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【試し読み】ラシャムジャ「路上の陽光」(『路上の陽光』より)

ラシャムジャ「路上の陽光」(星泉訳)より


 ラル橋の上に立っていたときのことだった。どこからともなく一陣の風がラサの谷に吹き込んできて、ランゼーの赤い帽子を舞い上げた。帽子は橋の下へと落ちていき、あっという間に川に流されていった。

 大きくもなく小さくもないその川はキチュ川から引かれた水路である。ラサの東側で北へと分かれたその流れは、ラルの湿地帯を通って下っていき、ラサの西側のトゥールン・デチェンで再びキチュ川に合流し、やがてヤルルン・ツァンポ川へと流れ込んでいく。もしそのまま流れていくとすれば、ランゼーの赤い帽子はヤルルン・ツァンポ川の水み な面も に浮かんだまま流されていき、しまいにはヒマラヤ山脈を越えて南へ向かい、インドまで運ばれていくことだろう。ひょっとして、二の腕に腕輪をしたインドの洗濯娘が拾ってかぶるかもしれない。

 ランゼーは傍らのプンナムに「ねえ、お願い。あたしの帽子、拾ってきて。お願い」と頼み込んだ。「え、なんだって?」プンナムは拾いに行く気などさらさらないようで、せがまれても知らんぷりを決め込んでいた。

 「ねえ、早く、早く。お願いだから、あたしの帽子、追いかけてよ」ランゼーは慌てふためいて、プンナムの袖を引っ張ったり、橋の欄干につかまったりしながら、流れていく赤い帽子の行方を見つめていた。

 ランゼーは赤い帽子のことがどうしても諦めきれない。

 なのにプンナムときたら、橋の欄干にもたれかかって気怠そうにしているばかりで、動こうともしない。動かずにいるのはラル橋に集う立ちん坊たちのいつもの姿ではあるのだけれど。実を言えば橋の上でじっと待つことこそが彼らの仕事なのだ。彼らはそうやってラル橋の上を行き交う人々を観察しながら、金のイヤリングに銀のブレスレットのご婦人や、腹のせり出した黒いサングラスの紳士に声をかけてもらうのを待っているのだ。声をかけられてはじめて仕事にありつける。仕事をすればいくばくかの日銭が入るので、彼らはラル橋の上に立ってラサの日差しに照りつけられながら、ひたすら待ち続けている。

 ラサの陽光は容赦なく降り注いでくる。赤い帽子が川に流されてしまって日差しから逃れることもできないランゼーに、太陽の光が針のようにちくちくと刺さり、彼女の色白で赤味のさす肌から水分をどんどん奪っていく。上着のポケットから黒いマスクを出して顔を覆い、額に手をかざすなどして、日差しを遮るしかなかった。高原の乾いた日差しは目に突き刺さる。ランゼーは額にかざした手で影を作り、赤い帽子の行方をしばし追っていたが、帽子は遥か彼方まで流れていき、ついには見えなくなった。

 帽子を流されてしまったランゼーは、すっかり肩を落としていた。ラサのきつい日差しにさらされていると、あの帽子のありがたみが思い出されて悲しくなった。実はあの赤い帽子は、先日ポタラ宮の床の突き固め作業に行ったとき、もらった日当をはたいて買ったものだった。巡礼路パルコルのお世辞上手な物売りに、まるで職人があなたのために仕立てたみたいな帽子だ、よく似合うし、帽子をかぶったあなたは実に美しい、などとおだてられたのだ。十八歳のランゼーは、きれいだなんて持ち上げられたらすぐに舞い上がってしまう。物売りに褒めそやされてすっかりいい気分になり、その日の日当を迷わず袋から取り出して物売りに渡し、その帽子を手に入れた。帽子をかぶり、孔雀のようにしずしずとパルコルを歩くと、ランゼーは巡礼をしている大勢の人々から注目を集めているような気分だった。

 ラル橋の上に立つようになって初めて、ランゼーは高原の日差しがどんなにいまいましいものか思い知った。照りつける強い日差しはランゼーの顔にちくちくと針を刺し、彼女の肌の柔らかさと頰にさす赤味を少しずつ奪っていった。

