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【試し読み】『フルトラッキング・プリンセサイザ』(「フルトラッキング・プリンセサイザ」より)

「フルトラッキング・プリンセサイザ」

 今日はバスタオルで体を拭こう。うつヰは出かける前に思いつき、それをメモするかどうか迷った。忘れないうちに、アパートの階段を下りながらアプリケーションにメモしておくのがよいのだろうけれど、そのこと自体を忘れてしまわないよう玄関を出る時にアイフォンをポケットへは入れてしまわず、手に持ったまま靴を履いたり施錠をしたりすればいいのだとして、どこにどう書くのか。どこにというのはどのアプリケーションで書き留めておくのか、ということで、打ち込んだそれを帰宅してシャワーを浴びる前に確認するよう促してくれる何か、たとえばプッシュ通知が届くといった誘導がなければならない。そこまで考えたところで鉄の錆びた手すりを右手で掴んだ。あまりに熱いので驚いた。背負ったバックパックも重いし、アプリケーションを選んで今日はバスタオルで体を拭こうと思ったことを、あるいはバスタオルで体を拭くこと、という自分への指示をフリック式入力で書くことに気を取られて、足を踏み外して転げ落ちたりしたら大変だ。それで階段を下りていくのに集中することにした。
 自転車に乗って駅へ向かい、駅の南口の改札の横にある、高架下の暗い駐輪場に停めた。いつも停めているゾーンに隙間が無いことに戸惑った。おう、と声が漏れた。それでコンクリートの柱ごとに区切られているゾーンを一つずつ見ていき、自転車を差し込めそうな場所を見つけた。日曜の朝の駐輪場は混んでいた。台数はきっと平日よりも少ないのだろうけれど、造作なく置かれていく自転車を整理してくれる係の人がいないから、停めにくくなるのだということを忘れていた。イベントの現場の仕事は日曜に入ることが多い。自転車で駅まで行くなら停めるのに手間取ることも計算に入れて家を出なければいけなかったはずだ。なぜ忘れていたのだろう、というか今までもずっとそうだったのになぜ気にしなかったのだろう。
 会場に着くと部長がもう作業を始めていた。太い手を少しも止めずに動かしているのが遠くからでも分かった。しゃがみこみ、ケーブルを整えていた。黒いTシャツの、背中のほとんどが汗で濡れて色が変わっていた。色が変わったといっても黒がまた別の黒になったのであって、それを何と呼ぶことができるのかうつヰには分からなかった。実際の順番では色が変わっているから汗で濡れているのだろうと推察したのだから、色のことは色のことで何か正しく言えた方がいい。方がいい、というのは何だろう。近づいていくと、Tシャツの木綿の質感が目で見て判るようになってきた。濡れて真夏の陽射しを反射していた。部長の肩甲骨や脇腹の形もよく分かった。間近に来たうつヰに気づくと部長は、キャップ外しな、と言った。荷物はとりあえずその辺、スピーカーのところあたりで。分かりました、とうつヰは返事した。キャップはバイザーが大きく、硬く厚いので気に入っている。美容院に行ってもすぐに膨らみ始めるうつヰの毛量を頼もしく覆うクラウンの深々とした形も気に入っていた。できれば外したくなかったが、上司の指示に従って頭から外し、バックパックに詰めた。左のショルダーストラップを掛けたまま腹の前に本体を寄せてサイドポケットのジッパーを開けた。あまり大きく開けて中身が飛び出したら困るので、拳ひとつぶんくらいにしておいたその穴にねじ込んだ。
 そばに荷物を置いておくようにと部長から指示されたスピーカーの方を見遣ると、堀尾が立っているのが見えた。筒状のアルミの脚の上に載ったスピーカーは二メートル近い高さまで上げられている。堀尾の隣に、腕組みをした人が歩いてきた。背中の方に角張った物が突き出していた。うつヰから見て反対側の肩にトートバッグを掛けているようだった。肩にトートバッグを掛けて腕組みをすると安定するのだろうか。うつヰは自分でそうしてみるところを想像してみた。バックパックがいいのかトートバッグがいいのかについて考えてみることがある。移動中や現場で物を即座に取り出すには良さそうだが、身に着けたままあれこれの作業をするには不便そうだ。腕組みしている彼女はこのイベントの運営を受託している大手の会社のディレクターだということを思い出した。堀尾の広告代理店から受注していた。名前は覚えていなかった。腕組みしたまま部長とうつヰを一瞥したように感じ、うつヰは彼女から目をそらした。うつヰの会社はイベントの中の一部分だけ、腕組みしているその人から請け負っている。部長がキャップを外せと言ったのは、腕組みの人の流儀に沿おうということだった。荷物を置きに行くのは後にして、うつヰは部長の隣でケーブルを整理する作業を始めた。ステージが空き次第キャリブレを始める、と部長は告げた。空けてくれるまで待つんですね。これがメインのイベントなのに、どうして最初にセッティングさせてもらえないんですか、とうつヰは尋ねた。部長は青緑色の養生テープをケーブルの束の上に貼りながら答えた。遅れてくるからさ。いや、遅れてないです。いや、九時集合だよ。
