バナー都甲_世界文学の体温アメリカ文学

第5回 コーヒー買ってきて(都甲幸治)

 大晦日から元旦にかけての電車は止まらない。初詣に出かける乗客のために、この日だけは終電がない。そして深夜、僕は山手線に一人乗り込んでいた。なぜか。直した翻訳のゲラを自分で編集者に届けに行っていたのだ。
 今は直したゲラをPDFで送ったりする。その前はファックスで送っていた。でも大学院生の僕の家にはファックスなんてなかった。それで、ある程度たまると週に一回、宅配便で編集者の自宅まで送っていた。なんでそんなことをしていたのか。
 僕の初めての翻訳書がブコウスキーの『勝手に生きろ!』だってことは前回述べた。大学院ではダメダメな学生で、ようやく摑んだチャンスだ。修士の3年だった僕は、ブコウスキーの修士論文を書きながら必死に訳した。わからない単語は全部辞書で引いた。和英で引き、英英で引き、自分なりの訳語を必死に考えた。
 当時は出始めのリーダーズの電子辞書ぐらいしかなくて、あとは大きな紙の辞書をひっくり返しまくった。そのうち慣れて、ものすごい速さで目当ての単語が引けるようになった。それでもやっぱり時間がかかる。どう訳していいかわからないから悩む。それでまた時間がかかる。
 苦しみまくって最後まで訳して、原稿を柴田先生に見せたら真っ赤に直された。その直しの理由を考えながら、英文とつき合わせてまた何度も直す。ようやくこれだ、という訳文を完成して、それでようやく編集者との付き合いが始まった。
 編集者は、当時すでに有名人だった安原顕さんだった。竹内書店でマクルーハンやソンタグなど伝説の訳書を作り、『パイデイア』という恐ろしげな雑誌を編集して、その手腕が買われて中央公論に移った。そして編集長を務めた『マリ・クレール』という女性誌を、なぜか先端的な思想誌兼文芸誌に変えてしまい、評判を呼んだ。
 当時絶好調だった吉本ばななの『TSUGUMI』が連載されていて、蓮實重彦先生などの評論も載っていた、と言ったら雰囲気がわかるだろうか。まさにバブル時代にふさわしい文化的な爛熟がページを埋め尽くしていた。そうした雑誌が高い売り上げを誇っていた、と言うだけで、今思うとまるで外国の話のように聞こえる。でも当時の日本はそんなふうだったのだ。
 こうしたキラキラした世界に、冴えない学生だった僕はとにかく憧れていた。と同時に、僕とは縁がないものだと諦めてもいた。雲の上の人たち、という感じだ。だから、柴田先生に繋いでもらった関係とはいえ、あの安原さんが僕の訳稿を見てくれるというのはなんというか、神様と出会ったようなものだった。
 実際には安原さんのほうの事情もあった。脱サラして作ったメタローグという会社をゴタゴタで辞めるはめになり、編集者として、知人の紹介で入った学研で一花咲かせようと画策していたころだ。だから安原さんのキャリアの中でもわりとピンチの時期で、そこに学生として、というか人生のピンチを迎えた僕がちょうど出会ったというわけだ。
 実物の安原さんは、今まで出会ったことのないような不思議な人だった。確かに濃い見た目で、豪傑笑いをして、パブリックイメージのまんまに最初は思える。でも話していると、繊細で内気な内面が伝わってきた。しかも何というか、年齢がないのだ。
 横に並んで一緒に話しながら歩いていると、つい同年代の男性と話しているような気持ちになる。たぶん弱さとか暗さを、人格の殻の中に上手に隠すことができない人なんだろう。一言で言えば、大人になりきれない人、というか。何度か会ううちに、僕は知らず知らずのうちに、安原さんとの強い絆を感じるようになった。
 柴田先生と安原さんの原稿の直し方はまるで違う。柴田先生は英文に忠実で正確、なおかつ日本語としてもセンスのある直しだ。いわゆる柴田っぽいエッセンスがたっぷり入った直しである。でも安原さんの直しはそのどれにも当てはまらない。
 安原さんは原文なんて見ない。訳文が文学として成立しているかどうかだけを見る。そして直しには、今まで数多くの作品を読み、作家とつき合ってきた、日本近代文学の歴史そのものが詰まっている。まさに明治以降の日本文学百年の歴史が身体化して迫ってくるのだ。
 文学は勉強ではない。実際に人がいて、作品を書き、原稿を直し、複数で文章を練り上げながら、栄光の歴史を作り上げてきたのだ。安原さんとつき合っていると、そのことが肌で感じられた。今ここで歴史に触れていると思えた。
