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【第5回ことばと新人賞最終候補作】平田英司「痩せた花嫁」

痩せた花嫁

 平田英司

 その島で唯一の集落である山間の村に住む人々は一様に痩せていた。それは決して貧しさからくる削痩ではなかった。なぜそのような体型をしているのか、正確なところは良く分からなかったが、どうやら遺伝的なものらしかった。彼らは全員が著しく痩せ細っているにも関わらず、特段それによる不都合はなく生活しているように見えた。少なくとも極端に早死にだったり、栄養失調に苦しんだりしている様子は見られなかった。

 私自身はこの島の出身ではなく、先日、縁戚の伝手で紹介されたこの島の女と結婚するために移住してきたばかりだった。役場での仕事を斡旋するからぜひ島に来て欲しい、というのが縁戚の仲介人から伝わってきた条件だった。私は地図で島の位置を確認し、仲介人には多くを尋ねず、その話をありがたく受け取ることにした。

 私は妻となる女と一度も対面することなく結婚を決め、小さな島へ移る準備を始めた。私のような四十過ぎの男にせっかくの縁談を断る理由は見当たらず、守るほどの生活もありはしなかった。すぐに長年勤めた仕事を辞め、アパート解約の手続きをとった。私がこれからあと何十年生きるのか分からないが、これほどの転機となる出来事なんてないだろうし、こういったなりゆきに任せた人生も悪いものではないだろう。私にとって島へ移住することで被るデメリットなど何ひとつないように思われた。

 島は本土から遥か離れた場所に位置していた。周囲にはいくつかの小さな無人島が浮かぶのみで、人が住む場所としては孤立した島だった。本土と島との間には一日一便、小さな貨客船が往来しており、これが島と外部とをつなぐ唯一の交通手段だった。私が乗り込んだ船には船員と物資の運搬業者以外、一般の旅客の姿は見当たらなかった。

 長い航行を経た末、船がいよいよ島の港へ入ろうという時、妻となる女を含めて三人の島民が私を待ち受けていた。事前に妻となる女が港まで出迎えに来るとは聞いていたものの、私はその時点で妻となる女の顔写真すら見たことがなかった。私は船が港湾部に差し掛かった時から妻となる女をいち早くこの眼で確かめたいという思いでデッキへ出、いよいよ近付いてくる岸を緊張とともに見つめていた。

 最初、小さな埠頭には低い枯れ木かなにかが細々と植わっているように見えたものだ。埠頭に生えたその物体の姿形がじょじょに明らかになるにつれ、どうやらそれらが人間の姿であると気づいた時、私はすぐに、驚きとともにその痩せた人々に憐みにも似た感情を抱いたのだった。仲介人からは、妻となる女が痩せ型であると聞いており、その情報に嘘はなかった。しかし三人の島民は揃いも揃って私がこれまで見たことのないほどに痩せ細っていた。三人の島民は手を振ることもなく、棒立ちのままに、じっとこちらの方を見つめていた。

 私が戸惑いとともに島に足を踏み入れようとした時、それは私が妻となる女を初めて間近に認識した瞬間でもあった。三人の島民は男が二人、女が一人だったので、尋ねるまでもなくその女が私の妻となる女なのだと私はすぐに理解した。

 妻となる女は茶色いワンピースを着、袖から覗く腕をしだれ柳のごとく力なく垂らしていた。病的とも思える細い身体には小さな頭が乗っており、その背格好は私にしおれた土筆を思い起こさせた。私は船の上からその女を見た時、妻となる女が自分より長身なのではないかと錯覚したものだが、実際はそうでもなかった。二人の男についても同じく痩せこけており、一様に色白だった。

 二人の男が無表情に私に近付いて来、年長と思われる方の男が、ようこそ、と言ったようだったが、海からの風に遮られ私には良く聞き取ることができなかった。私はそれに対して曖昧に会釈を返したが、男の表情からは、男がそれを認識したのか定かではなかった。女がどのような顔をしているのか気になった。しかし二人の男の背後に隠れるように立っていたため、私からは良く見ることができなかった。

 二人の男が振り返りながらなにやら女に向かって言った。私の方へ歩むよう促したようだった。妻となる女がひどくうつむきながら一歩二歩私の方へ踏み出し始めると、二人の男は不自然に顔を見合わせながら声もなく笑った。おまけに幾度か手を叩くなどし出したため、少しだけ囃し立てるような雰囲気が生まれた。強い潮風が吹いており港は非常に寒かった。そこにいる全員の髪が乱れ、私の顔や皮膚は潮気と脂でべとべとしていた。

 二人の男のうち年下と思われる小柄な方の男がなにやら慌ててポケットを弄り、何かを掴んで取り出すと、それを黙って撒き散らし始めた。紙を細かく千切ったもののようだった。何度もポケットに手を入れてはそれを撒いていたが、その紙吹雪は強風に煽られ猛烈な勢いで遠くに吹き飛ばされていった。

 私はどう振る舞えば良いのか分からなかった。私は思わず助けを乞うように妻となる女の方を見た。その時、女と初めて眼が合った。私は反射的に微笑もうとしたが、それよりも先に女は眼を細め、逸らし、無気力そうに細い首の付け根辺りを掻いた。妻となる女は不愛想で私を歓迎してくれているとは到底思えなかった。その上、全身から悲壮感が漂っているように私には感じられた。

 二人の男のうち年長と思われる方の男は役場長で、私の上司となる男らしかった。もう一人の小柄な男も役場に勤めており、私の同僚となる男だった。二人の男に促され、妻となる女と私は役場長の車の後部座席に並んで座らされた。

「……あんたたちが住むことになっている家まで送るからね。ちょっと時間がかかるから、ゆっくりくつろいでおくれ」

 役場長は運転席に座るなり、前を向いたまま小さな声で言った。私は、はい、と言ったつもりだったが、声が掠れうまく発声することができなかった。女は何も反応せず、窓越しに海を見ているようだった。

 港から村までの道のりは想像以上に長いものだった。道中、島民たちは黙りこくっていた。私はせいぜい三十分程度の道のりを想像していたが、実際はその倍以上に思われた。もちろん私にとって初めての道だったし、見知らぬ者たちとの同乗という緊張もあり、実際以上に長く感じられたのかも知れなかった。信号ひとつない道をひた走り、岩場や野原など特筆すべきもののない風景が長く続いた。あらかじめどのくらい時間がかかるものか聞いておくべきだったが、それに気づいた時には既にタイミングを逃していた。

 カーラジオさえもオフにされた沈黙の車内には、先の見えない時間が均等に流れていた。私はあれこれ考えた末、ひょっとするとこの状況はこの島ならではのテストか何かで、私は今、三人の島民に試されているのではないかという考えに至った。

 私がこの島の住人となるのにふさわしい人物なのかどうか。島の女の結婚相手として不足のない人物なのかどうか。与えられた狭い空間で何を口にし、どんな振る舞いを見せるのか。隔離された土地の人間が疑り深く考えそうな、そんな事柄がいくつか思い浮かんだ。私はそれをクリアしてやろうと思ったが、しかし黙りこくる三人の島民の空気に気圧された私に沈黙を破るほどの勇気など備わっていないのだった。

 一言も発することができないまま時間は虚しく流れ、三人の島民が何を考えているのか、私には正解が分からなかった。私はこの後ひどい評価を言い渡されることになるのかも知れない。このままだとテストは不合格になってしまう。

 そんな中、あろうことか私はうたた寝してしまったのだ。私は眠気を感じ始めてからしばらくの間、気を抜かなければ耐えられるはずだと思っていた。しかしどこか油断があったのだろう。ほんの短い間だったとしても、確かに眠りに落ちていたことを私は良く知っていた。

 私には眠りに入る時に必ず呼び起こされる、あるひとつの想念があった。長時間の船移動による疲労に加え、車の揺れ、単調な景色、適度な車内温度、そして沈黙という条件に抗うことができなかった私は、この時も人知れずその想念に囚われていた。

 そこは海なのだろうか。私は水中に沈みかけており、上からは仄かに光が射している。見上げると、水面に何かが浮遊しているのが見える。それは手を伸ばせば届く距離にあるように思われ、私は自然とそれを掴みにかかる。それは木片であったり、魚であったり、誰かの足であったりする。しかし、もしそれをうまく掴み取れたとしても、私が水面へ浮上するということはない。腹から下がコンクリートのように重く固まり、思うように動いてくれないのだ。私は咄嗟に窒息の恐怖に気づくのだが、そのまま無抵抗にゆっくりと沈み込んでいく。そして次の瞬間、私の足は海底へ着地する。苦しくなんてない。着地と同時にいつのまにか腹から下の固まりはほぐれており動かすことができる。しかしそれでも私の身体が浮き上がることはない。私はいつかは水上へ浮き上がる希望を捨て切れないまま、暗い海底をあてもなく散歩し続ける――

 私は夜な夜なそんな想念に苦悶の表情を浮かべ眠りへ落ちているのだ。それは寄る辺ない不安であると同時に、なぜか私の陰茎に良く響いた。陰茎への影響により私の身体の血の巡りは促進され、深い眠りにつながっているのかも知れなかったが、正確なところは私にも良く分からなかった。

 私が次に気づいたのは、当たり前だが眼が開いた時だった。相変わらずの車内の空気、相変わらずの景色、相変わらず押し黙った三人の島民。

 私の頭部は妻となる女の肩に触れていやしなかっただろうか。もしかすると身体が大きく傾き、妻となる女に嫌な思いをさせていたかも知れない。いびきや寝言はどうだっただろうか。今の私にとって決して無視できないいくつもの心配事が押し寄せて来たものの、既に何事もなかったことを祈ることしかできなかった。テストは完全に不合格だろう。加点すべき箇所が何ひとつ見当たらない。きっと最低点数による落第だ。

 ぼんやりした意識が尾を引く中、不合格通知を受け入れる覚悟が徐々に身体へと馴染んでいった。一時でも結婚だ、移住だ、と浮かれていた自分が恥ずかしかった。年下の女と一緒になることはできないが、この島で暮らすことを本気で望んで来たわけでもない。なりゆきで来てなりゆきで帰るというだけのことだ。私は自分にそう言い聞かせた。やはり私に人生の転機は訪れず、今まで通りの味気ない生活が続いていくのだろう。

 日も暮れかけた頃、ようやく車は古い小さな民家の前で停まった。そこにはもう一人、こちらも役場に勤めているというやけに後頭部の長い男が待ち構えていた。この男もやはり痩せ細っていたが、頭部がキュウリのように長い分、他の島民とは身体のバランスが違って妙な感じだった。

 役場長の、到着だ、という短い声が久しぶりに耳にした言葉だった。それに対して誰も何も応じることはなく、それぞれ黙ったまま車を降り始めた。私たち四人が降車し後頭部の長い男を含めた五人で向き合う格好となったところで、改めて短い沈黙が降りた。

「長旅、どうもお疲れさま」

 役場長が私たちの間の土を見つめながら言った。私は、いえ、と小さな声で答えたが、その後に続ける言葉は見当たらなかった。

「今日はゆっくりと休んでくれ」

 私は今度は、はい、と答えたが、その声も消え入りそうなほど弱々しかった。すると役場長は思いのほか大きな咳払いをし、緊張気味に私の方を見て言った。

「それでは、これから、よろしく頼むね」

「え」

「この娘をよろしく頼むよ」

 私は慌てて、こちらこそ、と言ったものの、状況が飲み込めなかった。女は退屈そうにどこかを見ていた。

「ああ、そうだ、それから……」役場長は再び咳払いをすると、少しだけ大きな声で言った。「今日は、本当におめでとう」

 小柄な男と後頭部の長い男も一緒に、おめでとう、と言い、役場の三人の男たちは揃って手を叩いた。三人とも指が長く、アメンボのような手をしていた。掌の面積が狭いからかうまく叩き合わせられておらず、パサパサと乾いた音がした。

 ありがとうございます、と答えながら私が横眼で見たものが正しければ、その時妻となる女もほんの少し頭を下げたように見えた。

 しばらく続いたしがない拍手が止み、三人の男たちは互いに顔を見合わせながら満足そうに笑みを浮かべていた。女を見ると、なんと照れくさそうはにかんでいるではないか。役場長がにこやかに言った。

「この車は君たちにプレゼントするからね」

 これは紛れもなく私たちの結婚式なのだった。

 

      *

 

 今、私の眼の前で晩酌をする妻の焼酎のグラスの中へ、何かが落ちていくのが見えた。より正確に言えば、落ちたもの自体が見えたわけではなかったが、グラスの水面に小さな波紋が生じるのが見えた。この島固有といわれる小さな蜘蛛が、グラスの中に落っこちたのだった。島ではこうしたことが良くあった。

 妻はそれに気づかぬままグラスを持ち上げ、ゆっくりと一口飲み下した。蜘蛛は妻の体内へ飲み込まれていったことだろう。妻のやつれた首の真ん中に隆起した喉仏が、音を立てながら動くのを私はじっと見つめていた。

 私は下戸で、滅多に酒を口にすることはなかった。妻もさほど酒に強いというわけではなかったが、必ず晩酌をする習慣があった。お気に入りは島の地酒で、私の知る限り、ビールや日本酒など他の酒類に口を付けることはなかった。

 島民の中にも大酒飲みのような人間はおらず、島にはいわゆる宴会文化というものがなかった。そういった場が苦手な私にとってそれは島で生活する上でとてもありがたいことだった。島焼酎の生産は産業の一環として行われており、ほとんどが本土や周辺海域にいくつかある有人島へ出荷されていた。妻が島の焼酎を好んで飲むのは、島への愛着の表れだと思われた。

 結婚生活が始まって以来、妻は欠かさず晩酌をした。たいてい最後はうとうとし、そのまま寝床へ向かうというのが日々のパターンだった。普段は口数の少ない妻だったが、酔いが回るとずいぶんと饒舌になった。とりわけ同じ話を繰り返し喋る癖があり、私からすると、昨日聞いた話を今日も聞き明日も聞く、といった調子だった。しかし私は、一度聞いた話でも初めて聞いたかのように反応することを心掛けていた。そんな風に一方的に話をする妻を私は愛らしく思っていた。私より二十程も年下で、新生活を始めて以来、何かと気苦労も多いであろう妻が好きなように話をする姿は、自然体の妻が表れているように思われた。

 そんな時の話題と言えば、島の昔話と決まっていた。中でも私を引きつけたのは、妻が幼少の頃に母親に連れられて行ったという洞窟の話だった。妻はあまり口を開けずに喋るため言葉が聞き取り辛いことが良くあった。しかし、それさえも私にとっては妻の微笑ましい特徴のひとつなのだった。

 

――その洞窟はね、森の奥の奥にあって、お母さんは私が疲れて泣いているのに、気にもとめず、どんどん先へ進んで行ってしまうの……私はまだそんなにたくさん歩けるわけもないのに。もう、両足が疲れて、痛くて痛くて仕方がなかったわ。私はいつも半ズボンばかり履いている子どもだったから、足のいたるところを切ったり、虫に刺されたりしてね。お母さんは何度呼んでも振り返ってくれないし、どんどんひとりで先へ歩いて行ってしまうの。私がもう歩けないって何度も言っているのに、手も引いてくれやしなかったわ。もう少しだから我慢しなさい、と私が何か言うたびに言っていたかしら。あの時は本当に弱ったわ、森までだってすごく遠いのに、森に入ってから洞窟まで、まだまだ遠いんだから。島の人たちが森から離れていったのも良く分かるわよ、あんなに大変な思いをして行くのは私もいやだもの。あの洞窟へ行ったのって、私たちが最後なんじゃないかしら。あんなところへ行こうという人の気が知れないわよ……あぁ、背中がかゆい……