 ごめんなさい。頭を下げたが、手は止めなかった。部長が切った養生テープを受け取って、同じ間隔で地面に貼った。芝生のエリアに延ばしてしまうと危ないから、直角に折れて脇に逃していく。ガラスのアーケードと百貨店の間に一メートルくらいの隙間があって、そこだけ地面が熱くなっていた。またやってしまった、と呟いた。部長が隣で笑った。どうしたらいいか、後で考えようね。ごめんなさい。いや、まあ、ビール飲みながら相談だ。それは良いアイデアだ。ステージの上ではトークイベントのリハーサルが始まっていた。イントレとパネルで組んだ円形のステージは四方から見えるように浮島のように配置してある。演者が奥から出てくるための通路が延びていて、黒幕で隠されたボックスに続いている。ボックスの内側はすぐスタッフ用の通用口になっている。出演タレントのための控室も用意されていた。
 あの通路がもっともっと長く延びていて、遠くから走って現れてくるようにできればよかったのに。うつヰは会場の図面を思い出していた。張り渡した通路のパネルは薄くて、脚に十分な重さが無いから少し踏み込むだけでガタガタと音がする。鼠色の、よく見たら白い化繊の糸がたくさん混じっている布が張ってあるのも残念な気がする。あの鼠色のガタガタいう通路について、あの目を引く二人の出演者に、ガタガタいってしまうのでそっと歩いてきてくださいと注意を促さなければならない。
 壇上から人が捌けた。タレントの後を追って堀尾が小走りで奥へ行くのを確認して、バックパックを掴んだ。スピーカーの脇に置くと、マシンとキャリブレーション用のスティックを取り出した。マシンを左の脇に挟んだら、Tシャツの袖から出た皮膚にアルミの部分が触れて、刺されたような痛みを感じた。レノボの機体が熱くなっている。Tシャツの布が吸った汗が湯のようになっていた。家でマシンを閉じた時にスリープ状態になっていなかったのか。蓋だけ閉じて起動したままになっていたようだ。電源が持たないかもしれない、ACケーブルを忘れていたらどうしよう。胸の辺りが重くなって、急いでバックパックを全開にした。あった、よかった。声が出ていた。
 ステージへ戻る際にバックパックをどこにどう置いたか、振り返ってもう一度確認した。アークテリクスの骨の鳥のロゴマークをうつヰは睨んだ。部長はステージの四隅にポールを立てていた。センサーの青いLEDが全部点滅しているのを指差し確認して、よし、と呟き、飛び降りてスピーカーの裏に作ってあるPAブースへ入り、配信用の機材の調整を始めた。入れ替わるようにうつヰはレノボとACケーブルとスティックを壇上に置き、手をついて飛び乗ろうとした。部長なら片手をついて飛び上がれるがうつヰには難しかった。地面を蹴り、這い上がった。高いところから見ると、周囲に観客が集まり始めているのが分かった。タレントの集客力だろう。駅の長い通路を出て、いったん屋外に出て庭園状のスペースに入る前に大きなパネルが立てられているのを思い出した。百貨店へ向かうらしい家族連れの、手を引かれた子供と母親が同時にわあ、と驚きの声を上げ、ユウキだー、と嬉しそうにするのをうつヰは見た。
 あの時に、遅刻していると分かっていたら走ったのに。関係者の顔を見たら元気にはっきり挨拶しよう、ということばかり考えていた。集合時間は知ったその時にメモしないといけない。起きる時間を計算してその場でアイフォンのアラームを設定しておくべきだったし、寝る前に集合時間と起きる時間を確認すること、というメモを作っておくべきだった。そのメモはどこに書いて、どう私に向けて通知されるようにするべきだったのだろう。飲みすぎないように私へ警告するものも要るだろう。それは毎日のように思っている。思っているけれどうまくいかない。挨拶のことだった。前に部長と練習した挨拶。失礼だと怒られない挨拶。芝生のエリアには、早めに陣取る客の他にスタッフらしき人も入り混じっていた。黒いTシャツと黒いパンツの人はだいたいイベント運営側の関係者。袖とか裾がゆったりしていたらだいたいタレント側の関係者。この暑さでわざわざネクタイを締めていたらだいたい主催者側の関係者。二人出演するタレントの内、どちらのファンなのかは分からないが、わざわざシートを持ってきて中央に敷いて待っている人がいた。来る前に見かけた家族連れが、少なくとも同じ構成の家族連れがやって来ていた。あとは近くの高校の部活のチームらしいユニフォーム姿の集団。ここを抜けていくと近いのだろう。百貨店から向かいの喫茶店の方へ向かう買い物客。その中で、大きな革のトランクケースが動いていくのが目に入った。飴色の、四隅に鋲が打ってある、持ち手がそれを運ぶ人の手よりずっと大きな、重そうな鞄。どんな人が持っているのかと視線を上げようとしたところで部長に呼ばれた。
