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【試し読み】片島麦子「幽霊番」(『レースの村』より)

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片島麦子「幽霊番」冒頭部分より(『レースの村』収録作品)

ひょんなことからサクマの帰省につきあうことになり、ぼくはその村に向かった。ムラ、と云ったが実際の住所に村の文字はないらしい。そのあたり一帯の集落を昔は村と呼んだ名残なんだとサクマは答えた。村とは何ぞや、という根源的な疑問はさておき、そこをどう呼ぼうとぼくには関係ないし興味もない。たぶん、いや、おそらくかなりの確率で二度と訪れることはないだろう、こんな遠くのおそろしく辺鄙な場所。
別に彼についていく理由もなかった。たまたま暇で、どうしようもなく暇で、友人数名で飲み明かした次の朝、まだみんながぐっすり眠りこけている芋虫状態の酒くさい部屋で唯一サクマだけがすっくと起きあがり、たんたんと出かける準備をしはじめたのを薄目でしばらく観察しているうち、どこにいくんだ、とつい声をかけたのが運のつきだった。
「一緒にいくか?」
「だから、どこへだよ」
つんけんとした口調になってしまったのは、どこへいくのかというぼくの問いかけが一瞬追いすがるみたいに彼に聞こえたのではないかと心配になったからだった。それまで特に深いつきあいがあったわけでもない、サクマとは大学の学部が同じというだけで大勢いる友人のひとりだった。その辺に転がっている芋虫どもと何ら変わりがない扱いの彼に同情されて誘われているのだとしたら心外だった。
「おれの実家。夏休みに帰省するようしつこく云われていたからさ」
「夏休み、もう終わるけど」
「だから仕方なく用意してる」
なるほどそういうことか、ひとりで帰るのが嫌なんだなこいつ。合点がいくと急に形勢が逆転したように感じて余裕が出てきた。
「おまえんち、田舎だったっけ?」
「田舎だよ、超ド田舎」
「空気、うまいよな、きっと」
「ああ、どうだろう」
サクマはあいまいな表情を浮かべ、微妙な角度で首をふった。否定でもなく肯定でもなく……やや肯定寄りだと勝手に解釈する。自信がなさそうなのは、子どものころからあたり前に吸っている空気の味を改めて問われてもよくわからないためだろう。てきとうに合わせて答えればいいものを、サクマは時々こんな風にして話の腰を折る。よく云えば純粋で正直者、悪く云えば田舎出身者特有の鈍くさい反応だった。
「いこうかな」
「マジで?」
自分から誘ったくせに驚いた様子でわずかに目を見開く。
「云っとくけど、何にもないぞ」
「知ってる」
ほんとうは全然知らない。ただ流れでそう云ってみただけだ。
「じゃあ、いいか」
「決まりだ」
ぼそぼそと小声で合意に達すると、ぼくたちは芋虫を蹴っ飛ばさないよう部屋を出た。
ここはよどんでいる。未来の見えない身体から吐きだされたアルコール混じりの腐敗臭と行き場のない熱。何だか無性に新鮮な空気が吸いたくなった。何もないことをむしろ美点と考えられるくらいには、ぼくはサクマの帰省につきあうことに前向きな気持ちになっていた。
新幹線から在来線に乗り継ぎ、無人駅でなかなかこないバスを待って村に向かった。途中何人かお客さんは乗ってきたけれど、みんなぼくたちより先に降りてしまった。車庫のひとつ手前の周囲に何もない停留所に揃って降りたった時、ぼくは意味もなく感動していた。
「奇跡だな」
「?」
「こんな毛細血管並みの地域まで公共交通のサービスがいき届いている国は他にはないよ」
「………」
嫌味に近い大げさなほめ言葉をスルーして、サクマはバス停から離れ、ひとり目立たないわき道に入っていった。すぐに鬱蒼とした木々が両側からアーチ形に覆いかぶさった昼なお暗い道に変わっていく。
「ケモノ道ってこういうのを云うのかな」
「れっきとしたヒトの道だ。ウツミ、公共交通の網目からこぼれた落ちた限界集落を舐めんなよ」
「?」
「ここから歩きだ、小一時間くらい」
「………」
今度はぼくが黙る番だった。