 

 酔いの回り始めた妻は、独り言のようにぶつぶつ話しながらグラスに口をつけた。今晩もまた長い夜になるだろう。

 私と向かい合って座る妻の姿はやはりひどく痩せぎすだった。今、私から見えているどの部分においても、骨にほんの少しの肉と皮が巻きつけてある程度の貧しい身体つきをしていた。全身のあらゆるところに骨形が浮き出し、とりわけ首と腰はそれが顕著なため、弱々しい印象をより際立たせていた。私の体型はと言うと、一般的な意味で痩せ型とも言えるものではあったが、近頃は腹部に醜い肉が付き始めていた。

 妻の額には適当に切ったような短い前髪がぺったりと張り付いていた。頬はこけ、顔全体が細かい皺で覆われているため、実年齢より十は老けて見えた。私を通り越してどこを見ているのか分からない眼は腫れぼったい二重で、長い睫毛がクジャクの羽根のように綺麗にカールし輝いていた。

 私にとって妻は、年の差ほどに年齢を意識しないで良い相手だった。結婚生活が始まって数日した頃、ふと私は妻に不思議な馴染み深さを感じていることに気づいた。当然、初めて会ったはずなのに、何十年も昔に交流したことがある相手のような、気恥ずかしさのような感覚すらあった。実は妻はかつて別の名前で私の前に登場していたのではないだろうか。幼馴染やクラスメイトの中に似たような顔がいたかも知れないと思い返してもみたものの、はっきりしたことは分からなかった。そもそもこんなにやつれた人間に出会ったことはなかったので、その疑いもおかしな話だった。

 結婚を決めた時の私は、相手がどんな女であれうまく合わせていけばどうにかなるだろうと深刻に考えていなかった。私たち夫婦が悪くないスタートを切っていることを考えると、そんな適当さも決して悪いものではないように思われた。妻にそれらのことを伝えたことはなく、妻がどう感じているのかも私は知らなかった。

 私たちは妻の知り合いから譲り受けた小さな民家で新婚生活をスタートさせた。島の家屋には一家に必ずひとつずつ、この島にしかいないと言われる蜘蛛が巣を作っていた。島ではケチャ蜘蛛と呼ばれており、島民の生活の一部となっていた。

 ケチャ蜘蛛の巣はいわゆる糸を網目状に張った蜘蛛の巣とは全く異なっている。彼らの巣作りはというと、複数のやつらが器用に天井にぶら下がり、球体状に糸を張っていくのだ。最終的には、大きなまん丸い繭のようなものが天井から二十センチくらいの所にぶら下がっている。ケチャ蜘蛛はその球体の内部に数百匹ほど暮らしているようだった。不思議なもので、巣が一家にひとつということは自然と守られており、どんな豪奢な屋敷であってもいくつもの巣がぶら下がっている家はないとされていた。

 私たちが譲り受けた民家も築五十年以上のものらしいのだが、当然のようにそんな巣があらかじめぶら下がっていた。妻によると、この島の家屋の受け渡しにおいてそれはごく当たり前のことらしかった。島民はその巣を各家の守り神としてありがたがって扱っていた。妻も奥の間の巣のすぐ近くに神棚らしきものを拵え、毎朝震える手を伸ばしながら水を取り変えたりしていた。

 ある朝、神棚に埃が積もっていることをそれとなく伝えたところ、妻はひどく腹を立てた。この島では、神棚は清浄にしておく必要がない代わりに、必ずケチャ蜘蛛の巣の近くに設置する、という言い伝えがあるこいうことだった。それきり埃については触れないことにし、いつの間にか私も島の慣習に合わせ、出勤前に必ず神棚に手を合わせるようになっていた。

 グラスを手にした妻がけだるそうに喋り続けている。

 

――そうそう、今思い出したのだけど、ケチャの巣の下では絶対に寝ちゃいけないことになっているからね……あなたもこれから島で生きていくんだから、ちゃんと覚えておいてよね。島のことを知らない人からしたら、へんな話だと思うかも知れないけども、それって島ではとても縁起の悪いことなのよ。ほんとうのところはね、ケチャが口に入ることがあるから、それを防ぐためにそんな言い習わしになっただけなんだけどもね。ほら、ケチャってとっても小さいでしょう、ゴマ粒よりも小さいかしら……綿毛みたいなものよね。子どもだって大口を開けているとね、本当に口に入ったりすることがあるのよ。それがなんか知らないけど身体に良くないんだって。くれぐれも気をつけてね……やっぱり、さっきからなんかかゆいわ……

 

「そうなんだ、気をつけるね」

 私は微笑みながらしっかり言った。これももう何度も聞いた話だった。今日も妻が気持ち良さそうに話をしてくれている。今日も私はそれに相槌を打ちながら、妻を真正面から見ていられる。

 私はすでに食事を終えていたが、妻はまだ一杯目のグラスも飲み切っていなかった。にもかかわらず饒舌になり始めたのは機嫌が良い証拠だった。妻はゆっくりと時間をかけて飲むたちで、それに付き合うのが私の日課だった。しかし私は、妻の話を楽しく聞きながらも、実は毎夜、眠気に襲われているのだった。決して退屈なわけではない。あまりの心地良さに気がつくと眼を閉じてしまっているのだ。妻の話を聞くことは、私にとってまどろみの中で浮遊する贅沢な時間だった。

 

――ふふふ、ほらほら、床や壁に眼をこらしてみてよ。小さなケチャがそこかしこにいるでしょう……ふわふわとそのあたりに舞っていることだってあるのよ。気がついたらね、肩とか頭とかに乗っていたりすることだってあるんだから。だからってなにも害をがあるわけじゃないから、いやがらないであげてよね。むしろね、巣に絡まった蚊とかハエとか小さな虫なんかを食べてくれたりすることもあるのよ。大切にしてあげないとね。慣れてくるとかわいいものよ。きっとそのうちあなたにも分かるはず……ああ、さっきからずっと背中のあたりがかゆいのよ、首から入ったかしら。ちょっと見てみて欲しいんだけど……かゆいのよ……

 

 今晩もすでに眠気が来始めていた私は、妻に言われ慌てて立ち上がった。妻の腰の辺りからTシャツをまくり上げると、骨が浮き出した薄く狭い背中が現れ、私はそこを観察した。妻は普段から下着を着けていなかった。胸がほとんど付いていないため必要ないのだという。妻によると、この島の女性に下着を着ける習慣はないらしいのだが、本当のことかは良く分からなかった。

「見た感じは何もいなそうだよ」

 

――本当にいない? きっと小さいから見えないのよ……ちょっと、良く見て、軽く払ってみてよ……

 

 そう言われ、私は妻の背中をゆっくりと撫で回した。蛇行する背骨の突起が妻の普段の姿勢の悪さを感じさせた。妻が身体を微かにくねらすたび、肩甲骨が退化した羽根のようにうねうねと浮き沈みした。私はふと、わざとくすぐるように、あばらの浮き出た脇腹を指で弾いた。

「どうかな、やっぱりいなそうだけど」

 

――なんでそんなへんな撫でかたするのよ……くすぐったい……

 

「払ってって言うからさ。まあ、錯覚だったのかも知れないね」

 私は妻のTシャツを下ろすと、背中を軽く叩いた。そのタッチに意味はなかったが、妻はひょっとすると愛情の仕草のように感じ取ったかも知れない。

 

――ふふふ、錯覚って……ケチャのこと、いやがらないであげてよね……

 

「大丈夫、全然いやだなんて思ってないよ」

 私は明るく返し、妻の正面へと戻った。その日、妻は珍しいことを言った。私にも焼酎を飲むよう勧めてきたのだ。私が酒を口にするとなれば、ここでの生活をスタートさせた日以来ということになる。

 私がこの島にやって来たあの日の晩のこと、妻は煮物や刺身など、島の食材をふんだんに使った料理を用意してくれ、私たち二人の初めての食事は執り行われた。そこには料理とともに地酒も用意されていた。私たちはお互いの顔以外ことを、ほとんど知らなかった。いよいよ食事を始めようという時、私は自分が下戸であることを恐る恐る切り出した。妻となる女に失望されやしないか、私はそんなことを気にしていた。まるで本意ではなかったのだが、「今日は特別な日なので、一杯だけならいただきますね」などと付け足した。

 妻はしばらく黙った後、「私は晩酌をいただいても構いませんでしょうか」と震えるほどか細い声で言った。「もちろんです。私のことなど気にせず飲んでいただいて構いませんよ」と私が答えると、妻は安心したように微笑んだ。その初日の晩、私は本当にほんの一口だけアルコールを口にし、妻も私の様子を見てか、グラス一杯飲むのみだった。お互い緊張していたこともあり酔ったりすることはなかった。その後は特にこの件について話をすることもなく、妻は飲み、私は飲まない、という生活に落ち着いていった。

 今晩は私にとってそれ以来の飲酒ということになる。正直なことをいえば、全く飲みたくなんてなかった。体質的に受け付けず、例え少量でも翌日まで引きずるという経験が過去に何度もあった。しかし突然の妻からの申し入れを拒むのは悪い気がし、「ほんの一杯だけだからね」と私は何度も念押しし、久しぶりに酒に口を付けることになってしまったのだ。

 私は小さく長いため息を吐きながら、大袈裟でもなんでもなく、自暴自棄のような気持ちになっていた。妻のものより一回り小さな透明なグラスを眼の高さにまで持ち上げ、注がれた液体越しに妻を透かして見た。妻はぼやけて良く見えはしなかった。そして私はそれを一思いに口に流し込み、一瞬でその全てを飲み下した。

 喉から食道へ流れる液体が熱く尾を引きながら落下していく。一呼吸置いて、勢い良く全身の血が巡り出すのが感じられる。口の中が血液じみた唾で満ち、頭痛の予感が脳の回りをジョギングし始める。たった一口飲んだだけなのに、このいやな感じ。飲んで良いことがないことぐらい重々分かってる。ただ、妻のせっかくの誘いを断ることなんて私にはできなかった。

 

――おいしいでしょう、たまには付き合ってよ……よく眠れるのよ。私だって昔から毎晩飲んでいたわけじゃないんだから……ただね、ちょっとずつ飲んでいくうちに、良く眠れることに気がついちゃってね。そのために飲んでいるようなものよ。今では飲まないと眠れないんじゃないかしら。身体によい睡眠薬みたいなものよ……ほんとうによく眠れて、夜中に眼覚めることなんてぜんぜんないんだから……

 

「やっぱり効くね……」私は顔をしかめながら答えた。

 

――一杯だけで良いのよ。私だっていつもそんなに飲みはしないんだから……考えてもみてよ、ひとりで酔っぱらっているのってちょっぴり恥ずかしいじゃない。一緒に酔えば、おあいこよ……ほら、何度か飲むうちに好きになるってこともあるんだから、たまにはあなたの方からすすんで飲みたいなんて言ってくれたら、私はもっと嬉しいんだけども……

 

「……一緒に飲みたいのはやまやまなんだけど、体質的に苦手なものでさ」

 高熱が喉の辺りから身体全体に拡散されていくのが感じられた。勢い任せに飲み干してみたものの、やっぱり少しずつ飲むべきだった。あっという間に鼓動が倍に跳ね上がり、顔が膨張し始める。「すぐに顔が赤くなるしさ」

 

――赤くなったって良いじゃない……そんなこといちいち気にしないでよ……そんなこと言ったら、私だって、ほら、酔うとなんかへんな感じでしょう……

 

「遺伝なんだよね、この体質は」

 唾を飲み込むのに苦労するほど、喉と喉がへばりついてきた。妻はぶつぶつ言いながら首を真横に傾げ、自分のグラスを見つめている。私の言葉など届いていないように見えた。

 

――そうそう、夜、灯りを消してケチャの巣を見るとね、暗闇でもオレンジ色に光って見えるのよ……なぜか分からないけど、巣自体にぼうっと光る性質があるらしくて……それってまるで、部屋にぶら下げた提灯みたいなのよ。今夜いっしょに見ましょうよ。私たちはね、共存しているのよ。お互い肩肘張らずに自然体で、ともに生活しているんだから。島の人とケチャのことよ……

 

「……夜の巣って、なんだか不気味だね」

 私は無理に笑顔を作りながら言ったが、これだって聞いたことのある話だった。だんだんと視界が揺らぎ始めた。私は無意識にもう一度グラスに口を付ける素振りをしていたが、もう一口も飲む気などなかった。そもそもグラスは空なのだった。今夜、私は久しぶりに吐いてしまうかも知れない。こんな小さなグラス一杯飲んだだけなのに。

「……でも、それを見るの楽しみだな」

 

――島の生活になじむのっていろいろあって大変だと思うけど……少しずつで良いから慣れていってね。私たちにとっては全部当たり前のことばかりで、おかしなことなんてひとつもないんだから、いやがらないでよね……ああ、またかゆい、今度は鼻が……

 

 島民とケチャ蜘蛛は自然な形で共存しているのだった。ケチャ蜘蛛はばれないようにグラスに飛び込み、知らず知らずのうちに島民の体内へ吸収されていった。そして長い年月をかけ蓄積され、島民の一部となっていくのだ。

 ようやく妻が一杯目のグラスを飲み干した。私の顔は気色悪い油に厚く覆われ、ひどく気分が悪かった。しかしそれを悟られまいと、私はすぐに妻に二杯目を注ぎ足してやった。すぐに妻は細長い指でグラスを持ち上げ、ほんの少し口に含み、ゆっくりと飲み下した。まだ何か話を続けているようだったが、増々気分が悪化する私には何を言っているのか良く分からなかった。

 私のこめかみは尺取虫のように波打ち、脳の血が勢いよく逆流していくのが分かった。もうじき頭痛の種が一気に芽吹き出すに違いない。今日ばかりはいつものようにまどろみながら妻の話を聞き続けるのは難しそうだった。

 ふと、尺取虫を親指の腹で軽く押すように揉むと、少しばかり不快感が和らぐような気がした。その時、どうやら私の気は緩んでしまったようだ。私はまばたきのために眼を閉じたはずなのだが、突然、どこからともなく飛んで来た眠気の幕に眼の前を覆われてしまうのだった。

 

 私たちは毎晩食卓で、妻が眠気に耐えられなくなるまで話をした。話を聞きながら私は毎晩、自分でも気づかぬうちに居眠りをしていた。そんな時、私は不意に意識を取り戻すのだが、妻はたいていひとりでぼそぼそ話を続けていた。私が一瞬でも落ちてしまったことに気がついているのかどうか、私はあえて確認したことはなかった。寝てしまったことをわざわざ申告したこともなかった。ただ何事もなかったかのように妻の言葉に頷き、それまでと同じように話を聞く役目へと戻るのだった。

