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新鋭短歌シリーズを読む 第八回  上篠翔「アンビバレントな身体」

2013年から今を詠う歌人のエッセンスを届けてきた新鋭短歌シリーズ。『夜にあやまってくれ』『コンビニに生まれかわってしまっても』『エモーショナルきりん大全』の重版が決定、『水の聖歌隊』が現代歌人集会賞を受賞するなど盛り上がりを見せています。
本連載「新鋭短歌シリーズを読む」では、新鋭短歌シリーズから歌集を上梓した歌人たちが、同シリーズの歌集を読み繋いでいきます。
第八回は『エモーショナルきりん大全』上篠翔さんが、櫻井朋子さんの『ねむりたりない』を読みます。どうぞおたのしみください!

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 こちたし、という言葉がある。現代では使われなくなったこの言葉は、漢字では「言痛し」となり、煩わしい、うるさい、という意味になる。言葉が痛い、それは発音された言葉だけでなく、あるいは書かれた言葉までも含むのかもしれないけれど、言葉に身体的な、触覚を刺激するような感覚を持ち込んだ古代の人々はとても繊細だったに違いない。
 この『ねむりたりない』にも言痛き世界への静かな違和感が満ちている。

  親指でスマホの通知なにもかも上に流してねむりたりない

 そんなノイズまみれの世界で生きていくための防衛手段のひとつが、自分だけの音楽を見つけることだ。

  米を研ぐ動作は思い詰めやすくサビだけ歌う森のくまさん

  ふところに紅い小さな木琴を忍ばせ歩く残雪の街

  都市はいつから都市なのか イヤフォンをすればなおさら響くビル風

 ひとつなぎの歌から、気に入った部分を切り出してお守りのように歌うこと。淋しい街を歩くとき、ふところに空想的な(もしかしたら実在しているのかもしれないけれど)楽器を忍ばせること。そのようにしてイヤホンをしたところで冷たいビル風は触覚的な刺激から聴覚的刺激に変換されてわたしに侵入してこようとする。それほどまでに、世界というのは痛いのだ。その痛さには、例えば過去を切り離して、現在を直視しなくてはならない、というどこか強迫観念めいた無言の圧力がある。

  目が覚める夢から覚めてそうやってあの埠頭まで戻れないかな

 「埠頭」には戻れない。あたたかいねむりの世界に安住していてはいけない。これは意志と責任をめぐる、いわば道徳的な煩わしさだ。かてて加えてそこには、女性の身体をもつ、という現実もかかわってくる。

  きみに無い臓器を持つこと悲しくて発火しそうな無花果を買う

 きみのものとは違う器官や臓器をもつ、わたし。結婚、妊娠、出産を通してねむりの世界、過去の世界から引き剝がされることを強制される身体。安心な空間から離れていかなくてはならなくなる、ということへの不安が、生活のあちらこちらにすきま風のように吹いてくる。
 だけど、そもそも、なぜわたしは存在しているのか、という存在論的な不安はここにはあまりない。この世界における居心地の悪さは、なぜわたしは「このようなわたしで」存在しているのか、という違和として現れてくる。なぜ根本的な不安を感じないのかと言えば、おそらく確固たる「きみ」がいるからだ。「きみ」をまなざすわたしが、わたしをまなざす「きみ」が、ここには揺るぎなく存在している。

  相槌とあさりを交互に積んでいくお椀はふたりだけの貝塚

 食べ物に関する歌の多さも印象的だった。基本的に、衣食住については満ち足りている。確かな生活がある。そしてそこには「きみ」がいる。もしかしたら「きみ」こそがわたしにとっての全き音楽なのかもしれない。

  「秒針の音が気にならない夜は初めて」つぶやくきみも海鳴り

 巻頭歌なのだけど、難しい歌だ。特に、「も」とは何を強調するような副助詞なのだろう。きっとこれはきみにとってのわたし、と、わたしにとってのきみ、を並列させているのではないかと思う。秒針をかき消すような海鳴り。世界の中にあるきみも、本当はノイズそのものだ。だけど、それは心地よく、孤独をかき消すような轟音、大きな存在でもある。冒頭からそんな「きみ」が提示されていることが、読み進めていくうちに大きな安堵の下地であることに気づく。でもそれを裏返せば、誰かといることで、その人(の身体)でない自分が逆照射されるということでもある。そんな自らの存在の仕方を措定させるために、自分の世界の認識を言葉によって丁寧に構築していく。
 誰かといるから安心できるし、誰かといるから安心できない。そういうアンビバレントに震える身体が、繊細な世界像を立ち上がらせる。

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上篠翔(かみしの・かける)
玲瓏所属。粘菌歌会主催。2018年「エモーショナルきりん大全」で第二回石井僚一賞を受賞。2020年第一歌集『エモーショナルきりん大全』(書肆侃侃房)を上梓。インターネットをやっています。

新鋭短歌シリーズ56『エモーショナルきりん大全

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