 キャリブレーションはてこずった。スティックを持ってステージの中を歩き回る。自分が太い蛍光ペンになって、正方形の枠を塗り潰していくのを想像しながら歩いた。ポールについたセンサーの外にスティックが出ないように、しかしぎりぎりまで範囲を取れるように動く。ブースで部長が首を傾げていた。それから周囲を見渡した。うつヰは二本の黒い長いスティックを両手に持ったまま部長の動向を見守った。部長はブースから出て四方の芝生エリアを歩いた。その時にまた、あの革のトランクが目に入った。白い服を着た人が持っていた。部長が、座り込んでいる青年に何か話しかけたのでそちらに気を取られているうちに、また見失った。 
 ビールは池袋で飲んだ。部長が払ってくれた。また明日ね、とうつヰと別れて地下通路の角まで歩いてから、翻って戻ってきて、違うごめん、と言った。おれ明日、ユーキュー取ってたんだ、と言った。それからまた改めて去った。部長の背中はまだ濡れているようだった。現場に居た時のTシャツのままだ。うつヰはきっと汗だくになると思っていたから、バックパックに着替えを詰めていた。現場から退出する前に百貨店のトイレで着替えた。ブラトップも替えたので気持ち良く感じたが、脱いだのをしまう時に、同じ物がもう一枚入っているのを見つけてため息をついたのを思い出した。おそらく使用済みで、脱いだきりそのまま入っていたものだ。部長が角を曲がって見えなくなったところで通路を引き返し、地上に出て歩いて帰ることにした。上がると広場になっていて、円になって踊っている人たちが居た。その先にある劇場の屋根の下を抜けていくと少し涼しいので、そうした。
 帰宅して荷物を下ろすと、まず顔を洗った。水道の横に重ねてあるハンドタオルで拭いて、髪をかき上げて額を出した。布団をどかしてスペースをつくり、トランクを開けた。取り出した道具一式を装着して、うつヰはプリンセサイザでVRチャットに入った。プリンセサイザ側の操作で、多磨霊園駅のワールドを選んで駅前に降り立った。煙草屋の前にバスが待っていて、それに乗って霊園へ入っていった。人々と一緒だった。降りて人々と月明かりの下を歩き、区画を三つぶん進んだ。廟のようになっている、青白くほのかに光る墓石の周りにその日は人々が集まっておしゃべりをしていた。うつヰが来てから一時間くらい遅れて多磨霊園の王女が現れ、おしゃべりはいっそう盛り上がった。人々の出入りの狭間、多磨霊園の王女と二人だけで話せる時間が訪れた。王女は耳打ちするように近づいて教えてくれた。その道をずっと行って、鴉が飛び立つギミックのある角を右に、水汲み場を過ぎてまたずっと先、五分くらい通常歩行モードで進むと突き当りにロシア語が刻まれた特別な墓碑があるんだよ。ゾルゲといって、スパイの墓だ。

(つづきは本編で)

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『フルトラッキング・プリンセサイザ』
池谷和浩
http://www.kankanbou.com/books/novel/0627

四六判、上製、224ページ
定価:本体1,800円+税
ISBN978-4-86385-627-1 C0093

装丁 成原亜美(成原デザイン事務所)
装画 盛圭太「Bug report (Circuit)」

【著者プロフィール】
池谷和浩(いけたに・かずひろ)
1979年6月生まれ。栃木県立宇都宮高等学校卒。筑波大学日本語・日本文化学類卒。東京都在住、会社員。現職はデジタルハリウッド株式会社の執行役員として大学事業を統括。「フルトラッキング・プリンセサイザ」で第5回ことばと新人賞を受賞。

▼インタビュー記事
好書好日「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。
ことばと新人賞・池谷和浩さん 信奉と創作は共存する――千葉雅也になれない僕が書く、僕だけの小説 
連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」#9

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