 私は眠気にまみれた意識の中で、繰り返し繰り返しこの島の森の話を聞いていた。妻の話す森の光景を私はまだ見たことがなかったが、日に日にそれは、私の頭の中で豊かに繁茂していった。

 面積で言うと、島の実に約六割もが森に占められていた。森には、妻が幼少の頃に連れて行かれたという洞窟があった。洞窟は単なるひとつのほら穴というより、ドーム型の巨大な空間だった。天井からは鍾乳石が垂れこめ、穴の奥にまで生え続いていた。壁面は長年の浸食によりいびつに変形し、どこからともなく降って激突したような岩が無秩序にめり込んでいた。奥行きは闇につぶされ果てしなかった。無数のケチャ蜘蛛の巣が所狭しとぶら下がっており、洞窟にある巣は、家屋にあるものよりずっと巨大なのだった。

 洞窟はその大きさゆえ、島民が心の拠り所とするのにふさわしい存在感を有し、かつては洞窟そのものが島民の信仰の対象となっていた。その神格化の延長として、洞窟の中にはいつしか島の守り神を祀るための神社が建てられた。神社は木造で、拝殿のみのみすぼらしいものだったが、長い間、島の守護の象徴として崇められていた。村では折に触れてそこへ参拝に行く習慣が定着していたが、その習慣はすでに廃れていた。森の成長があまりにも急激だったため、人の手が行き届かなくなってしまったのだ。また、村と森とをつなぐ山道でたびたび崩落などが起こり、島民の行き来が容易でなくなったことも大きな要因だった。それに伴い島民たちはあっさりと参拝を諦める選択をした。当時の老人たちが率先して行くのをやめ、それにより参拝の理由のなくなった下の世代も行かなくなり、ほんの数年のうちに長年の習慣は過去のものとなった。そして島の守り神であった神社は、あっけなく島民の生活から切り離されることになった。

 それと入れ替わるようにして各家のケチャ蜘蛛の巣が、島民の身近な守り神として丁重な扱いを受けることになった。それまでずいぶんと長い間、ぞんざいに扱われてきたケチャ蜘蛛が親しみを持って島民に受け入れられるのに時間はかからなかった。

 

――ケチャはそもそもね、あそこの洞窟で生まれて、長い年月かけて島中に広がっていったのよ。そして、気がついた時には、私たちの生活の中に入り込んでいたの。森と村とのかかわりが途切れてからも、ケチャの数は、森の中で増え続けてるみたいだわ……今ではいったいどのくらいの巣が、洞窟の中を埋め尽くしているのかしら……

 

 私は不意に眼を覚ました。長いまばたきをしていたような気がした。「すごい光景だろうね」私は咄嗟に口走った。妻は私がうたた寝していたことに気づいただろうか。頭痛の予感がいくらか収まりつつある中で、私は硬く勃起していた。

 

――ケチャってすごく軽いのよ。巣からこぼれ落ちたケチャってば、すぐには落下しないで、ふわふわしばらくそこかしこに浮かんで、ゆっくりと落ちていったり、ずっと浮かんだりするのよ。洞窟を外から覗き込むとね、ケチャが浮かんでいるせいで霧がかって見えるほどなのよ。それってとても幻想的でね……そして風によって、ケチャたちはどんどん洞窟から森の中へと飛ばされていくの。自分たちの意志なんて、ぜんぜん関係ないんだから……

 

 妻はいつの間にか二杯目のグラスを飲み干していた。ペースが早まっているのではないか。ひょっとすると私は、思っている以上に長く眠っていたのかも知れない。妻の顔色をうかがうも特にそれを感じさせる様子はなかった。私はうたた寝を隠すように躊躇なく妻のグラスに三杯目を注いだ。妻はすぐに一口飲むと、急に落ち込んだように深い溜め息を吐き、口を尖らせて続けた。

 

――あぁ、森はともかくも洞窟のことは本当に思い出したくないのよ……ケチャの巣でそこら中びっしり覆われているって、ほんとうに気味が悪いのよ。二度と近付きたくもないわ。せめて写真でもあれば見せてあげられるのに……本当になんか、すごくって、私もそれがすきなんだか、きらいなんだか……さっぱりなのよ……

 

 妻は眉間にしわを寄せ苦しそうな表情をした。私は妻がグラスを持ち上げる手を見、不意にその長い指やか細い手首が美しいかも知れないと思った。

「その話って、本当?」私は意地悪く聞いた。

 

――当り前じゃない。どうしてそんなこと言うの……

 

「わざと言ってみただけだよ」

 

――やめてよ、おかしなこと言うのは……そうそう、あとね、森にはたくさんの魚が泳いでいるのよ。私も知らない昔のことだけどもね、このあたりにだって魚がたくさん泳いでいたらしいんだから。そう、マジマジって呼ばれていた魚よ。いろいろ大変なこともあったみたいだけど、古い人たちにとっては懐かしい思い出みたい。それについてはお母さんもあまり話してくれなくて、私も良く知らないんだけどね……

 

「魚って? 川かどこかに?」

 私は一時の最悪な気分の悪さからは回復しつつあったが、もうグラスを見る気にもなれなかった。たっぷりと冷たい水を飲んで早く横になりたかった。いつの間にか妻も眼を閉じかけていたが、話はまだ続いていた。眼を閉じかけながらも、妻はグラスを口に運んでいた。もうじき限界を迎え、寝床へ向かうことだろう。

 

――違うのよ……そのあたりよ、空中によ。空中を魚が泳いでいたんだって……お母さんに聞いたんだから……あぁ、肘は自分でも掻けるわ……ほらね……

 

 森の中では小型の魚の群れが、木々の合間を縫うようにして泳いでいた。この島でマジマジと呼ばれるその魚たちは、かつて島民に害を与えることがあったためまとめて森へと追いやられたのだった。それ以来村へ寄り付くことはなくなり、また島民も森に出向くことがなくなったため、島民とマジマジとの接点は失われたのだった。

 かつてマジマジは島中を泳ぎ回っていた。ゆっくりと泳ぐ、穏やかな性質の魚である。しかしマジマジは一旦村に入り込むと、散々農作物を食い荒らした。特にひどかったのはかつて島の名産として本土へも出荷されていた柑橘類への食害だった。苗木は全滅し、幼木もその多くがマジマジに齧られたことにより枯れてしまった。

 島の男たちは、物干し竿、虫取り網、ほうきなど、日用品の中から考えうる限り武器になりそうなものを持ち出し、それらを振り回してマジマジを追い払おうとした。島民たちの気質からしてそれは全く好まざる行為だったが、そんなことも言っていられなかった。必死に振り回される腕はどの道具よりも細かった。マジマジはそれらを悠々とかわし、島民の手の届かない高さまにで逃げて行った。島民は様々な策を尽くし、ある日マジマジが煙を嫌うということを突き止めた。島民があらゆるものを次から次へと燃やしていくと、島中を泳ぎ回っていたマジマジは、森の中へ逃げ込むしかなかった。

 現在、マジマジは森の中で植物や昆虫などを食べて気ままに過ごしているという。森が豊かである限り、マジマジが再び村へやって来ることはないと考えられていた。

 

 子どもを神社へ連れて行く習慣が廃れてだいぶ経った頃にも関わらず、妻は母親にその森まで連れて行かれたのだった。

 ある朝、母親はどこへ行くのかも告げずに娘を連れて家を出た。二人は島民が通るのを断念したいくつもの難所を乗り越え、半日ばかり歩き続けた。母親は終始無言のまま先へ進んだ。ようやく森の入り口に到着したところで、二人は一度だけ休憩を取った。母親はそこに一輪だけ咲いていた水色の花を摘んで娘に手渡した。娘は、母親がご機嫌取りでそのようなことをしていると感じ、黙ったまま花を投げ捨てた。娘は母親に付いて行きたくなんてなかったが、すでにひとりではとうてい帰ることのできない場所まで来てしまっていた。

 森に入ってからの道のりは、それまでよりも一層険しいものだった。確かに土が踏み固められた形跡があり、かつてそこが道だったことを示してくれていた。しかし否応なく伸び放題となった植物が行く手を阻み、二人は一歩ごとにそれらを掻き分けながら進まなければならなかった。

 頭上には魚の群れが泳いでいた。娘が見上げると、魚の鱗模様まではっきりと見ることができるほどの距離だった。娘ははじめ、それらを気味悪く思ったが、魚がこちらに近付いて来ることはなく、むしろ娘が手を伸ばしてみるとそれらは速度を上げて散った。母親はそんなもの気にも留めない様子で黙々と先へと進んだ。

 最後の長い傾斜を登り切ると大きく開けた場所に辿り着き、そこに巨大な洞窟が現れた。そこで娘は、ひとりで洞窟の入り口へ向かうよう母親に促された。娘はそれを嫌がったが、母親は厳しい表情で突き放した。娘は涙を拭いながら母親のことを冷たく睨んだ。ひとりの少女が泣きながら洞窟に向かって歩き始める背中を、母親はじっと見つめていた。

 少女が洞窟に近付くにつれ、吹き付ける穴風は強まった。風は洞窟から吹き出しているのか、穴に向かって吸い込まれているのか分からないほど方向を定めず乱れていた。その風により、おびただしい数のクモノコが巻き上げられていた。少女は痩せ細った身体でそれを無抵抗に浴びるより仕方なかった。少女は両手で顔を覆いながら、クモノコの渦の中を洞窟に向かってひとり歩んだ。視界はクモノコの幕によって完全に遮られていた。

 やがて地面が下りになるのが分かった。洞窟の入り口に着いたのだった。なぜ自分はそんなところにひとりで立たねばならないのか、少女は母親からその理由を聞かされていなかった。洞窟の入り口に立った少女は、顔を覆っていた指をゆっくりと開いた。薄く開いた指の間から見た光景は、少女にとって生涯忘れられないものになった。

 天井がはっきり見通せないほど巨大なドーム空間には、無数の繭状の蜘蛛の巣がぶら下がり、吹き荒ぶ風によってそれらは常に揺動しながらぶつかり合っていた。クモノコとともに渦巻く風が波打っているのが分かった。壁面には複雑に変形した岩々が不規則に接着し、少女が立ち入ることを拒んでいた。冷たさと生暖かさが混在した空気は不快な温度だったが、そこには不思議と臭いがなかった。

 風はドーム内で重々しく反響し、いつしか少女の身体は音に包まれ、少女は全身が浮き上がるような感覚を味わっていた。少女の涙は乾き、ひとりでいることへの疑問など既に消え去っていた。少女は顔を覆っていた両手を下ろし、その風と音を全身で躊躇なく受け止めた。

 その日以来妻は、身体のどこかにケチャ蜘蛛が潜んでいるような感覚に悩まされることになった。背中、腕、足、髪の中、皮膚のどこかに小さな蜘蛛が常にひっついていて、拭い取れないように錯覚する発作にたびたび見舞われた。

 しかし私と一緒に生活を始めてからは、時折かゆがる程度で特段の支障なく生活できているように思われた。私が「辛いときはすぐに掻いてあげるからね」と言うと、妻は、大人になってからはもう大丈夫なのよ、と答えた。

 そして妻は、私と交わる時に必ずこう囁きかけてきた。あなたの皮膚にもクモノコが伝染っちゃうかもね。はじめのうち、私はそれに対して何も言わず微笑むのみだった。しかし、何度もそんなことを繰り返されるうち、なんとなく私の身体もむず痒いような、そんな気がしてくるのだ。ふと耳が痒いと思った時、蜘蛛が入り込んだような気になったり、腹を下した時には蜘蛛を飲み込んだのかも知れないなどと不安になった。そんな小さなことが重なるにつれ、私の身体もまたクモノコに蝕まれている感覚に陥るのだった。

 古い民家の寝室で、肩幅が狭く腹が弛んだ男と脱力した女の痩身が交わる姿は、無残なまでに貧相なものだろう。私はそんなことを考えるたびに息苦しくなる。関節と関節がこすれて私の身体がカリカリ音を立てている。小刻みに震えながら折れそうな妻の身体がギシギシ軋んでいる。しかし今晩も私は、妻の痩せ細った腰を抱き寄せるだろう。

 ゆっくりとまばたきをしながら最後の一口、妻が三杯目のグラスを飲み干した。眼の下の陰影が普段よりさらに濃いような気がした。妻は先程から舟を漕ぎ始めている。逆に眠気から覚めつつあった私は、わざと妻に話しかけた。

「ところでその話って、本当?」

 

――ん……当り前じゃない……

 

「いつか森へ行ってみたいな」

 

――いつでも連れて行ってあげるわよ……

 

「でも、もう行きたくないんでしょう」

 

――ん……

 

「もう二度と行きたくないってさっき言ってたから」

 

――そうだけど……

 

「ずいぶん眠たそうだよ」

 

――そんなことないわ……

 

「もう寝た方が良いね」

 

――もう寝るわよ……

 

「後から行くよ」

 

――おやすみなさい……

 

「おやすみなさい」

 

      *

 

 私たちの家から数十メートル離れたところに、同じような外見をした小さな民家があった。村では家々が相応の距離をとって位置しており、必ずしも家々が隣接しているというわけではなかった。私たちが結婚生活を始めて間もない頃、そこの住人と思しき若い女とすれ違ったことがあったが、その時は会釈を交わすのみでしばらくは特に関わる機会がなかった。眼が細くにこやかな女だったと記憶している。

 ある日、暇を持て余した私はひとり、家の周囲を散策していた。梅雨が明けたばかりの日差しが強い日だった。私が偶然、隣家の近くを通りかかると、若い女がひとり縁側に腰掛けているのが庭の植木越しに見えた。一度すれ違ったことのある女に違いなかった。

 女は長い黒髪を後ろで束ね、他の島民たちと同様、ひどく痩せぎすな体型をしていた。組まれた長細い足からは二本の白い脛が露わになっていた。私は立ち止り、何とはなしに植木の合い間からしばらくその女を見つめた。女は本か何かを読みながら呟いているようだったが、何を言っているのかまで聞き取ることはできなかった。

 ずいぶんと長い間、私は女を眺めていたのかも知れない。気がつくと私の額や眼の下には玉の汗が浮き、日に照った顔は熱っぽくなっていた。私はもうしばらく見続けていたい気持ちがあったが、暑さに我慢ならなくなりその場を後にした。

 翌日、私が役場から帰る途中でその女に出くわした。女は小さな子どもの手を引いていた。子どもはようやくひとりで歩けるようになった年頃なのだろうか、覚束ない足取りだった。今まで周囲に子どもがいたことのない私にとって、その子どもが二歳なのか五歳なのか全く見当が付かなかった。子どもはずいぶんと髪が薄く、その体型は直視するのが憚れるほどに痩せこけているのだった。私が子どもを眼の端で見ると、子どもは大きな眼でこちらを睨んだ。

「こんにちは、暑いですね」

 ほとんど知らない間柄にも関わらず、女は親し気な笑みを浮かべながら私に声をかけてきた。何も準備をしていなかった私は一瞬緊張したが、それを悟られぬよう、こんにちはと小さな声ながら愛想良く返事をした。