日頃の運動不足を呪いつつ、もう少し酒量を減らすべきかと反省しかけたころ、急に道が開けた。広がる田園風景を燦々と満たす光に、せまく苦しい産道を抜けてこの世に生まれ落ちたような錯覚を一瞬覚える。しこたまかいた汗がデトックス効果をもたらした結果だろう、悪い気分ではない。
そのことをサクマに伝えようかどうしようかと迷っているうちに一軒の家に着いた。母屋と納屋が直角に交わったかなり広い純和風の日本家屋だった。
「着いたぞ」
ひとことだけ云い、サクマが先をいった。バス停を降りてわき道に入ってからひどく無口だったので気を悪くしたのかと少し心配していたが、今の感じだとそうでもないようだ。さきほどの生まれいずる感覚とは反対に、サクマの場合、もといた子宮のある場所へと帰っていくのだからそりゃあ憂鬱にもなるだろう。ぼくは自分の母親の子宮を想像し、サクマに深く同情した。
玄関の横に立てかけられた背負子に目をとめると、サクマはあからさまに顔をしかめた。何か不都合があるのかと問おうとした瞬間、ぼくたちの目の前の引き戸が開き、彼とよく似た中年の女性が顔を出した。
「帰ったんね」
「ああ」
「帰るなら帰るで電話くらいしんさい」
サクマの母親はそう云ってからはじめて息子の背後にいるぼくに気づいたらしく、おや、と表情を変えた。
「誰?」
「ウツミ。おれの大学の友だち」
「こんにちは」
軽く頭をさげる。
「まあ、そうね。遠いとこから。ショウヘイ、何も云うとらんからびっくりしたわ。暑かったじゃろ、はよう入りんさい」
「おじゃまします」
促されるまま靴を脱ぎ、広い土間のある玄関から家の中へと入る。廊下を歩きながらサクマが母親に短く訊ねた。
「泊まってくけど、飯、大丈夫?」
「飯飯って、あんた、ただいまも云わんで。気にすることはあれじゃね、お父さんと一緒じゃね。けど、よかったわ。あれがきとるからごはんだけはようけ炊いとるんよ。おかずもあれとあれとあれがあるから足りるじゃろ。あんたらふたり増えたところでたいして変わりゃせんわ」
聞きようによってはつっけんどんにも聞こえる方言だが、ふり向いたおばさんの顔には人なつっこい笑顔が浮かんでいるからとりあえず歓待されているらしいとほっとする。それにしてもやたら「あれ」を連発するので、そっちのほうが方言より難解だった。どうして人間は一定以上歳をとると、歴然と形あるものを「あれ」とか「それ」とかいう漠然とした小さな箱に無理やり押し込んで平気でいられるのだろう。
「やっぱり、あれの番なん?」
実家にもどったせいなのか、サクマの語尾のイントネーションにも微妙な変化が表れる。驚くべきことに彼には母親の「あれ」の意味がわかるらしい。ぼくは自分の親たちの「あれ」をいつも聞き流してきた。理解しているふりをしてにこやかに頷きつつも、「あれ」の蓋を開けたところで何ひとつ自分の人生に得るべきものなどないと放っておいた。サクマはその点親孝行な息子なのかもしれないと感心する。
サクマの「あれ」が母親のどの「あれ」を指すか知らないが、彼の眉間には若者らしからぬしわが一本刻まれていた。いったい何を憂えているのか。おばさんはああ云ってくれたものの、突然のぼくの訪問でサクマ家の団らんに何か不都合が生じたのだとしたら、それはそれで肩身がせまい。
「ほうよ。一昨日から。あれ、どうにかならんかねえ。わたしもお父さんもひざが痛いやら腰が痛いやらで、年々あの重さがこたえてしんどいわ」
「次はいつ? 何ならおれが持っていくけど」
「まあ最低一週間は置いとかんとね。村のみんなに何云われるかわからんけえ」
話の内容はさっぱりだが、一週間と聞いてぼくは内心焦った。サクマがそんなに長く滞在するつもりとは予想していなかった。嫌々帰省したものとばかり思っていたので、一泊くらいならと軽い気持ちでついてきただけだ。到底つきあいきれない。こちらはてきとうなところで退散しようと心に決めた。
