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【日々の、えりどめ】第3回 着くずれながらも生きていく(一)

 着物の着方が、良くない。良く注意されるのである。痩せているためか、帯をきつく締めてもすぐに緩んでしまう。襟元もすぐにはだける。写真なんかを撮ってもらって後で見てみると、襟元から大胆に半襟と長襦袢とがはみ出していて、面食らったことが何度もある。浴衣で出歩くことも多いが、涼し気というよりは浮かない書生の風体である。それでも一端を気取って腕組みなんかをしながら、ちょこちょこと草履を引きずっている。だらしがない。
 着物は人だと言われる。まさしく、そうだと思う。隠すことはできない。この乱れが、いまのわたしとわたしの生活である。
それでも日々を過ごしていかなくてはならない。それもまた、本当である。気の遠くなりそうな自分の未熟さを体の芯から自覚しながらも、それでも不確定の将来に向けてとにかく時間をやり過ごさなければならない。そういう立場の人は、多くいるのだろうか。そんなことも、ふと思う。
 この連載を良い機会にしようと思ったのは、自分の表現のためばかりではない。わたしはより自分の生活についても、こういう表現の中から少しずつ明るいものにしていきたいと思ったのであった。これは甚だ都合の良い考えである。しかし着くずれも発見をしなければ是正もできない。身嗜みは崩れるとこからはじまり、それを見つけるところからはじまるのだ。――そんなことを言えば、恰好がつくだろうか。どこまでも能天気なやつである。そう思われても仕方がない。
 それでもこの現状を、ちいさな留め金たちで、四つ角を揃えるようにして、まとめてみることから始めてみたいと思った。右襟と左襟を合わせるように。博多帯を締めなおすように。過去のもの。書きかけの原稿。落語のもの。それ以外のもの。読書の記録。海外への憧れ。郷愁と記憶の断片。そういうものを捉まえて、まとめられるものからまとめてみて、それがもしかしたら光を通す筒状の抜け道のようになって、その通気性によって少しでも日々が是正されるならば、良いと思った。もちろんそこには昨今の時世の事や、その最中にもそれでも一表現者としてわが身を揺さぶり、また揺さぶられながら生活をしていかなくてはならない、若手のはなしかとしての不安も大いにあった。

 えりどめ。襟留。eridome ――どれにしようかと思ったけれども、とりあえずはひらがなにしてみて、この連載の題にすることにした。
 えりどめ。いつ頃からか、この言葉が常に口元を支配するようになっていた。ひとつの語彙が記憶の媒体に傷をつけてまるで劣化したレコードのように同じ音楽を繰り返すようになることはたまにあることだが、そうしているうちに、この語彙には、何か小さな天使のようなものをさえ宿っているような、そんな気さえもしていたのであった。
 
 えりどめ。襟留。eridome ――改めてこの語彙を様々に列挙してみたが、ひらがなに決めたのは、まずはその方が日々の物事を単純に、柔らかくできると思ったからである。何よりその見た目が気軽である。例えば漢字にすると、この語彙は気の引き締まるような鈍い輝きを放つ。数グラム重みが増して、値段も高くなって、思わず背筋が伸びるというような気がする。ローマ字にしてみると、フランス語かスペイン語か、どこかラテン語系の動詞のようにも見える。語源を遡れば「物事を糺す」なんて意味がありそうである。ラテン語辞典を持っていないので、あえて調べていない。
 こういう言葉遊びは、むかしからのくせである。空想の文集を未だに内心抱えていることは前章で述べたが、ドイツ語も話せないくせにどうやらドイツかぶれである独文科出身のわたしは、例えば辞書を片手に何やら企みながら、空想の書物を愉しむのである。吾ガ空想ノ『襟留文集』ノ母国語ニヨル原題ハ、『Die Broschen』デアル。――そうしてこんなことを、ふと書きつけて遊んだりもするのである。得意である。
 ちなみにBroscheというのは、ドイツ語でいわゆるブローチのことである。複数形にして、Die Broschenとすれば、言葉がきらきらと光を反射するようで、幾分詩的かもしれないと思ったのである。しかしネイティブから見ると果たしてどういう語感があるのか、それはわからない。
 辞書を引くと、Spangeという単語も出てくる。これは髪留めのクリップ、あるいは留めピン、そういったニュアンスのようである。これにドイツ語の縮小語尾であるchenを付けてSpängchenとすれば、『ちいさな留め金たち』というような、そんな愛らしい語感が出るかもしれないとも空想した。
 あるいはまた、Schließeという単語もある。これはSchließenが閉じる、締めるという初級単語の動詞なので、感覚としては摑みやすい。単語中に出てくる「ß」(エスツェット)はドイツ語特有の文字であるが、これがかの襟留のかたちに似ているような気もする。襟元のエスツェット。――どうだろう。これはなかなか、発明である。チョイと、そこのエスツェットを取っつくんない、なんて楽屋での会話は、奇特である。
 こんな具合である。こんなことばかり、考えている。洒落以前、のようなもの。そのような文体と遊び。そういうものを、躊躇いも脈絡もなくこうして書きつけたりしている。わたしは文章家としても、やはり、だらしがない。
 生活を少しでも糺したいと願うこの連載であるが、まずは手前の文章から少しでも体裁を整えてみなければならないようである。課題は多くある。文もまた人なり。


【プロフィール】
林家彦三(はやしや・ひこざ)
平成2年7月7日。福島県生まれ。
早稲田大学ドイツ文学科卒業。
二ツ目の若手噺家。本名は齋藤圭介。

在学中に同人誌『新奇蹟』を創刊。
「案山子」で、第一回文芸思潮新人賞佳作。

若手の落語家として日々を送りながら、文芸表現の活動も続けている。

主な著作
『猫橋』(ぶなのもり)2021年
『言葉の砌』(虹色社)2021年


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