「たしか、本土から来られた方ですよね?」

「ええ、そうです」

「私、今までこの島から出たことがないんですよ。本土へはいずれ行ってみたいと思っているんですけれど、なかなか機会がなくって。きっと毎日充実した生活が送れるところなんでしょうね。いつか私にも、この島から出る機会が訪れると思いますので、それを期待しながら待っているところなんです」

「そうなんですね、本土はちょっと遠いですがね」

 女はこの島の他の住人たちと比べ、なんとなく明るい雰囲気があった。私も女の調子に引かれたのか、思わず笑みを浮かべていた。

「ところで、島の生活のほうはいかがですか?」

「ええ、お陰さまでだいぶ慣れてきましたかね」

「いろいろ慣れるまで大変でしょう、ケチャのこととか」

「ええ、最初は戸惑いましたけど、仕方がないですね」

 女は深く頷きながらにこやかに私の言葉を聞いていた。

 不意に子どもが不機嫌そうな声を上げた。女は子どもを抱き上げ、よしよしと言いながら軽く揺らすと、子どもはすぐに安心したような顔をしておとなしくなった。

「ここはあまり人付き合いの多くないところですが、うちはすぐお隣ですので、なにかあればいつでも声をかけて下さいね」

「それはありがたいことです。今、役場で働かせてもらっているのですが、同僚の家もまだ知らないものですから、毎日でもお伺いしたいくらいですよ」

 私がおどけて言うと、女はずいぶんおかしそうに笑った。私は調子に乗ってさらに続けた。

「そうそう昨日、お宅の前を通りかかったのですが、あなたが縁側にいらっしゃったように思いましたよ」

「ああ、お昼過ぎですかね、たしかにおりました。良く座っているんです」

「日向ぼっこか何かでしょうか」

「いえいえ、子どもが寝ている間、読書ですとか。最近はちょっと外国の言葉などをかじってみているところで」

「英語ですか?」

 私は女に抱かれる子どもを見た。子どもは退屈のためか再び不満そうに眼を細めていていたが、女の胸に抱かれ少し眠たそうにも見えた。

「はい、以前から興味があったのですが、なかなか手を付けるタイミングがなかったんですよね。子どもが生まれて、なにか新しいことを始めたいと思い見よう見まねで始めてみたところなんです」

「そうなんですね、英語は大変でしょうね」

「ええ、もしもどこかでアメリカ人に会う機会があったとして、実際に喋れるわけはないですね」

「いやいや、新しいことに取り組む姿勢がなにより素晴らしいと思いますよ」

 私は大げさに手振りまで加えながら話をしていた。女は少し困ったような表情をしていたが、どこか嬉しそうにも見えた。

「照れますね、ありがとうございます。一冊目の学習書があと2章で終わるところなのです。今10章のうち、8章目まで進んだところなんですよ」

「それではあと少しですね」

 私は初対面にも関わらず女と会話が弾んでいることに、妙な居心地の悪さを感じ始めていた。私は女を少し困らせてみたい小さな出来心を見つけ、笑顔のまま続けた。

「それにしても、この島にいては英語を使う機会などないと思いますよ」

 女が一瞬止まったように見えたが、すぐに申し訳なさそうに言った。

「そうですよね。だからなんというか、結局は暇つぶしですかね」

「いやいや、そのうちなにか良い機会があると良いですね」

 私は最後までにこやかに言葉を発していた。

 女は人当たりが良く、逐一表情が変わるところが私には心地良く感じられた。私はもう少し女と話していたいとも思ったが、子どもが再びぐずりだしたためそこで女と別れた。その日以来、帰り道で女と出くわすことがたびたびあり、立ち話をする間柄となった。

 子どもの名はウリといった。ウリの痩せた体型を見た私は、ひょっとするとしかるべき育児がされていないのでは、と疑いすらしていた。しかし何度か会う中で、ウリが元気良く駆け回る姿や、母親に向け嬉しそうな声をあげる表情を見るうち、体型の異常さを除けばその月齢の子どもらしい子どもなのだと自然と思うようになっていった。母親が切れ長の一重の眼なのに対し、ウリははっきりとした二重だった。この子は生涯太ることなく他の島民と同じように極度に痩せ細ったまま大人になるのだろう。理由のない痩身の母親とその子を見ていると、妙な血の不可避を感じずにはいられなかった。

 これまで私は子どもというものに接する機会がなく、子どもに対してどう振舞えば良いのか、どう接すれば喜ぶのか、何も知らなかった。しかし不思議なもので、ウリはそんな私に自然と懐いた。私には何か自分でも気づいていないような子どもに好かれる要素でもあるのだろうか。それとも子どもとは、これほどまでに無防備に他人に寄り付いたりするものなのだろうか。ウリは遠くから私を見つけただけで嬉しそうに手を振り、たびたび抱っこをせがんでくるまでになった。私に会いたいと言いながら泣いた、という話を女から聞いた時など、私は自分自身を誇らしく思いさえした。私が不在の場で女とウリは私のことを話題にしているのだ。

 ウリと関わることは、私にとって密かな楽しみとなった。女とウリに会いたいがために私は帰り道をわざとのんびり歩いたり、時には女の家の近くを用もなくうろうろした。家の中からウリの笑い声が聞こえた時など、私は堪らない気持ちになるのだった。

 たまにウリと二人になると、ウリは色々な話をしてくれた。私は良く分からずに微笑んでいるだけだった。

「ねえねえ」ウリが顔を近付けてくる。

「ん?」私も顔を近付けてみる。ウリは嫌がらない。

「そらにうかんでいるふうせんをね」

「うん」

「ぜんぶもらうのがわたしのゆめなの」

 とりとめもなく発せられる言葉に意味などなく、ただそれに頷いているだけで私は正しく生きているような気がした。私はウリに受け入れられるため、常に同じ目線を持った相手でありたかった。そしてそれは思いがけず上手く出来ているように思えた。しかしそれは私の一方的な満足で、ウリにとってはただのひとりの大人に過ぎないのかも知れなかった。こんな間柄、気づいた時には懐かしいものになっているであろうことが容易に想像できた。

 たった数日会わないだけで、ウリは数日前となにかが違っている気がした。その変化はいずれ私を取り残していくものなのだろう。限られた時間を過ごしているという感覚が、不思議と私を焦らせた。しかしあれこれ考えてみたところで所詮は他人の子どもに過ぎなかった。私は時に虚しさを感じながらも、出来るだけウリに気に入られていたいと思った。これは私にとって、単純ながらも現実的な目標だった。

「きのうすみいるかのゆめをみたの」

「すみいるか」

「すみくじらのともだちよ、しらないの」

「うん」

「へんなの」

「へんじゃないよ」

「ずっとともだちでいてよね」

「え」

「ずっとともだちよ」

 

 私は本土で暮らしていた頃、一匹の鳥を飼っていた。何かのきっかけで知り合いから譲り受けた小さな紅雀だった。鮮やかな赤い羽根の中に白い斑点模様がいくつかあったので、私はそれをテンテンと呼び始め、いつしかテンちゃんと呼ぶようになっていた。五年程飼っていただろうか。きれいな声で鳴き、私の生活に彩を与えてくれる存在だった。

 ある朝、餌を変えようという時に元気がないと思っていたら、その日のうちに死んでしまった。私はあまりのあっけなさに追い付けず、その日は何事もなかったようにして過ごした。念の為、籠を掃除し、餌の取り替えをした。死んだままの格好で丸一日、私はテンちゃんを放置していた。翌日にはもう臭い出したので片付けないといけないと思い、わざわざ新しいタオルを買ってきて丁寧に死骸をくるみ、アパート裏手の土の斜面に埋めた。空っぽの鳥籠がある部屋で私は寂しくなんてなかったが、なんとも手持無沙汰だった。ひとりなのに自分の声の大きさに驚いた時に気づいたのは、そもそもテンちゃんがいた時だって私はひとりだったということだった。

 テンちゃんが死んだ年のまさに同じ日にウリが生まれたという事実を知った時、私は自分が島の女と結婚しこの島で生活を始めたこと、私の人生の全てが運命付けられたものであるかのような感覚に陥った。私にとってのウリとは、そしてウリにとっての私とは、お互いが特別な存在であるのかも知れないという勘違いからすらも、何某かの意味を見出さずにはいられなかった。

 私はだんだんと浮ついた思いに囚われていった。私はウリの父親の存在を知らなかった。女が旦那といるところを見たことはなく、女が旦那について話をしたこともなかった。ウリは「ママ」とは言っても、「パパ」や「おとう」と発したことはなかった。私はウリの父親がどのような人間か知りたいと思い、様々な想像をした。仮にウリに父親がいないのであれば、私にはその代わりが務まるのではないか。私はそんなことまでも考え始めていた。もしそんなことを女に言ったならば、女はどんな顔をするだろうか。いつか女にそれを伝える場面を想像し、私はひとり散歩しながらその言い回しを練習をしてみたりもした。それは決してふざけているわけではないが、実際には叶うはずのないことが分かり切っていた。

 いつの間にか私はウリをウリと呼ぶことにすら抵抗を覚えていた。私はウリのことを密かにテンちゃんと呼ぶようになっていた。意識的にそうしたわけではなく、自然とそうなってしまったのだった。それは私の空想の中に止まらず、ともすれば二人でいる時など、私はウリにたびたび「テンちゃん」と呼びかけた。ウリは「てんちゃんってなによ」と言い、大きな眼でこちらを睨んだ。はじめはふざけ半分に言っていたつもりだったが、何度目かにそう呼びかけた時、ウリは私の呼びかけに、「なあに」と答えたのだった。

 女との関りが深まる中で、女が家を空けなければならない時など、私たちの家でウリを預かることがたびたびあった。

「いつもいつもウリの面倒をみていただいてありがとうございます」

 女は申し訳なさそうに礼を述べながら、たびたび菓子などを持ってきた。

 女が私たちの家を訪れることも多くなり、自然と妻と女との間にも交流が生まれてた。私が不在の時、痩せた女同士でなにやら楽し気にやりとりしているようだった。私からすると特に気の合いそうもない二人だったが、女たちだけで話したい事柄もあるのだろうか。私が取り持ったふたりの女が仲睦まじくしているのを見るのは、決して悪い気はしないものだった。

 ウリを預かる機会が増えるうち、妻も私以上にウリをかわいがるようになった。妻は子どもと接することが嫌いではないようだった。ウリの寝顔を眺める妻は、見たこともないほど柔らかな表情を浮かべ、それを見た私はなぜか涙ぐみそうになった。それはまるで二人の間に子どもができ、疑似的な三人家族を体験しているかのような時間だった。そんなことを妻に伝えたことはなかったが、恐らくは妻も同様のことを感じているのだろうと思った途端、急に醒めた気持ちにもなった。

 女には兄がおり、一緒に暮らしているらしかった。兄は家に引きこもり切りで他の島民とも交流がないようだった。女に兄について尋ねてみたこともあったが、女は口籠るばかりであまり話したがらなかった。なんとなく、女と兄との関係はあまり良好ではない雰囲気が感じられた。

 私はある夜、酔いかけの妻に尋ねた。

「隣の旦那さんってどんな人だろうね」

 

――聞いたことないけど……きっと優しい方に違いないわ。だってあのひとの旦那さんだもの。今度聞いてみようかしら……

 

「そうだよね、聞いたことがないよね」

 

――なにか気になることがあるの……

 

「ふと思っただけだよ」

 

――あなたも役場以外で知り合いが欲しいわよね……男同士だから話せる事柄ってのもきっとあるでしょうし……

 

「そんな相手はいらないよ」

 

――ウリちゃんって、ほんとうにかわいいわね……

 

「うん」

 

――おしゃべりも上手になってきたし……

 

 ある晩、私は風呂上がりの涼みがてら隣家へ向かい歩いていた。女とウリに会えやしないかと思い、女の家の周囲をふらふらしていたが、その日に限りウリの声さえも聞こえてはこなかった。もう寝ているのかも知れないと諦めかけた時、不意に家の扉が開いた。中から現れたのは、異常に高身長の男だった。

 私が遠めにいたこともあり、男はこちらに気づいていないようだった。男は緩慢な動きで頭を下げながらドアをくぐり出、私の位置とは逆方向に歩いていった。暗がりではっきりとは見えなかったが、杖を突いているようだった。その時ほんの一瞬、男の後ろ姿が外灯に照らし出された。男は針金を繋いだかのような痩躯で、男の身体を支える杖は男の細さをより際立たせているように見えた。男は頭部を前に押し出し、背を弧形に丸めていた。男自身より一歩先を行く杖は、男の身体を引いているかのようだった。遠ざかる後ろ姿は不安定で頼りなかった。

 私はふとそれを尾行してみることを思いついた。私はサンダルのままだったが特に躊躇いはなかった。男がどこに向かっているのかは分からなかった。土の地面を杖で突いたり滑らせたりする音が不規則に響き、じきに私はいやな緊張を感じ始めた。

 男は民家と民家をつなぐ畦道を、大きな歩幅でゆっくりながら粗い動作で進んでいった。歩みに迷いは感じられず、歩き慣れた道なのだと思われた。近付きすぎてはいけない。しかし、近付こうと思えばすぐに近付けそうなものだが、男の足取りは心許ないわりに意外にも早かった。

 気が付くと私は、呼吸を落ち着かせていられないほどになっていた。なぜか男との距離は縮まらなかった。男の歩幅は私の倍以上に思われ、夕暮れの影のように男の一歩は長く伸びた。私は自分の呼吸が男に聞こえてしまう気がし、口を閉じようと試みたが、今度は鼻からの息が荒くなった。追いつきたい気持ちとは裏腹に、またすぐに離されてしまうのだった。

 やがて道は集落から外れ、腰ほどの高さの草が生える場所に差し掛かった。ここまでの道すがら、男は一度も振り返ることがなかった。周囲に響くのは、靴裏を地面にこすりつける男の足音と、地面を突く杖の音のみだった。

 やがて男が歩いて行く先に大きな切通しが現れた。山を切り開いて作られた場所なのだろう。深く幅が狭い切通しだった。私はこれまでそこへ来たことがなかった。

 切通しは緩やかに下りながら、大きく左へとカーブしていた。左右の崖の高さは五メートル以上あるだろう。危うく崩れかけており、雑草や半分ほど埋まった岩が雑然と飛び出していた。数メートルおきに外灯が立っているが、いくつかは切れており中を照らす灯りは足りていなかった。足元には木の根が露出し、私でさえ歩きにくかった。杖を突いて歩くにはなおのこと難しいように思われた。

 私が切通しの中に一歩入り込むと、水分を蓄えた土の臭いが鼻に触れた。私は呼吸を整えるため、そこで一度立ち止まった。男は切通しの中を着々と進み、じきにカーブの先へ姿を消した。

 私は少しの間、杖の音が遠ざかって行くのを待った。切通しの中では微かな風が感じられた。私は剝き出しの地層を眼でなぞりながら、ゆっくりと中へ踏み込んで行った。男の姿はすでに見えなかったが、男が足を引きずる音と杖の音はまだ微かに聞こえていた。