 安原さんに原稿を直してもらえるのが楽しくて、彼の入れた赤を打ち込んでは自分なりに練り直して宅配便で送った。その作業が何ヵ月も続いた。そして大晦日だ。電話で「宅配便が出せないんですよ」と僕が言うと、「これから家まで来りゃいいじゃん」と安原さんに言われた。それで夜9時ごろかな、相手の迷惑など全く考えず、年末のお宅にお邪魔した。鶯谷の駅で降り、ラブホテル街を抜けてしばらく行くとマンションがある。言われた部屋でベルを鳴らすと安原さんが迎えてくれた。
 それから何時間も文学の話をした。そのときの話で覚えているのは、島尾敏雄の家に原稿を取りに行ったときのエピソードだ。家と言ったって東京ではない。奄美大島で、鹿児島までは行けたのだが、台風でなかなか船が出ない。でも原稿をもらわなければ連載が落ちてしまう。ようやく船は出たが海は大荒れで、凄まじい波を被りながら島まで渡った。
 すごい。元旦の深夜に電車に乗っているどころじゃない。命を懸けて原稿を取りに行く。今だったらメール添付で終わりなのに。でもやっぱり、そうやって手で書いて、体を動かして原稿を取りに行っていた時代の話は迫力がある。付き合いの濃さが違う。
 もちろん部屋には膨大な本があったが、僕が打たれたのは、なぜか勝手にマンションの廊下に積まれた、大きなクリアボックスだった。ほら、服を入れるのに使うあれだ。その中には、安原さんが読んだ雑誌がぎっしり詰まっていた。しかも『anan』などマガジンハウスの雑誌まである。
 安原さんは昼過ぎに起きだし、それから著者に電話をかけて機嫌を伺い、仕事を続け、その間にも凄まじい量の本を読み、雑誌を読み、果てしなく勉強を続けていた。ああ、一流の人ってこんなにがんばっているんだ、ということが肌で感じられた。
 居住スペースの別の階には、たぶん書斎として使っている部屋もあって、そこは巨大なステレオで埋まっていた。信じられないほど太いケーブルでスピーカーが繋がっていて、なんだかわからない道具が下に敷いてある。そこで気に入っているジャズなんかを聞かせてくれた。「良い音ですね」なんて僕が言うと、「お前なんかにわかるか」と言われたりして。
 帰りの電車で、僕は周囲を見回していた。はしゃいだカップルばかりで、みんな明治神宮に行くのかな。同年代の人たちは眩しくて、でも僕は大学院では芽が出ず、将来も見通せず、原稿を抱えて不思議なおじさんに会いに行っている。まったく、どういう人生なんだろう。でも楽しかった。お先真っ暗だったけど、でも楽しかった。
 ブコウスキーの修士論文を書き上げ、3月には『勝手に生きろ!』の訳本も出た。生まれて初めての本だ。自分の著作ではないけど、でもやっぱり自分の本だ。書店を巡って、本当に出ているか確かめた。積んであるのを確認して興奮した。立ち読みしている人に近づいて、「買っちゃいなよ」と念を送ったりした。
 大学院をこのまま続けることに迷いを感じていた。大して見込みもないのに、続けたってろくなことにはならないんじゃないか。でも翻訳だけで食べていける気もしなかった。他のことをやりたくもなかった。どうすればいいんだろう。まあ、どうにかなるだろう。進学する気もないまま博士に出願した。
 口頭試問はさんざんなできだった。そして当然だろうか、何人か受験した中で僕だけが落ちた。もちろんがっかりした。だって、「もうお前は大学院には来るな」と言われたようなものだったからね。でも同時に、奇妙な歓びも感じていた。自分が本当にいたい場所はここじゃない。むしろ別の場所で、自分のやりたいことと真正面から向き合えるんだ。
 それからは行き場がなくなった。しょうがないから柴田先生の大学院の授業にモグり、当時渋谷にあった学研の事務所にちょくちょく顔を出した。いつ行っても安原さんは歓迎してくれた。文壇にまつわる雑談を聞きながら時間を潰す。「都甲先生、コーヒー買ってきて」と言われればコンビニまでパシる。まったく、偉いだかなんだかよく分からない。
 家では翻訳の次回作に取り組んでいた。マイケル・ヴェンチュラの『動物園――世界の終る場所』という本だ。一年ぐらいかかったかな。やっぱり不器用だから、凄まじい時間をかけて訳文を作っていった。舞台はロサンゼルスで、この何年後かには自分が住むことになるなんて、当時は思いもしなかった。
 翻訳以外にも読み屋のバイトをやった。1冊一万円か二万円で、出版社相手に翻訳を検討している作品を英語で読み、レポートを書く。やり方がわからないから、知らない単語を全部引きながら読んだ。毎日何時間も取り組んで、一ヵ月で1冊が精一杯だ。計算したら時給が100円を大きく割り込んでいた。
