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【試し読み】左川ちか「昆虫」「錆びたナイフ」「海の捨子」(『左川ちか全集』より)

左川ちか全集』(島田龍編)から、左川ちかの詩3編をお届けします。
(詩の原文はいずれも縦書きです)

昆虫        左川ちか


昆虫が電流のやうな速度で繁殖した。
地殻の腫物をなめつくした。

美麗な衣裳を裏返して、都会の夜は女のやうに眠つた。

私はいま殻を乾す。
鱗のやうな皮膚は金属のやうに冷たいのである。

顔半面を塗りつぶしたこの秘密をたれもしつてはゐないのだ。

夜は、盗まれた表情を自由に廻転さす痣のある女を有頂天にする。



錆びたナイフ        左川ちか


青白い夕ぐれが窓をよぢのぼる。
ランプが女の首のやうに空から釣り下がる。
どす黒い空気が部屋を充たす――枚の毛布を拡げてゐる。
書物とインキと錆びたナイフは私から少しづつ生命を奪ひ去るように思はれる。

すべてのものが嘲笑してゐる時、
夜はすでに私の手の中にゐた。



海の捨子        左川ちか


揺籃はごんごん音を立ててゐる 真白いしぶきがまひあがり 霧のやうに向ふへ引いてゆく 私は胸の羽毛を搔きむしり その上を漂ふ 眠れるものからの帰りをまつ 遠くの音楽をきく 明るい陸は肩を開いたやうだ 私は叫ばうとし 訴へようとし 波はあとから  消してしまふ


私は海に捨てられた


『左川ちか全集』島田龍編

四六判、上製、416ページ
定価:本体2,800円+税 ISBN978-4-86385-517-5 C0092
装幀:名久井直子 装画:タダジュン

詩の極北に屹立する詩人・左川ちかの全貌がついに明らかになる──。
萩原朔太郎や西脇順三郎らに激賞された現代詩の先駆者、初の全集。
すべての詩・散文・書簡、翻訳を収録。編者による充実の年譜・解題・解説を付す。

【著者プロフィール】
左川ちか(さがわ・ちか)
詩人・翻訳家。本名川崎愛。1911年生まれ。北海道余市町出身、十勝地方の本別町で幼少期を過ごす。庁立小樽高等女学校卒業後に上京。10代で翻訳家としてデビュー。J・ジョイス、V・ウルフ、ミナ・ロイなど、詩・小説・評論の翻訳を残す。1930年に筆名を「左川ちか」と改め詩壇に登場する。同郷の伊藤整を始め、北園克衛・春山行夫・西脇順三郎・萩原朔太郎らに高く評価、詩誌『詩と詩論』『椎の木』『マダム・ブランシュ』などで活躍した。将来を嘱望されたが1936年に死去。享年24。J・ジョイス著/左川ちか訳『室楽』(椎の木社、1932年)、遺稿詩集『左川ちか詩集』(伊藤整編・昭森社、1936年)。本書は初の全集となる。

【編者プロフィール】
島田龍(しまだ・りゅう)
東京都中野区出身。立命館大学文学研究科日本史専修博士後期課程単位取得退学。現・立命館大学人文科学研究所研究員。専門は中世~近現代における日本文化史・文学史。関連論考に「左川ちか研究史論―附左川ちか関連文献目録増補版」(『立命館大学人文科学研究所紀要』115号)、「左川ちか翻訳考:1930年代における詩人の翻訳と創作のあいだ―伊藤整、H・クロスビー、J・ジョイス、V・ウルフ、H・リード、ミナ・ロイを中心に」(『立命館文学』677号)など。

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