 カーブの向こう側にも切通しは続いているようだった。私が緊張とともに歩みを進めた時、左右の地層のひび割れのいくつもが同時に瞬いた。崖を見回すと、ひび割れのあちこちからゆっくりと水が染み出してくるのが分かった。一帯の湿度が上がったように感じられ、私は再び立ち止まった。染み出した箇所からたくさんの水滴が地面まで垂れ流れるとやがて合流し、私に向かい幾筋かがちょろちょろと流れてきた。なぜ急に水が染み出すのか、私には分からなかった。サンダルを濡らさぬよう私は足元に流れる水を避け、再び先へ進もうとした。見渡す地層の一帯から染み出す水の量が少しづつ増してきているようだったが、まだそこまでの量ではなかった。それでもサンダルから出た私の親指の先端が水に触れた。その時、ひび割れから染み出し、まさに今滴り落ちようとする水滴の全てが一斉に私を見たような、そんな視線を感じた。私は無意識のうちに息を止めていた。突然、あるひとつのひび割れの点が歪むように大きく膨張し、水とともに新たに産み出されてくるひとつの塊があった。塊は転げ落ちながら徐々にほどけ、地面に降り立つなり私はその姿を理解した。電灯に照らされた光の中に真っ赤な顔面が浮かび上がった。それは猿だった。猿はこちらを見るなり、眼を見開いて私にこう語りかけてきた。

「ここはお前ごときが気安く来て良いところではない。お前はこの島に馴染んでいるつもりでいるかも知れないが、そんなことは全くまだまだ分からない。お前が後ろをつけてきて、急いで追ってもなお追いつけないことが物語っている理由を良く考えた方が良い。私は知っているが、この島の外部には何も無い。理屈などではなく、本当に何も無いのだ。ここの外部はただただ情報で覆い尽くされているばかりだ。情報に体積は無い。空間さえも無い場所では、情報がお前ごときの考えも及ばないような物凄い速度で膨張し続けているだけだ。まずお前はこの島の外部には本当の意味で何も無いことを知ったほうが良い。あるのは無限の情報のみだ。情報には際限も無ければ終了も無い。そもそもお前ごときに情報なんか関係ない。眼に見えるもこそが全部だ。眼に見えないものに真実があるなどという考えを持っていると碌なことはない。お前が既に間違っているとはまだ言っていない。ただそれが結果として厄介なことを引き起こす可能性があるということだ。なお今後、お前が島から出ることはまずないだろう。ただひとつ言えるのは、準備ができた時だけが準備ができた時だと言うことだ。この島でさえ世界の一部分に過ぎない。心配するな。我々はきっと同じ船に乗っている。準備ができた時に万事が整っていさえすれば、外に出ることもあり得るのかも知れない。しかし日付はまだ言えない。それは今まさに取り組んでいる最中だからだ」

 そう言い終えるやいなや、猿は激しく身震いし、威嚇するように私を見据えた。私を捉える黒眼がしきりに収縮していた。そして猿はなんとも軽やかに、左右の崖を蹴り上げながら飛び上がり、木々が立ちこめる暗闇の先へ一瞬にして姿を消したのだった。

 嘘のような静寂が再び訪れた。静寂の奥にはまだ乾いた杖の音が響いているように感じられた。私はこれ以上先に進むのがためらわれ、この夜はそのまま家へ戻るより仕方なかった。

 

 翌日、私たち夫婦はいつもと変わらぬ朝を過ごした。私は出勤のためにいつも通り身支度を整え、いつも通りに妻と向き合い朝食を摂った。当然、妻にも変わった様子は見られなかった。妻には昨晩起きた出来事について話さないでおいた。とりあえず私だけの秘密として味わっておきたい気がした。

 私はいつものように神棚に手を合わせ、いつもと同じ時刻に家を出た。すると家の前には隣の女が立っているのだった。女はウリを連れていなかった。

 朝から出くわすのは初めてのはずなのに、女の偶然を装おうとする様子はどこか不自然だった。女はいつも結わいている長い黒髪を下ろしていた。私は自分でも驚くほど自然に女に話しかけた。

「おはようございます」

「あら、おはようございます。お気をつけていってらっしゃい」

 女はにこやかに言うと自分の家の方へ身体を向けた。私が手で引き留めるような仕草をすると、女はすぐ足を止めた。

「その後、英語のお勉強はいかがですか」

「ええ、楽しくやっておりますよ。しかし、ひとつやっかいなことが起きてしまいまして……」

 女が視線を落としたので、私も心配そうな表情を意識した。

「どうかしましたか」

「それがですね、学習書に付いていた解答集を失くしてしまったのです」

「解答集?」

「別冊で解答や解説が載っている冊子が付いていたのですが、どうやらそれを失くしてしまったようなのです。家中探し回ったのですが見当たらなくて……それがないと、練習問題の正解が分かりませんから、これ以上先には進めなくなってしまったのです」

「それは大変ですね。新しく購入するしかないのでしょうか」

「私もそれが分からず、思い切って出版社に問い合わせてみました。しかしすでに在庫がないものだそうで、絶版らしいのです」

「絶版……それではどうしようもないですね。どこかに英語が分かる人間でもいれば助けてもらえるのでしょうが」

「そうですね、残念ながらあと2章を残したままで、この学習書は断念することになりそうです……」

 女は落ち込んだように黙り込んだ。私には事の重大さが分かりかねたが、女に合わせ深刻そうな態度を意識した。どうせなら昨日のことに話を移したいと思った。

「しかしこれまでやったことで、かなり英語力が付いたのではないでしょうか」

「いえいえそんな、全然ですよ……」

「ああ、そういえば昨晩、お宅からお兄さんらしき方でしょうか、出かけて行くのを見かけましたよ」

「……兄を見たんですか」

「とても背の高い方ですよね」

「そうですね……」

「白い杖を突いておられました。どこかお悪いのでしょうか」

「まあ……普段から杖を持ち歩いているみたいで……」

「というと、足がお悪いのでしょうか」

「特に歩くのに不自由はなかったと思います……」

「それでは、ひょっとして、眼がお悪いのでしょうか」

「いえいえ、そんなたいしたことではないのです……」

 女はごまかし笑いを浮かべながら口籠ったが、明るい調子で続けた。

「眼はまだまだですが、耳の方は徐々に力がついてきた気がしているのです」

「え?」

「ああ、英語学習ですが、リーディングはまだまだですが、実はリスニングの方は力がついてきている手応えがあるのです。やはりそれも解答集に多くのコツが載っていたお陰でしょうね」

「英語のお勉強のことでしたか。お兄さんの眼のことかと」

「紛らわしかったですね、すみません。兄の眼は生まれつきのようで……」

「それはお気の毒に……」私は下唇を軽く嚙むような仕草をしてみた。

「しかし光の加減くらいは分かると言っているので、何も見えていないわけではなさそうです。まあ、日常生活のあれこれは私がいないと難しいのですがね」

「それは大変ですね」

「まあでも、仕方のないことですね」

 女は作り笑顔をこちらに向けた。私は女を憐れに感じたが、こんな話をさせている私のせいであると思い、この辺りで話を切りあげることにした。

「変なことばかり聞いてすみませんでした。元気を出して下さいね」

 私は軽く会釈をし、去り際に「またウリを連れて来て下さいね」と言った。

「もちろんです」と女は満面の笑みで答えた。

 

      *

 

 マジマジは何に急かされることもなく、冷えた木々の間をのんびりと泳いでいた。彼らの青く透き通った眼は人間の立ち入ることのない広大な森を隅々までくまなく捉えていた。さして大きくない体だが、マジマジ以上の大きさの生き物は森にいなかったので、それで問題なかった。マジマジの生活圏はせいぜい樹高に収まる程度であり、あまり高い空は好まなかった。それより上の空間を生活圏とする生き物、例えば鳥や木々を渡って暮らす動物はこの森にいなかったので、それも何ら問題はなかった。森はマジマジにとって天敵のいない過ごしやすい空間だった。そんな空間でマジマジは、昆虫、甲殻類、草木やその実を食物としながらゆっくりと泳いでいた。めいめい泳いでいるようでいて、実はゆるい群れを形成していた。森の中で長い距離を移動する時など、数十匹の群れで移動した。そういったゆるやかな集団が森の中にいくつも存在していた。

 森にいる全ての生き物には平等に太陽の光が与えられていた。光によって森には一定の熱がもたらされていたが、それでも森の底は常にひんやりとしていた。多くの樹木が旺盛に繁茂することにより日差しが遮られようとも、太陽の光は森のあらゆる隅にまで入り込みそれが届かぬ場所はなかった。光はあらゆる生き物にとって何よりの栄養源となっていた。生き物たちが少しでも成長すると、そのたびに微かな臭いが立ち昇った。漂った臭気は上昇し、それらは徐々に合流しながら森に内包されていった。生命の臭いは全ての植物の枝葉の表裏にいたる細部にまで染みついていた。生き物たちはただ単に生きることに極限の集中力を発揮することができていた。

 今、ある一匹のカタツムリが土の上で力尽き、完全に動きを止めた。それが死骸になる直前に発した最後の臭い、その一筋の臭いですら生命力を持ち森をより豊かな空間にしていくのに無駄にはならなかった。カタツムリが動きを止めた場所の土が手際良くその死骸を腐敗させた。カタツムリの艶はみるみるくすみ、やがてそれはそのままの格好で小石となった。小石が太陽光でほんのり温まったところで、その上を蟻の列が這った。

 それを眼にした一匹のマジマジが地上近くまでゆっくりと下降してきた。二度三度、小石の周辺を往復したが、何も口にすることなく再びどこかへ泳ぎ去って行った。

 小石の近くの地面からは、いびつに曲がりくねった樹木の根が飛び出していた。縦横無尽にうねり上がる根は、地面に身体を打ちつけるウナギのようだった。ウナギはそこかしこの土から突き出ながら節操なく絡まり合い、それぞれが伸び続ける欲望を隠さなかった。近くの岩々には何匹ものウナギが絡みつき、その表面にめり込んでいるものさえあった。ウナギはなおいっそう強く岩にまとわりつこうと、必死に波打っているのだった。

 岩を這うウナギとウナギの隙間、その岩肌は水分を豊富に蓄えた苔で覆われていた。苔は眉のように細やかな毛をなびかせながら、太陽光をチラチラと弾き返していた。苔から溢れ出る水は岩肌を伝って垂れ落ち、森中に大量に繁っている巨大なシダに水分を供給していた。岩々の表面には幾筋もの水跡が定着していた。そこから垂れ落ちた水滴が、土に半分埋もれた平らな石の上で若々しく跳ねた。いつの日からか、それらは同じ位置に落下することを繰り返し、平らな石の表面に小さな窪みを作った。森のあらゆる場所で、水滴が落ちてはその下の物を穿つ運動が繰り返されていた。

 落滴と落滴の合い間に、宙を浮遊していた一匹のケチャ蜘蛛がゆっくり落下し、その小さな窪みにちょうど着水した。ケチャ蜘蛛は水面に張り付き身動きが取れなくなるなり水の表層に全身を包み込まれた。その上に再びもう一滴の水粒が落ち、ケチャ蜘蛛の上で弾けた。水中に飲み込まれるのに抗う力のないケチャ蜘蛛は、小さな窪みの底で潰れて死んだ。窪みの中に微かなゲップのような泡粒が浮かんで消えた。

 そんなこと知る由もない一匹の蝉が唐突に鳴き始めた。声を潜めて何かのきっかけを待っていた森中の蝉たちが、それに釣られて一斉に喚き始めた。その声は倍々に重ねられながら森の隅まで伝染していき、冷たい森を覆い尽くした。それによって非力な雑音は掻き消されるしかなかった。地上では何匹かの小さな草食動物が低く唸ったが、その声を聞いたものは誰もいなかった。森の中ではたくさんの生き物の声が発せられていたが、誰の耳にも届いていなかった。森には取るに足らない昆虫たちの呟きや、葉と葉がカサカサ擦れ合う音が絶え間なく存在し、周囲を泳ぐマジマジはその振動を鱗で受け取っていた。しかしマジマジの器官はそれを感知できるほどに発達していなかった。マジマジは音もなく木々をかわすと、森を見渡しながらただひたすらに遊泳した。

 十数匹のマジマジの群れが向かう先に大きな樹木が現れた。群れはそれに沿うようになめらかに進行方向を変更した。その樹木は、樹齢千年にもなろうかというイチョウの木だった。この老イチョウは発芽してこの方、人間に存在を知られたことがなかった。老イチョウは大きな岩々を食いながらなんとか生き延びていた。塔のように堂々と太った幹は、いくつもの巨岩を飲み込むようにそれらの上にそびえ立っていた。岩々は老イチョウの根にきつく絞めつけられ青白く腐りかけていた。老イチョウのひょろひょろと長い根は神経のように無数に這い出し、岩々をがんじがらめにしていた。老イチョウが生き延びようとする執念は並大抵のものではなかった。その根自身も岩々とともに腐りかけており、根元から放たれる臭気は数百年前から垂れ流され、多くの小さな生き物をおびき寄せていた。幹の表面は皮膚病のように腫れただれ、いくつもの裂け目があった。裂け目の間には赤みを帯びた瘤が膨らみ、その表面には常に僅かな栄養を求める昆虫たちが蠢いていた。立派な幹とは対照的に、その枝はなんとも貧相なものだった。細々と伸びる枝先に付いた葉は生気なくひび割れ、その生が最終盤であることを示していた。他の若いイチョウたちは緑葉を茂らせている季節だった。老イチョウは太陽の光をふんだんに浴びているにも関わらず、栄養を十分に摂りこむ機能が追い付いていなかった。老イチョウは残り僅かな寿命の中で、なんとか生きながらえている状態だった。

 老イチョウの横を通り抜けたマジマジの群れは、樹木のない開けた場所へ出た。その先には巨大な洞窟があった。長い年月の波浸食によってできた洞窟からは、かつてそこが海だったことの名残りがいくつも見られた。大きく開かれた洞口からは穴風が吹き出しており、マジマジの集団はそれを受けて群れをほどいた。

 洞窟の内部はケチャ蜘蛛の巣で埋め尽くされており、さらにその奥の闇には永久に誰の眼にも触れることのないみすぼらしい神社があった。神社は深い暗闇の中で朽ち果てるだけの時間が過ぎるのを、ひたすら無言のまま待機していた。

 日が沈むとマジマジは洞窟の周囲を回遊した。マジマジは暗闇を好まないので、日中に洞窟に入り込むことは滅多になかった。夜になるとケチャ蜘蛛の巣が洞窟の中でほの赤く灯った。マジマジの眼はそれを感知し、洞窟の周囲へやって来るのだった。

 この森を詳細に知っているのは人間の眼ではなくマジマジの眼だった。彼らはなんらかの意志を持ってこの森を隅から隅まで泳ぎ回り、いくつもの眼でくまなく観察し、無限の情報をインプットしていた。強い風が巻き起こり木々の葉が騒めいたり、それに釣られた生き物が何とはなしにものを言ったりする時、マジマジの鰓はマジマジ自身の意志とは無関係にピクピク反応した。そうしたあらゆる雑音は即座に森へと飲み込まれていった。森の静寂は島全体を包み込むほどに深く重かった。そんな静寂の中で、常になにかが振動していた。