 英語力を上げるには、まずは英単語に英文法と思って、声に出して何度も唱えた。実家の部屋で、夏はクーラーも入れずに、窓を開けたまま唱え続けた。近所にも丸聞こえだったに違いない。しかも体力が落ちるとマズいから、と思って近所を30分から一時間毎日走った。
 まあ要するに引きこもりである。一度は東大にまで入ったのに、いったい何をやっているのか。親はどう思っていたんだろう。客観的には完全にヤバい存在だったのだが、当時の僕は希望に満ちていた。翻訳も出る。英語力も順調に上がる。きっとエッセイや書評の依頼も増えるだろう。数年後には売れてしょうがなくなったりして。わっはっは。
 結論から言えば、当時の僕は全然売れなかった。当たり前だ。訳書なんて毎年たくさん出る。そして僕の本なんて、その中のたった1冊でしかない。読んでくれた人も多いだろうが、それはブコウスキーや柴田先生や安原さんの信用のおかげで、僕なんか何でもない。でも当時はそのことがわからなかった。
 ブコウスキーはそこまで売れず、ヴェンチュラも鳴かず飛ばずで、ようやく僕は現実に気づき始めた。このままでは生きられないんじゃないか。当然である。バブル後の日本で、文芸翻訳だけで生活している人なんてたぶん一人もいない。翻訳による収入はそれほど少ないのだ。もちろんエンターテインメントに乗り出せば別だけど、僕がやりたいのはそれではない。あくまで純文学に関わっていたい。
 業界の構造が身に染みるころには、もう3年が経っていた。そして僕は28歳になっていた。こんなにがんばったのに。そして結局、柴田先生に、「もう一度大学院に戻らないか」と声をかけてもらった。先生は「都甲君だけタダで授業に出ていると他の学生に悪いから」なんて言っていたが、それは先生の優しさだったのだろう。
 せっかく修士を持っているのに、当時は博士から学生をあまり取っていなくて、結局は東大の地域文化研究専攻の修士に行くことになった。大学じゃ文学はできない、と思い込んでいた僕にとって、これは挫折だった。と同時に、少なからずホッとした。自分にはフリーで生きていく才能がない。だから英語の先生をやりながら、細々と翻訳を続けよう、と思った。ようやく行き場ができたことに感謝した。そして先輩が全員僕より年下なことに絶望した。
 数年経ち、僕が留学でロサンゼルスにいるときに、安原さんは肺癌で逝ってしまった。63歳かな。あっけない最期だった。日本に戻ってあのマンションを訪れた。安原さんの奥さんと娘さんが迎えてくれた。
 島尾敏雄の奥さんである島尾ミホさんが送ってくれた黒糖焼酎を三人でガブ飲みしながら、安原さんの思い出を語った。写真屋が勝手に遺影から煙草を消しちゃったけど、文句言って元に戻してもらった、という奥さんがかっこよかった。きっと二人は戦友として、文学の世界でずっと闘ってきたんだろう。
 今でも渋谷の街を、安原さんと一緒に歩いていた時の感覚を思いだす。安原さんについていろいろ言う人もいる。それはそれでわかるけど、僕がどん底だったときに彼は一緒に寄り添ってくれた。そういう人はあまりいない。そしてそのことは決して今後も変わらない。

プロフィール

都甲プロフィール写真_丸

都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県に生まれる。現在、早稲田大学文学学術院教授、翻訳家。専攻はアメリカ文学・文化。主な著書に、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社、2009年)、『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社、2012年)、『狂喜の読み屋』(共和国、2014年)、『読んで、訳して、語り合う。――都甲幸治対談集』(立東舎、2015年)など、主な訳書に、ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(共訳、新潮社、2011年)、同『こうしてお前は彼女にフラれる』(共訳、新潮社、2013年)、ドン・デリーロ『天使エスメラルダ』(共訳、新潮社、2013年)、同『ポイント・オメガ』(水声社、2018年)などがある。

「アメリカから遠く離れて」過去の記事

第1回 聖書と論語

第2回 サリンジャーの臙脂色の表紙

第3回 すね毛と蚊

第4回 相性がいちばん

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