サクマの部屋で古い漫画を読んでいるうちに時間が経ち、おばさんが夕食だと二階まで呼びにきてくれた。いつの間にか帰宅していた父親にあいさつし、一枚板の立派な座卓の向かいに腰をおろす。並んだ箸が四膳、それともう一膳、座卓の隣の小さな折りたたみテーブルに用意してあるのに気づき、ぼくのはそっちだったかと慌てて立ちあがろうとすると、サクマが右ひざをぐっと押さえて目だけで座っておくよう合図してきた。
息子の友人だから気を遣ってくれたのだろうか。何だか申し訳ない気持ちで黙って座っていると、おばさんが次々に料理を運んできてくれた。刺身こんにゃく、大根と鶏肉の煮物、ニンジンとゴボウのきんぴら、山菜とナスとシイタケの天ぷら、大学芋とおはぎなど、いかにも田舎料理という感じだがすべて大皿に盛ってある。すごい量だ。
「ウツミくん、まあ、飲みんさいや」
ひと足先に納豆をつまみに晩酌をはじめていたおじさんがそう云ってビールを注いでくれる。
「うわっ、ありがとうございます」
「遠慮せんでええけ、好きなだけ食べて」
「はい」
横からおばさんも加わって、乾杯もなくにぎやかな食事がはじまった。ぼくにあれこれ世話を焼く両親を苦笑いで眺めながら、サクマも手酌でビールを飲んでいる。大学生活や就職活動など、おじさんとおばさんが聞きたがるので話がつきない。その合間も隣のテーブルの空席が気になった。誰もそのことには触れないので聞きづらく、見て見ぬふりをする。
取り皿におばさんがおかずを分けはじめたのを見て、てっきり自分のかと手を伸ばしかけたがどうも違ったようだ。おばさんは無造作に一種類のおかずをてんこ盛りにすると何も云わず横のテーブルの上にさっと置いた。それからまた別の種類のおかずをひと皿、またひと皿。こちらの会話に加わりつつも次々と置いていく。少々乱暴だが慣れた手つきだった。遅れてやってくる誰かにおかずを残してやっているのだろうとぼくは思った。
おばさんが台所に消えるとすぐに丼飯を片手にもどってきた。炊きたてのいいにおいがする。そういえばごはんをたくさん炊いたと云っていたっけ。つやつやと光った山盛りのごはんはおいしそうではあるが、さすがにそんなには食べられない。残すのも悪いしどうしよう。ぼくの心配をよそにおばさんは横を素通りするとまたテーブルの上にその丼飯を、どん、と置いた。
「米はうちでつくっとるんよ。去年はけっこううまくできたけえ、ウツミくんもあとで食べてみんさい」
ぼくがずっと目で追っていたからか、おじさんが話しかけてきた。
「あ、はい。ありがとうございます」
ふり返って答えると、うれしそうに相好を崩した。
「イノシシにやられたとか云ってなかった?」と、サクマ。
「あれはゴマキんとこの。柵が壊れとったのをちゃんと直さんけえ、いけんのんじゃ。田畑しかしとらんくせに、ああいうところがずぼらなんじゃ、あいつは。おれは日中仕事に出かけてもそういうところは手を抜かん」
「兼業農家ってことですか」
「平日はふもとの郵便局で働いとる。このあたりはほとんどそんな感じじゃね。自分ちで食べるぶんの野菜と、まあ米はいっぺんにぎょうさんできるけん、JAに持っていって買いとってもらったりするが、たいした稼ぎにはならんのよ」
「へえ」
そんなものかと頷いて何気なく視線をもどし、その瞬間ぼくはぎょっとのけぞった。知らぬ間に人間が増えている。
小さなテーブルの前にはひとりの髪の長い女性が座っていた。

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片島麦子『レースの村

【収録作品】
幽霊番
レースの村
空まわりの観覧車
透明になった犬の話

幽霊の世話をする人々、女性だけの村、姿が透明になる犬……。
とても不思議なのに、どこか懐かしい光景。
日本のどこかに、こんな場所がまだあるのかも、と思えてくる。
豊かな発想から物語を紡ぎ出す、新しい語り部の誕生だ!
ー松永美穂(翻訳家/早稲田大教授)

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