 いつかの過去の出来事。今から遡って最後に森を訪れた人間はとある親子だった。今にも折れてしまいそうに細い身体つきの父親が、小さな娘を連れてやって来たのだった。父親も娘も長い距離を歩いてきており、その顔から疲労が色濃く出ていた。父親の腕は娘のそれよりずっと細かった。父親は上半身裸で、胸にはあばらが浮き上がり、腹はえぐれるように窪んでいた。息も絶え絶えに歩む父親が呼吸するたび、腹の皮膚が吸い付いて骨が透けた。それでも父親は娘を元気づけるため、陽気に振る舞っているだった。

 親子は森の入り口で立ち止まると、少しの間休憩した。父親はそこに咲いていたほんの数輪の花の中から、小さな実をひとつ摘み取った。これは何色って言うんだろうね…水色かな。父親はそう言いながら細かく震える指でその実を口に押し付け、ちびちび吸った。そして吸い終えた皮を地面に落とすと、掠れた声で言った。サルビアって花だな。そんな甘くないけど、お前も吸ってみたらどうだ。

 娘は父親の顔を見もせず黙り込んでいた。しかしふと自分の身体が甘いものを求めていると感じ、我慢ができなくなった。娘は父親に背を向けたまましゃがみ込み、素早くその実をねじり取った。疑うように指で転がしてから恐る恐る唇を付けると、皮を破って水分を吸った。咄嗟に鼻に刺さるような苦味を感じ、驚いた娘は父親に顔を向けた。父親は嬉しそうに笑って言った。こんなのどこにでもある花だよ。父親はこの数ヶ月後、衰弱して亡くなってしまうのだった。

 親子が森を訪れてから長い年月が過ぎていた。しかし森は時が停止しているのと何ら変わらなかった。現在までもその時は停止し続け、今まさにこの瞬間も何も起こっていなかった。何も変わらない瞬間が連続して現れ、無限に更新されていた。樹木は日の光を浴びながら音もなく成長し、水の雫はあらゆるところで滴り、それぞれの物体が各々の性質に合わせて運動しているだけだった。

 時間は確実に、一刻一刻が正確に過ぎた。何を待っているわけでもないのに、そこにはただ時間だけが均一の幅の一本線のように、永々と真っ直ぐに引かれ続けていた。しかし物事は微動だにしていないと言うこともできた。広大な森全体がいわば化石だった。寂寥を極めた森では、結局のところ古代から一切のことが起きていなかった。

 

     *

 

 今夜も妻は私に酒を飲むよう促してきた。ここ最近、なぜか頻度が増えていた。昨日もだったし、一昨日もだった。

 もう舐めるほどもアルコールを摂取したくない私は、グラスに付ける唇を固く結んでいた。液体は口内に流れ込んできはしないが、乾いた唇に触れただけで、毒が私の体に吸収されているように思えた。当たり前だが、実際はいくら時間が経とうともグラスの中身は減らなかった。しかし今日も妻はそれに気づかないだろう。

 幾度かの後悔を経、そうやって晩酌の時間を切り抜ける日々が続いていた。しかしごく微量のアルコールでも、もしかしたら香りだけでも、私は不思議と酔いいつの間にか頭痛の予感に苛まれているのだった。あれから幾晩も酒を口にすることを求められ、そのたびに私は妻の依頼を断ることができずにいた。「まったく仕方がないなぁ」と満更でもない素振りは見せつつ、内心はどうやり過ごせば良いのか頭を悩ませていた。

 妻が寝床に就いた後、私はグラスの中身を酒瓶に戻した。暗闇でひとり液体を瓶に流し込む行為は惨めなものだった。しかし本当に惨めなのは、妻に対してすらはっきりした態度が取れない自分自身だろう。酒はいくらゆっくり流し込んでみても瓶の中で細かく泡立った。泡立つ液体は、水の中で蠢く奇妙で不潔な球の集合体に見えた。

 今も私の眼の前にはグラスを傾ける妻がいる。妻は灰色のストールのようなものを肩に掛けている。前の方が少しはだけ、平らな胸が見え隠れしている。

 

――毎晩つき合ってくれてありがとうね……

 

「そんな、一緒に飲めて嬉しいよ」

 

――今日も私の話を聞いていてくれるのね……

 

「いつも楽しい時間を過ごさせてもらっているよ」

 

――そういえば、水色の花の話はしたことあったっけ……

 

「少し聞かせてもらったことがあったかな」

 

――不思議な色でね、小さな花びらが一枚一枚ついているの……

 

「お母さんが摘んでくれたんだっけね」

 

――実を齧ったら甘くって。大変な道のりだったけど、あの場所のことは忘れることができないわ……

 

「その話、本当だよね?」

 

――当り前じゃない……

 

 いつも妻が先に寝床に就き、後から私が続いた。私が寝室に入ると妻はたいてい眼を覚ました。しかしその日の妻は熟睡し切っており、珍しく眼を覚ます気配はなかった。きっと疲れも溜まっているのだろうと思い、私はさほど気に留めなかった。

 真夜中、私は外から聞こえる泣き声に眼を覚ました。私は暗闇の中で天井の木目に眼を凝らし、なぜ自分が目覚めたのか、はっきりと分からなかった。

 しばらくして再び泣き声が聞こえた。ウリの声だった。これまでもたびたびウリの泣き声がここまで届いて来ることはあった。私はそのたびに落ち着かなくなったものだが、夜中に子どもが泣くのは珍しいことではないと妻に教わり、それ以来できる限り気にしないよう努めていた。

 しかしその晩の泣き方は過去のそれとは明らかに様子が異なっていた。これまで聞いたことのない類の、切羽詰まったもののように思えた。私は熟睡する妻の横顔をしばらく見つめた。妻が眼を覚ます気配はなかった。

 私は身体を起こそうか迷ったが、物音を立てて妻を起こしてしまってはいけないと思った。もう一度眼を閉じてみたものの、ウリの泣き声は断続的に界隈に響き、そのたびに私を引き戻した。それはだんだんと叫びにも似た声へ移り、私を苛立たせた。

 その後もウリの泣き声は繰り返された。決定的だったのが午前四時に響き渡った警笛のごとき絶叫だった。私は、ひょっとしてあそこの男が気でも狂わせ、ウリの首でも刈ったのではないかと想像してしまった。日はまだ昇っていなかったが、私は横になっていることに我慢ができなくなった。

 私はできるだけ音を立てずに起き上がるなり、寝間着のまま家を出、足早に女の家へ向かった。近付くにつれウリの声が大きくなった。私は隣家の敷地に入り込み、躊躇なくインターフォンを押した。実は私が隣家を訪ねるのは初めてのことだった。

 夜明け前にも関わらず思わぬ早さでドアが開き、そこにはウリを抱いた女が立っていた。ウリの眼は一点を見つめ、身体は微かに痙攣しているようだった。

「こんな時間にすみません。ウリがひどく泣いているようだったので」

「そうなんですよ。私もどうして良いか分からなくて……」

「一体どうしたのですか」

「ウリをちょっと……」

「なんでしょう」

「ウリを頭から落としてしまいまして……」

 女はどこか上の空だった。ウリが激しくしゃくりあげると、女は呑気な眼でそれを見た。

「すぐに医者を呼びましょう」

「兄がしばらく様子を見ようというので、日が出るまで待とうかと……」

 私はそれを遮って言った。

「何を言っているんですか、何かあったら嫌ですから」

「だんだん落ち着いてきているので、ちょっと奥で休ませてきますね……」

 女はドアを開け放したまま家の中へ戻った。

 女はウリを置いてからも再び玄関まで出てきたり、また家の中へ入ったり、うろうろ動き回っていた。私は玄関の外で待機させられている状態だった。女によると、この夜のウリは今までになく寝付きが悪く、夜半にひどくぐずったのだという。女が寝かしつけるため長い間抱いていたところ、不意にウリが逃げるように激しく身体を回転させながら女の腕をすり抜け、頭から床に落下したということだった。

 奥の部屋からウリが泣きじゃくる声が聞こえた。例の男の姿は確認できなかった。勝手に上がり込んでしまおうかとも思ったが、私の頭にはあの男の存在があり、それを躊躇わせた。女はウリを抱いたり、置いたり、また抱き上げたり繰り返しながら、右往左往しているばかりだった。一刻も早くウリを診療所へ連れて行かなければならない。はっきり見えたわけではないものの、ウリの頭の形が少しおかしいような気がした。

 じきに朝日が差す時間となり、近隣の島民が何人かやって来出した。私が玄関の外から家の中を覗いていると、痩せ細った島民たちは私の後方、少し離れたところにわらわらと集まり始めた。私に状況を尋ねてくる者はおらず、島民同士で小さな顔を寄せ合い、こそこそと話をしていた。

 女はただ歩き回るばかりで、事態に変化は見られないまま無駄な時間が経過していた。私は背後から聞こえてくる島民たちの話し声を耳障りに思ったが、それはやけに明瞭に耳に飛び込んで来るのだった。

 それらの声を無意識に聞いているうち、私は島民たちにじっと見張られているような気になってくるのだった。気になり出すと妙に身体が緊張し、私の苛立ちは否応なく増幅した。島民たちの声ははっきり聞こえていたものの、その内容までは定かでなかった。振り返って見ると、島民たちは一様にか細い腕を組み、ススキのように揺らめきながら遠目に家の中を覗き込んでいた。島民たちの声は徐々に甲高くなった。そしてそれらは積み重なり、仕舞いにはそれぞれが声を張り上げ、騒がしいほどになっているのだった。

「まったく朝から鼻血が止まらくて」

「うちのミャアがヘビを丸飲み」

「お鍋を包んで持ってくけど他になにかあるかい」

「最近ウソモノばかり掴まされてばかりだけど」

「鶏絞めてよだれ鶏」

「息子をひっ叩いたら手首が痛くて」

「こんなところにイボが」

「今日も弁当持って海岸で待ってる」

「あれ、婆さんかな」

「婆さんじゃないか」

「婆さんがきたね」

 島民たちが盛んに婆さん婆さん言い出したので私は島民たちの視線の先を見た。島の祈祷師と呼ばれる痩せ細った老婆が向こうからやって来るのだった。老婆のことは妻に聞いたことがあったが、実際に眼にするのは初めてだった。老婆は灰色の装束をまとっており、その姿は鼠に似ていた。捩じれば千切れそうな首に、精麻でできたような藍色の首飾りをしていた。

 老婆は自前の古めかしい何かの道具を準備し、一切迷うことなく家の中へと押し入って行った。私たちは相変わらず外から家の中の様子をうかがい続けた。老婆は女になにか語りかけたのち女にウリを抱きかかえさせ、ウリに対面する形で立ちはだかった。そして眼を瞑ると、大きく息を吸い込んだ。

「祓いたまえ! 清めたまえ! 祓いたまえ! 清めたまえ!」

 老婆は甲高い声で連呼しながら、大幣のようなものを勢いよく振り回し始めた。「祓いたまえ!」と「清めたまえ!」の合い間には「ちゃっ」という音が口の中で鳴った。

 老婆に呼応するようにウリの泣き声は高まるばかりだったが、老婆は怯むことなく、

「祓いたまえ! 清めたまえ! 祓いたまえ! 清めたまえ!」

 と繰り返し叫んだ。外からその様子を眺める私には、それがずいぶんと滑稽な場面のようにも思われたが、島民たちが神妙な面持ちでその場面を見守っているのを確認し、それに倣った。

 老婆が儀式らしきものを始め十分程経過した頃だろうか。老婆は徐々に動きを緩め、やがて停止した。そして呼吸を整えると、再び女になにかを語りかけた。女はウリを看る傍ら、老婆に封筒のようなものを手渡した。それを受け取った老婆は深々と頭を下げた。老婆は家から出ると満足げに私たちを見回し、甲高い声で言い放った。

「頭を打ったことは大きな問題ではないでしょう。結局は、おそらく口から体内にケチャが入っていったわけなのです。こちらのお宅にはたいそう立派な巣がございましたな。このままでは子女の肺に巣作りしてしまうことが考えられましょう。これは大変に危険なことなのです。ケチャの生命力を侮ってはなりません。私は子女の生命力が高まるよう、きっかけを与えました。あくまでもきっかけを与えたに過ぎません。されどきっかけがないと何も始まりはしません。きっかけさえあればあとは運次第。このことはご夫婦にもようよう伝えております。あとはお二人に任せて、あなた方は安心してさっさと散るのがよろしい。みっともないみっともない」

 老婆は一息でそう言い終えると、再び私たちを見回した。島民たちは一様にしらけた様子でそれを聞いていた。そんな中、私は恐る恐る尋ねた。

「しかし、子どもの頭には落下の跡がなかったでしょうか」

 老婆は皺だらけの眼を細め、不審そうに私を見、間髪入れずに言った。

「なにを言うか。ご主人に聞いてごらんなさい。ご主人はこう証言しておりました。女が寝入っている夜分遅くに、子女がケチャの巣の下で遊び戯れているのを見たと。かつてご主人の祖父様が同じような症状で肺炎になられたそうで。その時は、本土から取り寄せた薬でしばらく持ちこたえたものの、もともとお身体が弱っていたこともあって、しばらくして残念ながら亡くなられたそうです。ご主人には昔からの馴染みのお医者様が本土におるので、今からその薬をもらいに行くとおっしゃっております。私が与えたきっかけは十全に生かさせるものと確信しておるところです」

 老婆はそう言い終えるとぜいぜい喉を鳴らしたが、その表情からは一仕事終えたような達成感が感じられた。そして荷物を担ぎ上げるなり、すぐに徒歩でその場を去った。その間もウリは容赦なく泣き続けるばかりだった。

「おれが行くんだ!」

 突然、家の中から男の怒鳴り声が聞こえた。

「おれが本土へ薬をもらいに行くんだ!」

 極度に威圧的な声に、傍観する島民たちの間にも緊張が走った。やはり男の姿は見えはしない。私は恐る恐る男に向けて呼びかけた。私はできる限り男に刺激を与えぬよう、落ち着いた声を意識しながら、ゆっくりと話しかけた。

「今、本土に行くのは危険ではないでしょうか。すでに役場から医療用のヘリが手配されています。ヘリポートまでは私が連れて行きますので」

 島民たちの間から、おーおーと冷やかしのような声が小さく上がった。島民たちの雰囲気が少し熱を帯びた。

 家の中からは何の返答もなかった。女が玄関を横切る際、諦めたような眼でこちらを見た。男はすでに出発を決めており、女が準備をさせられている様子だった。女はウリを抱いていなかった。ウリはどこかに寝かされているのか、それとも男が抱いているのだろうか。ウリの声はいつしか掠れ、もはやほとんど声が出ていなかった。

 それでも私を含めた島民たちは、誰ひとりとして家に入って行こうとはしなかった。すると島民の中から、ようよう、などとおちょくるような声を挟む者が現れた。その声の後ろを、やいやい、という声が追い、どうどう、と低く唸る者もいた。次いで、ういうい、という呼びかけが起こり、重なるようにして誰かが咳き込むと、何人かが示し合わせたかのように同時にくしゃみをした。勢いに任せて、おうおう、と煽る者がおり、どこからともなく、わはははは、という声がするとその中から、ぎゃはははは、という笑い声が立ち上がった。それらにまとわりつくように、ウリの色のない声が家の中から発せられた。

