度を上方修正しながら、今後の身の振り方を必死で考えはじめていた。どの道を選ぶにしても、“特異点”にわずかにでも関わってしまった俺の未来は、それだけで大きく変わってしまったことを認めざるを得ないようだ。

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