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【日々の、えりどめ】第5回 紫玉ねぎ(一)

 若手はなしかとして仕事が減っていく中で、自分自身も身の振り方を考えなければならなかった。そもそも二つ目という身分はそれだけでは食えないので、生活のためには何でもやらなければならない。少なくとも、楽屋にはそう伝わっている。よって全てが昨今の病禍のためであるとも言い切れなかった。
 今年の春先から初夏の時期まで、いわゆるアルバイトをしていた。いまは休職しているが、籍は残している。近くにある市場の夜勤である。野菜を選んで運んだり、箱付めしたりする仕事である。
 われわれの世界では、本業の他にアルバイトなどをしているということは、口外しないのが普通である。普通というよりも、わざわざ言うのは野暮ったいこととされている。だからここにそのことを告白するのもまた野暮ったいことなのだが、おそらく仲間内でこの文章も読むひとも少ないだろうから、場所を選んで、ひそかにここに書くのである。
 もっとも、別に隠す必要もないのである。しかし自分としてはその方が楽だったので、そうしていた。アルバイト先には自分が芸人であることは言っていなかった。そしてはなしかの仲間内にも、市場で夜勤をしていることは一言も言わなかった。
 秘密といえば秘密だが、密というよりは蜜の字を当てたいくらいで、わたしはこっそりとその生活を味わっていたのである。しかもその蜜は、甘いというわけでもないのだ。
 週に数回。深夜。わたしはジャージ姿で、玄関を出る。その時の自分は透明にも思えるくらい、身元不明の存在である。それから黙々と働いて、帰ってくる。体力的にきつい日はあったが、元々わたしは夜型の人間なので、それほど辛いというわけでもなかった。むしろその時間の波長が身体に徐々に刻み込まれて、一日の規則自体は一定であった。
 ただそのような生活を自分の中だけで育てていたので、それが変に後ろめたく思うことはあった。実際に勤務日の次の日が本業でそれも朝が早い日などは、体が言うことを聞かないこともあった。誰にも言わず、誰にも知られず、わたしはわたし自身の黒幕として昼と夜との割合を偏った目盛付きの脆いビーカーの中で調合しながら、幾重にも包み隠していたのである。自分でも自分が何をしたくて、一体いま何をしているのか、わからなくなるようなことがたまにあった。

 勤務地に市場を選んだのは自宅から近かったためである。ただ、それ以外に良いこともあった。まずわたしは単純に、夜の市場の風景が好きであった。積みあがった段ボール箱、帽子に番号を付けた職人風の人たち、天井の高いコンクリート建築。その中を何台ものターレが行き交う風景はどこか近未来的で、身震いするくらいに無辺際で、そして懐かしかった。
 服装の決まりもなかった。各々の作業なので、人との会話もなかった。そういう人が集まってくるので、さっぱりとしていて、気持ちの良い人が多かった。わたしは本業がどうしても言葉を浪費する職業なので、できるだけ寡黙な仕事の方が安心であった。そういう意味でも、お誂え向きであった。
 またまかないこそないものの、帰りには出荷できないような野菜を持って帰ることができた。傷んでいたり、曲がっていたり、いわゆる出来損ないの、野菜たちである。しかしわたしは実際この野菜たちに、日夜大いに助けられていた。

 そんなある日のことである。その日も深夜の十二時から朝の四時までの市場勤務を終えたわたしは、帰り際に、アルバイターの持ち帰りのための野菜籠の中を、期待をもって一瞥した。いつもは白菜や大根、人参やジャガイモなどが積まれている籠の中には、その日はどういうわけか、紫玉ねぎがひとつだけ残っていた。それもそれほど傷んでいるわけでもなかった。かすり傷か捻挫かくらいの軽症である。
 わたしはこの持ち帰りの野菜を、内心かなり頼りにしていた。野菜だけではなく、期限の迫った豆腐や加工食品なども持ち帰れる日もあった。それだけで日々の食事を済ませられることもあった。それが今日は、何やら珍しい野菜が、ひとつだけ。
 そうはいってもこれを蔑ろにするような気も毛頭なかったので、やや躊躇ったが、わたしは籠の中からそのひとつを手に取って、市場の雑踏を後にした。
 この辺りは舎人地区と云って、足立区最北部の地域である。「とねり」と読む、難読の地名である。この舎人という場所が一面畑だった頃から住んでいる方と知り合い、その方から、この辺りは平地なのでむかしはいまの川口元郷駅(埼玉高速鉄道)の辺りまで見渡せたという話を聞いて、自転車移動している日常が記憶の風景の中に押し並べられて風通しが良くなるような気がしたことがあったが、その足立区の平地の暗闇に、どういう運命か、紫玉ねぎをひとつだけ持った男が、ひとり――。
 これは林檎みたいにがりっとできるわけでもなし、それでいて普通の玉ねぎよりも何だかコケティッシュなので文字通り手に余るというような感覚で軟球よろしく空中に遊ばせてみたりしたが、受け取るときには必ず両の手で包み込むようにしたかったのはそれが貴重な食材であることの他に、まさか宝石とまでは言えないが、それなりの綺麗さがあったからであった。


【プロフィール】
林家彦三(はやしや・ひこざ)
平成2年7月7日。福島県生まれ。
早稲田大学ドイツ文学科卒業。
二ツ目の若手噺家。本名は齋藤圭介。

在学中に同人誌『新奇蹟』を創刊。
「案山子」で、第一回文芸思潮新人賞佳作。

若手の落語家として日々を送りながら、文芸表現の活動も続けている。

主な著作
『猫橋』(ぶなのもり)2021年
『言葉の砌』(虹色社)2021年


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