 しばらく前プンナムに「帽子でも買ってかぶればだいぶましだぞ」と言われた。ランゼーはそのとき「まだ帽子を買うお金なんてないもの」と返事をしたのだが、心の中では帽子を買えたらどんなにいいかと思っていた。プンナムは安物の煙草に火をつけ、大人の真似をして眉間に皺を寄せながら煙草をふかしていた。たまにランゼーに向かって煙をふっと吹きかけたりもする。彼が煙草を吸う姿はなんだか格好よくて、どきっとさせられた。彼女からしたらプンナムは、物事をよくわかった兄のようであり、落ち着きのある、経験豊かな大人に見えた。実際にはプンナムはランゼーと同い年で、二人とも近郊の農村からラサに通ってきている、貧しい家庭の出身の若者だ。プンナムは煙草をふかしながらこう言った。「そのうち俺が金持ちになって、赤い帽子でも買ってやるよ」

 ランゼーがプンナムを好きになったのは彼のこの一言がきっかけだった。プンナムが何気なく口にしたこの一言を聞いた瞬間、胸の奥深くに温かいものが込み上げてきた。その溢れくる温かいもので、目頭が熱くなった。ランゼーはちょっとしたことで感激してしまうたちだった。プンナムに「今の言葉、忘れないからね。心変わりはなしよ」と念を押した。「金持ちになるのが来世だったらどうする?」プンナムは笑った。ラサの陽光に照らされて、プンナムの日焼けした顔に浮かんだ笑顔には一点の曇りもなく、その白い歯はきらきらと輝いていた。ランゼーはプンナムをまっすぐに見つめながら、きっぱりと「来世でも待つわ」と言った。するとプンナムはランゼーから目をそらし、道を行き交う車と人混みを見つめたまま、黙り込んでしまうのだった。(つづく)

ラシャムジャ『路上の陽光』(星泉訳)

四六判、上製、272ページ
定価:本体2,000円+税
ISBN978-4-86385-515-1 C0097

チベット文学を牽引する作家ラシャムジャ。代表作「路上の陽光」をふくむ日本オリジナルの短編集。日本を舞台にした短編「遥かなるサクラジマ」も収録!
http://www.kankanbou.com/books/kaigai/0515

【あらすじ】

10歳の少年が山で父の放牧の手伝いをしながら成長していく姿を描く「西の空のひとつ星」、センチェンジャの横暴におびえる中学校の教室を舞台に気弱な男子ラトゥクが勇気を持つにいたる「川のほとりの一本の木」、村でたった一人の羊飼いとなった15歳の青年が生きとし生けるものの幸せについて考える「最後の羊飼い」など8作品を収める。

【著者プロフィール】 ラシャムジャ(lha byams rgyal/拉先加)

1977年、チベットのアムド地方ティカ(中国青海省海南チベット族自治州貴徳県)生まれ。北京の中央民族大学にてチベット学を修め、現在は北京の中国チベット学研究センターの宗教学部門の研究員としてチベット仏教に関する研究を進めるかたわら、チベット語の小説を雑誌等に発表している。小説集としては『路上の陽光』、『ラシャムジャ中編小説集』、『眠れる川』、長編小説『雪を待つ』、エッセイ集に『私の孤独、あなたの文学』がある。チベット語文芸雑誌『ダンチャル』の主催する文学賞を歴代最多となる5回受賞(うち1回は新人賞)しており、2012年には中国の民族文学母語作家賞、2020年には全国少数民族文学創作駿馬賞(中短編小説賞)を受賞しているなど、現在30‒40代の作家の中で最も注目される作家の一人である。

【訳者プロフィール】 星泉(ほし・いずみ)

1967年千葉県生まれ。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・教授。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。訳書にラシャムジャ『雪を待つ』、ツェワン・イシェ・ペンバ『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』、共訳書にトンドゥプジャ『ここにも躍動する生きた心臓がある』、ペマ・ツェテン『ティメー・クンデンを探して』、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』、ツェラン・トンドゥプ『黒狐の谷』がある。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集長。


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