 しかしそれでもなお私たちはその場から前に進むことをしなかった。男は私の言うことなど全く意に介していないようで、再び乱暴極まる声を上げた。

「おれを島から出さないつもりか!」

 外から見ているだけでは、男の言葉が女に向けられているものなのかどうかさえはっきりしなかった。私は隙を見て女を手招きで呼び寄せ、女に耳打ちした。

「盲目の彼が本土へ行くなど無謀ではないでしょうか。代わりに私が行くと伝えてもらえませんか」

 女は眼を閉じると、一呼吸置いて言った。

「心配しないで下さい……彼は本当は見えているのですから」

 

 本土までは貨客船で半日ほどかかる。一日一便、今からならなんとか今日の便に間に合うという。

 私は男の訳の分からぬ行動に付き合う気などなかった。しかし、女は私に必死に頼み込んでくるのだ。女はあくまで男と同じ側にいるということだろうか。兄妹の血とはそれほど強いものなのか。私には理解できず、本当は断りたかった。しかし気がつくと、先程まで騒ぎ立てていた島民たちはひとり残らず消え失せていた。私が女からの依頼を断れるわけはなかった。気が付くと、私が男を港まで送り届ける役割を任されることになってしまっていた。

「……わかりました、ではすぐに車を準備して来るので、外で待っていて下さい……」

 男は本土に知り合いがいるので、船に乗りさえすれば向こうでは何とかなるなどと言っているらしい。そんな本当か嘘かも分からない話に、なぜ私が付き合わなければならないのか。そう思いながらも、私は家へと走っていた。祈祷師の老婆がのんびりと歩く後ろ姿が見えた。老婆の背中は先程の熱量とは打って変わって覇気がなかった。私は老婆に追いつくなり勢い良く話しかけた。

「あなたが変なことを言うから、私が港まで送り届けることになってしまいましたよ」

「……うぬ、お前はさっきの野次馬か。子どものためだよ。あの男を早く本土へ連れてってあげな」

「ウリが蜘蛛を飲んだなんて、嘘でしょう」

「おいおい、何を言ってる。お前は本土から来た輩だろう? あまり勝手に思い込まんでくれ」

「だってあの頭、明らかに片側がへこんで……」

 私の話を振り切るように老婆は早足になったが、私はそれに簡単に並んで歩くことができた。老婆は何を思ったのか、急に悪質な表情をして言った。

「お前はあすこの娘の旦那だろう」

「そうですが……」

「女房の母親のこと、知っているのかい」

「ええ、話では」

「島では知られた女だったんだがな」

「もう、何年も前に亡くなられてますよね」

「そうだね、いつだったか死んだね。島で最後の語り部だったからな。昔はそんな女どもがいたわけだ。だから娘……お前の女房はね、最後の語り部の末裔だよ。そんな教えなんか受けていないだろうけどね」

「語り部?」

「島の出来事を語り継いでいく血族だよ。島に関するあらゆる古い書物は、ある時に全部、燃やされてしまったからね」

「どういうことでしょう」

「その母親は立派な語り部だったよ。でも娘にはやらせないとか言ってたっけ」

「いや、何のことだかさっぱり分かりませんが」

「島の古い者ならみんな知っていることだよ。いやなら聞かなかったことにしてくれて構わないよ」

「……おい、さっきから何の話をしているんだ」

「お前の女房は語り部のなりそこねってとこだ」

「一体何を言っているんだ……」

「そら、お前んちはそこだろ。じゃあな」

「………………」

 私は返す言葉もないまま、老婆の姿を見送った。全身に急に疲労感が圧しかかってきた。

 家に戻ると、妻が居間にふらふらと立ち尽くしていた。妻はいつにも増して隈の陰影が深く刻まれており、顔色がひどかった。

 私が、ただいまと言うと妻は壁の一点を見つめたまま、おかえりなさいという形に口を動かした。私は訳の分からぬ老婆の話に混乱させられていたが、妻の前ではできるだけ平静を装おうと思った。

「今ね、ウリが大変なんだ、頭を打ったらしくて」

「頭を打った……」

「すぐ医療ヘリを呼んでくれないか、役場に連絡すれば呼べるはずだから」

「私が……」

「おれはあそこの兄貴を港に連れて行かなきゃいけなくなってしまった」

「そう……」

「昼過ぎには戻るから……」

「ウリちゃん、大丈夫かしら……」

 妻は終始茫然としていた。体調が優れないようだったので、役場に連絡したら横になるよう言い残し、私は車に乗りこんだ。私が役場へ連絡すれば済む話だとも思ったが、船の時間に間に合わなかったりするとなお厄介なことになると思い、ここは妻に任せることにした。

 隣家の前に車を付けるも、男はまだ出て来ていなかった。私は仕方なく車を降りて待った。しばらくすると女に付き添われた男が家から姿を現した。ウリは部屋に置きっ放しにされているのだろうか。男は長い背中を丸めながら扉をくぐり、外に出て身体を伸ばしてもなお、その首は前に突き出されていた。右手で女の腕を掴み、左手で白い杖を突いていた。改めて奇妙な身のこなしと手足の長さだった。

 私は助手席のドアを開き、それが風で閉まらぬよう押さえながら待ち構えていた。男は大声を出していた先程とは打って変わって落ち着いているように見えた。男は時折、女に何か耳打ちされながら歩いた。

 そしていよいよ助手席へ乗り込もうとしたその時、男と私の顔が非常に接近したのだった。私はその瞬間、初めてその男の顔の詳細、顔面だけでなく男の在り様を、まじまじと観察させられたのだった。眼球は幾重にも膜が張られたように濁り、左眼はまっすぐこちらに見つめていたが、右眼は極端に外側を見ていた。うねりの強い毛髪は脂で照り大量のフケが付着していた。しばらく剃っていないであろう髭は眼の下から喉仏まで均一の密度で苔のようだった。全身から埃のような臭いを漂わせていた。

 男を助手席に収め、私も運転席に座ると、私は何も言うことなく車を発進させた。女はなぜか満足げな表情で男と私の乗る車を見送っていた。私がこの男を港まで送り届けなければならないというのは全く不本意なことだった。私は男に何か話しかけられたとしても、無視もしくは極めて冷淡にしてやろうと既に決めていた。それでも間違いなく私は男を助けてやっている立場だった。私には不満を表す権利があるはずだった。

 そんな強気な思いがあったにも関わらず、私の身体を妙な緊張感が覆っていた。深呼吸してみても鼓動が早いまま治まらなかった。強がってみたところで、私にはいくつもの心配事があるのだった。

 私が運転手として無駄な時間を過ごしている間、妻は役場に連絡してヘリを依頼しなければならなかった。妻がそれをきちんと行えたとしても、それにウリが乗り込んで近隣の病院へ向かい、正しい治療が施されなければならなかった。そしてウリには以前のように回復してもらわなければならなかった。これらの工程が迅速に行われなければ、全ては水の泡だった。

 何かもう気が遠くなるほど困難な道程を歩んでいるような気がした。私は焦りを意識することでより焦り、全身が固まっていくのが分かった。なぜか力の入れようが分からず、普段通りに運転をすることすら困難だった。適切なスピードを維持できず、何度も不要なブレーキを踏んだ。過去に走ったこともあるまっすぐな道なのに、やたらとアクセルを深く踏み込んだり、ちょっとしたカーブに不適当なスピードで入ったりして、男と私の身体は前後左右に大きく振られた。

 そんな中でも私は根気強く一言も発しはしなかった。しかし男も何一つ喋らなかった。車内には男の埃のような体臭がもうもうと充満していった。私は終始ハンドルを安定させることができず、窓を開ける余裕すらなかった。私は横眼で男の様子を窺った。男の口角は少し笑ったようか感じで微かに上がっていた。私は自分の焦りを見透かされているように感じ、強気な心はあっという間に影を潜め始めた。長い間、走行音のみの時間が続き、私は緊張に押しつぶされてしまいそうだった。

「……すみませんね、下手な運転で」

 我慢しきれなくなった私は、あっけなく男に声をかけたのだった。しばしの沈黙の後、男は「ん」と同意ともなんともつかぬ音を発するのみで、再び長く続く沈黙に戻った。男は窓から中空を見つめ、たまに鶏のような細い手首を回した。

 隣にいると異様な背丈が車内を圧迫した。私は無意識のうちにドア側へ身体を傾け運転していた。男は持て余すほど長細い手足を窮屈そうに折り畳み、ひどく不自由そうな姿勢で膝を抱えて座っていた。白い杖は腕や足の間に自然と立て掛けられており、立派な身体の一部分なのだった。男は時折「ふ」などと怪しく鼻を鳴らした。

 私はいつしか男の存在に完全に気圧されていた。いつ怒鳴りだすかも分からない恐ろしさもあった。この男は私が恐がっているのを知りながらにやにやしているのではないだろうか。私は自分が男のペースに飲み込まれていくのをはっきり自覚した。ひょっとしてこの男はなにか私のことを見定めようとしているのではないか。長時間の沈黙の中で私がどういった態度を取るのか、採点でもしようとしているのかも知れなかった。しかしそれは一体なんのためだろうか。男が私を見定めようとする理由など思い当たらない。しかしそんな理由などいらないのかも知れない。

 私は無心で運転しようとした。一向に車の動作は落ち着かず、それを修正する余裕などなかった。男は個人的な楽しみのためだけに私を試しているに違いなかった。とにかく一刻も早く港へ辿り着きたかった。その一心で運転に集中しようとしても、私は助手席の様子が気になり、終始びくびくし続けていた。私は怯えのあまり、赤信号を全て無視して突き進んでいるような状態だった。

 何もない風景を男の視線が追っては過ぎ追っては過ぎた。男の視線は風景を追っているのだった。女の言っていた通り、この男は実は見えているに違いなかった。しかし私はそれをきっかけとしても、この形勢をひっくり返すほどの機転を持ち合わせていなかった。

 ようやく港の周辺へ差し掛かった頃、男が音を立てて鼻から息を吸い、実に長く吐いた。私は最後にこの男になにか一言でも食らわせてやりたいと思った。何でも良い。それさえできなければ完全に私の敗北となってしまう。この男のために車を出してやったのは他でもなく私なのだ。私は自分に言い聞かせ、思い切って口を開いた。

「……そろそろ着きますね」

 案の定、男は私の言葉を無視した。ひょっとして眼が見えていないだけでなく、耳も聞こえていないのかも知れない。そんな可能性だって否定できなかった。私は少し緊張がほぐれた気がし、思い切って続けた。

「……妹さんは熱心に英語の勉強をされているそうですね」

 男がまたさらに長く息を吸い込んだ。へこんだ腹がなだらかに膨れ上がるのが服の上からでも分かった。車内の空気が薄くなるような気がした。男は窓の外に視線をやったまま、低く小さな声で呟いた。

 

――外国語なんて贅沢な

 

 その発音は不明瞭なものだったが、はじめて男から私に向けられた言葉だった。私はそれに対して即座に返事ができず、「えぇ」と曖昧に言っただけで、その後になにも言葉を続けることができなかった。

 船着場に到着しエンジンを切ると、私は一呼吸置いて、「着きました」と小さな声で言った。私の気持ちは完敗していた。男が車を降りようとする素振りを見せなかったので、私が先に降りた。それでも男に動く様子がなかったので、仕方なく助手席のドアを開けてやると、ようやく窮屈そうに身体を動かし始めた。手を貸してやるべきか分からず距離を取っていると、男は杖を突いて車を降り、私の眼の前で立ち上がった。

 改めて対面すると、その背丈は私を後ずさりさせるほどだった。見上げた喉仏がくいくい波打っていた。男は行くべき方向が分からない様子でその場を少しうろついたので、「こちらですよ」と強めに促すと、正しくその方向に身体を向け、のっそり歩み始めた。

 この日も港の風は容赦なく吹き荒び、男と私はそれに抵抗しながら進まなければならなかった。船の乗りこみ口まではたかだか数十メートルの距離だったが、その時私はほんの小さな出来心を見つけ、考える間もなく、即座にそれを実行した。

 私は、男が地面に擦りつけながら歩む足を、私の足で引っ掛けることを試みた。しかし男はそれに絶妙に、実に絶妙に掛からずその次の一歩へ進んだのだった。

 私はその動作を眼を精一杯見開き凝視していた。男は足首を揺らし、ほんの少しだけ浮かせていた。子どもじみたやり方が真実への近道だったりするものだ。この男はただ単に見えていないふりをしているに過ぎないのだ。私はようやくそう確信した。

 船の乗りこみ口では、一人の若い船員が男を引き取るべく待ち構えていた。私の任務は男を船員に引き渡すところまでだった。若い船員が島民ではないことは一目で分かった。船員は中肉中背で、言ってみれば私の腹から贅肉を落とし、全体的に筋肉質にしたような体型をしていた。久しぶりに中肉中背の人間を見た私はその健康的な姿形に思わず見とれ、自然と船員の方へ向かった。

「船員さん、ごくろうさまです!」

「ええ、どうも。ああ、この方ですね」

 若い船員は急に話しかけられたことに戸惑っている様子だったが、男の引き渡しについての事情を理解しているようだった。私は自分でも気づいていなかったが、船員と会話したい衝動に駆られ、話を続けていた。

「は……よろしくおね……ところで私はもと……あなたとおな……まだあま……!」

 突然の爆風が私の声を思い切り破り飛ばした。若い船員は「ははははは」と快活に笑いながら男を引き取るために手を伸ばした。

 船員が男の腕を掴もうとしたその時、男が突然、私の方へ身体の向きを変えた。私と男は向き合う格好となったため、私は立ち止り、心持ち距離を取った。汗ばんだ皮膚を海からの風が冷やす中、再び突風が吹きつけ、私は思わず眼を瞑った。

 その時、私の真横を何かが、というより間違いなくその男が通過したような感覚があった。男が真正面からこちらに倒れ掛かって来、私の眼の前で私の右側に方向を変化させたような、ごく接近した一瞬の感覚があった。顔と顔とが非常に近くにあった。すれ違いざまに、耳元に息を吹きかけられた感触すら感じられた。

 しかしそれは私の錯覚で、実際は海からの生温い風が吹きつけたに過ぎなかった。そして今まさにその同じ軌道を、一匹のオニヤンマが風に乗って勢い良く通り抜けて行った。私がただひとり息を飲み、海からの平凡な風によろけたに過ぎなかった。

 眼を開けると、男の左眼がまっすぐにこちらを見ていた。不思議なことなのだが、男が何かを言おうとしているということが私には分かった。私が耳に意識を集中させると、男は低く、そして明瞭にこう発した。

 

――どうも子どもを抱くのが苦手でな

 

 私は男を船員に引き渡し、海の先に船の姿が見えなくなるまで見届けた。落ち着いて運転して村まで戻ったはずだが、記憶はあやふやだった。もしかすると私はうとうとしていたのかも知れない。車内は埃のような臭いが充満していたので、窓を全開にしたことだけははっきりと覚えている。

 

 家に戻ると、妻が食卓で顔を覆い涙を流していた。妻が泣いているのを見るのは初めてのことだった。

 あの後、ウリは嘔吐するなど不安定な状態だったが、とにかく女に抱かれながら医療ヘリに乗りこみ、決して近くはない離島の総合病院へと運ばれて行ったということだった。ウリの容態は予断を許さないものであるに違いなかったが、私の心配をよそに、妻はしっかり役割を果たしてくれたのだった。

 その晩、妻は酒を飲まなかった。より正確に言うのであれば、その日から妻は酒を飲まなくなった。

 夕方になると、妻は食欲がないと言って何も食べずに寝床へ入り込んだ。そして横になってからも静かに泣き続けていた。私が背中をさすってやると、拒否するように頭から布団を被った。

 翌日は、前々から森へ行くことを予定していた日なのだった。私はその日まだ何も食べていなかったためひどく空腹だったが、それに耐えながら、布団を被って泣く妻にやさしく呼びかけた。

「明日の予定は延期しよう。お互いゆっくりした方が良いよ」

「いやよ、明日はなんとしても行くわ……」

「とても行ける状態じゃないだろう」

「心配しないで……」

「ほら、ウリのこともあるし」

「お願いだから行かせて……」

「しかし……」

「大丈夫だから……」

「………………」

 私はそれ以上の説得を諦めた。私自身、立て続けに色々なことが起こり参りかけていた。妻は最後に「明日は朝早いのだから早く寝なさい……」と言い、より深い場所へと潜り込んでいった。

 

     *

 

 白く濁った男の左眼が最後に見た光景は一体何だったろうか。私は真剣に想像してみようとするが、そんなこと分かるはずもない。

 私は短い時間しか眠っていないにも関わらず、この日もまた太陽が昇る前に眼を覚ました。妻はまだ眠っているようだった。私は布団の中でしばらく眼を瞑っていたが、もう眠れそうになかった。ウリは無事に一晩過ごせただろうか。眠ることを諦めて庭へ出ると、朝日が昇り始めていた。

 突然、おい、と呼びかけられ外を見ると、役場長が手を挙げながらこちらに向かって来るのが見えた。私はにこやかに会釈を返しながら近づいた。

「おはようございます」

「君は、隣の家の男と知り合いだったかな」

 役場長は朝から険しい表情をし、唐突に話し始めた。

「まあ、そうですが」

「そうか……気を確かに聞いて欲しい。未明のことなんだが、その男が電車にはねられて轢死したらしい。本土の警察から連絡があったんだ」

「どういうことでしょう……」

「駅のホームから転落したんだ」

「そんな……」

「隣の家には女がいるだろう。直接伝えるために、急いで来たんだ」

「彼女は昨日ヘリで県立病院へ行って、今はいませんよ……」

「あぁ、やはり子どもと一緒に乗った女か」

 役場長は足元の砂を軽く蹴った。咄嗟に私は、今はまだ何も確定していないはずだ、と無理に思考を固定した。ここで簡単に流されてしまってはいけない。私はただ役場長の話を聞いているだけで、役場長だって本土の警察の話を聞いてここへ来ただけなのだ。何かを受け止めるにはまだ早いはずだった。実はまだ何も起こっていないことだって考えられた。私は平常心を強く意識しながら尋ねた。

「男の状況をもう少し詳しく聞かせてくれませんか」

「いや、私も細かい情報は何一つ知らないんだ。とにかくそこの家の女房に伝えなければいけないと思って慌てて来たのだが……」

「あれは妹さんですよ」

「兄妹なのか? その情報は入っていないが……」

「ははは、何も知らないんですね」

 私はうまく平常心を保てているつもりだった。役場長は何か聞き違いをしたと思ったのか眼を丸くし、むせるように咳払いをした。私はなぜかへらへらと笑い、口が勝手に続けた。

「あの、それでは用がないのであれば、早く帰ってください」

 私はなおも自分が冷静でいられているつもりだった。

「君は何を言っているのか分かっているのか……」

「ははは、どうせ私は本土から来たわりにあまり感心されていないですよね。私はこれから出かけねばならないので、早く帰っていただけませんか」

 私は自分でも何を言っているのか良く分かっていなかったが、落ち着いて言い切ることだけを意識していた。

「いやいや、ちょっと待て、君の評判は役場で上々だよ。不慣れな島でがんばってくれているじゃないか」

 役場長は私をなだめるように言ったが、その上ずった声は私の耳にうまく入ってこなかった。私は何も答えず、口許を緩ませたまま役場長を見た。役場長はあっけに取られながら「君、おかしいぞ」と言い捨て、来た道を戻って行った。

 昇り切った朝日を見ると、助手席にいた男の臭いが急に思い出された。ふと、男と私は同じ方向を向いた者同士だったのではないかという考えがよぎった。良く知らないが、本当は私なんかよりむしろ、あの男の方がずっとウリのことを思っていたのかも知れない。

 自然と深いため息が出た。こんな最中、妻はどうして森へ行くことに固執するのだろう。妻に男の轢死について話すわけにはいかないだろう。妻をこれ以上混乱させることは避けなければならない。列車の轢音は、小さな島の村人がみな顔をしかめるほど不快な音を立て、子どもの泣き声さえも切り裂くことだろう。

 不意に私も大声で泣き出したいような気分になった。私はふらふら隣の家まで歩いて行き、何度かインターフォンを押してみたが誰も出てこなかった。扉をノックしノブまで引いたがやはり誰もいなかった。

 家に戻ると妻が食卓で私を待っていた。妻は泣きはらした眼をしていたものの、その表情は晴れやかに見えた。

 妻と私は向き合って話をし、予定通り森へ向かうことを確認した。私は当初、森へ行くことを躊躇っているつもりだったが、妻の意志に従うことに決めてしまうと、呆気ないほど何の抵抗も感じなかった。妻に全ての判断を委ね、全ての面倒なことから解放されてしまえば良いと思った。妻と向き合ってみると、男の死は完全に現実感を欠いていた。私は不確かな情報に惑わされたくなかった。自分の眼で見たもの以外を信じるには、私はまだまだ未熟過ぎるだろう。

 

 私たちは森へ向けて出発した。妻が先を歩き、私が後に続いた。妻はまるで歩き慣れた人間のようにハイペースに前進した。ハイキング程度のものを想像していた私は、妻の歩速に面食らった。私は妻の背中に付いていくことだけを考えて歩いた。

 私たちは早々に集落を抜け、気がつくと私はその道を知っていた。例の切通しに差し掛かったのだった。切通しはあの夜と同じく、緩やかに下りながら大きく左へとカーブしていた。夜の印象では近寄りがたい雰囲気があったが、朝の切通しはその時とは異なり、太陽光の降り注ぐ生命力みなぎる場所のように感じられた。先を行く妻が振り返った。

「古くからある切通しなのよ、きれいでしょう」

「ほんとうだね」

「私も久しぶりに通るわ。この先は森への道にしか繋がっていないから、今ではもう誰も通っていないの」

「せっかく気持ちの良い場所なのにね」

 妻は再び前を向くとすぐに歩き始めた。あの夜のように私は左右の崖を見上げながら進んだ。すると太陽光を反射して、左右の地層のひび割れのいくつもが同時に瞬いた。崖を見回すと、ひび割れのあちこちからゆっくりと水が染み出してくるのが分かった。一帯の湿度が上がったように感じられ、私は再び立ち止まった。染み出した箇所からたくさんの水滴が地面まで垂れ流れるとやがて合流し、私に向かい幾筋かがちょろちょろと流れてきた。なぜ急に水が染み出すのか、私には分からなかった。サンダルを濡らさぬよう私は足元に流れる水を避け、再び先へ進もうとした。見渡す地層の一帯から染み出す水の量が少しづつ増してきているようだったが、まだそこまでの量ではなかった。それでもサンダルから出た私の親指の先端が水に触れた。その時、ひび割れから染み出し、まさに今滴り落ちようとする水滴の全てが一斉に私を見たような、そんな視線を感じた。私は無意識のうちに息を止めていた。突然、あるひとつのひび割れの点が歪むように大きく膨張し、水とともに新たに産み出されてくるひとつの塊があった。塊は転げ落ちながら徐々にほどけ、地面に降り立つなり私はその姿を理解した―

 妻が私を振り返り、「どうしたの?」と言った。私は「いや別に」と言い、先へ進むよう促した。しかし妻は立ち止まったまま表情をこわばらせていた。

「なんか急に、用を足したくなってしまって……」

「それなら、その辺りの影でしてくると良いよ」私は穏やかに返した。

「じゃあ、してくるわ。誰か来ないか、見張っていてよね」

「ここで待っているよ」

 妻は切通しのカーブの先に足早に一度消えるも、すぐに戻って来た。

「もう済んだ?」

「良い場所がないから、ここでしても良いかしら……」

「ここって眼の前で」

「ちゃんと見ていてよね」

 妻がこちらを向いたまま膝下までズボンを下ろすと、痩せこけた下半身が日の光の元に露わになった。妻はゆっくりとしゃがみこみ、足元に眼を伏せた。私はそこで丸くなった妻の姿を、曖昧な視線で見下ろしていた。眼を逸らそうと思えば出来たはずだが、私は妻の行為を見つめていた。妻はうつむいており、その表情までは見えなかった。

 水が流れ出る音とともに、妻の足元には見る見るうちに液体が溜まり、そこから幾筋かの線が切通しの端を流れていった。液体はすぐに地面に吸収され、しばらくするとその跡は消えて無くなった。液体の勢いが徐々に弱まり、ほどなくして切れると、妻は小刻みに尻を揺らし残った数滴を振るい落とした。それが終わると妻はズボンを引き上げながら立ち上がり、こちらを見ずに、ごめんなさいねと呟いた。ズボンを履き終えるなり妻はまっすぐに私の眼を見た。

「この島は水で満ちているはずなのに、この島の人々は誰もそれも気づいていないのよ。今迄もそうだし、これからだってそうに違いないわ。あなたにだってきっと、まだ気づいていないことがあるはずよ」

 妻はそう言いながら私の全身を見ていた。そして少し間を置き、躊躇いがちに付け加えた。

「あなたもずいぶん痩せてきたわね」

 妻は再び前を向くと足早に歩き始めた。私は呆気に取られ、何も言うことができなかった。

 あの時、男の後を追ってきた場所で妻が放尿し、今私はその妻の尻を必死で追わなければならなかった。私たちが森へ向かうのに特別な目的などないはずだろう。しかし私が知らないだけで、妻は何かを知っているのかも知れなかった。

 私たちは早くこの切通しを抜け、森へ急がなければならなかった。私たちはお互い無言で足を動かした。余計なことを考えている暇があるなら、一歩でも先に進まなければならなかった。私は妻の息遣いを聞きながら一歩一歩に集中した。

 私たちは少しづつ土に塗れた。歩くのに適さない斜面を上り下りし、無数の古い倒木を手を取り合いながら乗り越え、ぬかるんだ湿地に躊躇なく踏み込んでいった。

 私は終始妻の後ろ姿を見つめながら歩いていた。必死で食らいついて行かないと妻に置いて行かれそうなほどだった。私が消耗しかけた時には、妻の姿に自然と引っ張られているような気がした。妻はたまに樹木と同化したり、時に透けて見えたりもしたので、何度か見失いかけた。妻に疲労の色が見えペースが落ちた頃、私は休むよう声をかけたが、妻は首を横に振ってなおも先へと進んだ。痩せこけた見た目と裏腹に、妻の姿は明確に逞しいものだった。

 私たちは知る由もないが、ちょうどその時、ウリの澄んだ眼が開かれたのだった。一晩に渡る治療が終了し、ようやく麻酔が抜けてきたのだった。ウリは眼を開いたものの、その身体はまだ眠っているのと同じような状態だった。ベッドの横にいた母親は、娘を細い腕で抱きしめた。完全に治癒するまではまだ長い時間がかかるでしょう、と医者が言ったが、その発言は女の耳に届いていなかった。ウリはごくわずかな意識の中で、痩せた母親の身体に包まれる温度を無意識に感じ取っていた。

 その時、後ろのドアから入って来たのは外国籍の研修医だった。研修医は子どもを抱きしめる女を見るなり近付いて行き、そっと肩に手をやると心配そうに何事か声をかけた。女は即座に振り返り、たどたどしくこう答えるのだった。

「All right. And you, sir?」

 

 私たちは半日かけ、ようやく森の入り口付近へ到達した。まだ日の高い時間で、太陽が眩しく照っていた。

「ここで少し休憩しましょう」

 汗を拭いながら妻が言った。私の足腰は重く、既に身体全体が打撲しているかのように痛んでいた。私たちは全身汗まみれになり、泥や植物の擦り跡でひどく汚れていた。

 私たちが、水を飲み腰を下ろせる場所はないかと周囲を見渡していた時だった。妻の眼が森の方に釘付けになった。その時発せられた妻の嬉しそうな声は、今まで聞いたことのないほどに瑞々しいものだった。

「ケチャが、森の外へ溢れ出しているわ」

 私も妻の視線の方向を見ると、そこには風に乗ったたくさんのケチャ蜘蛛が、綿毛のように舞っているのだった。白い濃淡のある風が、波打ちながら穏やかに吹いているのが肉眼でもはっきりと分かった。ケチャ蜘蛛は合唱するように悠々と、森の外へと流れ出していた。

 私たちの身体にも何匹かのケチャ蜘蛛が自然と付いた。かわいいわね、と妻が呟き、私たちは引き寄せられるように森の入り口へ進んだ。

「そう、たしかにこんな色だったわ」

 先を行く妻の周囲には、何百輪、何千輪もの、水の色をした花が森の入り口を覆うようにして群生しているのだった。静謐な空間だった。妻はその空間をゆっくり見渡しながら言った。

「こんなにも繁殖したのね……」

 

 今、私たちのすぐ横にある太い樹木の幹に、何かの影が映った。私が反射的に空を見上げると、そこには確かに魚が泳いでいるのだった。もう一度樹木に眼をやると、再び影が通過した。私の頬を無音で汗が伝った。妻が私に向かって何か言っているようだったが、私は魚の影から眼を離すことが出来なかった。

「……ねえ、聞いてる?」

「うん、ちゃんと聞いているよ」

 妻の顔の上を、魚の影が横切った。一匹ではなかった。五匹が十匹になり、二十匹になった。魚たちもゆっくり森から脱出し始めている。思い思いの方向へ泳いでいるようだ。どこか向かうあてはあるのだろうか。一体これから何をしようというのだろう。私たちには食い止めようがないね。

 森の入り口を無数の影が通過し続け、次第に私たちの全身さえも、その影に覆い尽くされていった。私たちはたしかに二人きりだった。森から流れ出る魚の群れが途絶える気配はなく、その数はひたすらに増え続けた。

 私は再び上空を見上げた。「ねえ」と妻がまた私に呼びかけ、何か言っている。ああ、私たちは影に飲み込まれていくばかりだ。「ねえ、聞いてるの?」私は妻が何の話をしているのか、さっぱり分からなかった。

 妻がこちらに近づいて来、私の耳元で囁くように言った。

「今、私たちにとって、とても大事な話をするところなんだよ」



【著者プロフィール】
平田英司(ひらた・えいじ)
1982年生まれ。神奈川県在住。

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