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【左川ちかを探して】第1回 北園克衛とともに(前編)二人の出会い(島田龍)

北海道余市町出身、10代で翻訳家としてデビュー。その後詩壇に登場し、北園克衛や萩原朔太郎らが高く評価。将来を嘱望されたが1936年に24歳でこの世を去った左川ちか。『左川ちか全集』(書肆侃侃房)の編者・島田龍さんが左川ちかの足跡をたどります。

第1回 北園克衛とともに(前編)二人の出会い


 左川ちかの詩は孤独ではあったが、詩人としては出会いに恵まれていた。その一人が九つ年上の北園克衛(一九〇二~七八)だ。北園は詩人であると同時に、編集者でありデザイナー・写真家でもあった。モダニズム詩壇を代表する北園に関しては、ジョン・ソルト『北園克衛の詩と詩学 意味のタペストリーを細断する』(田口哲也監訳、思潮社、二〇一〇年)という大著がある。

 一九三〇年初夏、銀座に話はさかのぼる。現在のみずほ銀行そばの井上ビル三階に文芸レビュー社の看板を掲げた事務所があった。『文芸レビュー』は伊藤整・川崎昇らが始めた同人誌である。川崎の妹であるちかもシャーウッド・アンダーソンの短篇小説「闘争」などを同誌に翻訳掲載していた。加えて、左川麟駛朗(りんしろう)と名乗り編集アシスタント(広告・会計)として事務所に詰めていた。

 当時、銀座には伊藤や北園ら二〇代の詩人・作家たちが闊歩していた。春山行夫、阪本越郎、北川冬彦、瀧口修造、一戸務、乾直恵、城左門ら『文芸レビュー』の同人・寄稿者たちも銀座に集っていた。

 文芸レビュー事務所は、ビルとはいっても安普請の木造三階建ての家だ。一階は酒屋、二・三階が貸間だった。屋根裏部屋になる三階三畳間には、川崎や伊藤の他、同人の衣巻省三や瀬沼茂樹らが集まるといっぱいになった。瀬沼の回想を引こう。

 なんとなく落ちぶれた、装飾のない、「文芸レビュー」の返品を片隅につんだ畳敷の部屋であるが、私たちには金殿玉樓にみえ、「屋根裏の哲人」を気どった。(略)川崎や伊藤から招集がかかると、この部屋に顔をあわせて、たびたび同人会をひらいた。同人会は、一階が酒屋だから、いつもビールを酌むならいになっていた。酒席で、屈託なく、賑かなのは衣巻である。(略)川崎は黒い顔を赤くして、「アノね」と遠大な計画をくりひろげた。(略)みなのこうした乱れた様子を、伊藤は静かに観察していた。
 瀬沼茂樹『伊藤整』(冬樹社、一九七一年)

 彼らは事務所で昼晩飯を抜きビールを飲んで過ごしていた(伊藤整「詩の運命」『詩学』一九四七年一〇月)。皆が若かった。彼らはまだ何者でもなく、何者にもなれる夢を持っていた。

 ビルの二階には二間あり、芸者と旦那が暮らす向いの部屋に住んでいたのが北園だった。川崎は北園に妹を紹介した。三〇年初夏のことである。このときのことを北園が回想している。

  僕はそこで一人の若い詩を書くといふ少女に紹介された。そのいかにもしなやかな体つきの少女が左川ちかであつたのである。当時彼女はまだ自分の書く詩が、他の詩人達が書く詩とあまりにかけ離れてゐるので、戸迷ひしてゐるといふ状態だつた。凡庸でない詩人が最初に経験するこの不当な不安といふのが、いかに無慈悲なものであるかを、平凡な詩人達は想像することができない。
 北園克衛「左川ちか」(『詩学』一九五一年八月/『黄いろい楕円』)

  彼女が北園にみせた一作とは、彼に聞き取りした小松瑛子によれば「昆虫」であるらしい(小松「左川ちかと北園克衛」『北海タイムス』一九七二年一一月一五日朝刊)。

 その詩才に驚いた北園は、岩本修蔵と主宰していた詩誌『白紙』のメンバーに加えた。同三〇年八月発行の『白紙』一〇号に掲載された「青い馬」が、詩人左川ちかとしてのデビュー作だ。正確にいえば同月、川崎の雑誌『ヴァリエテ』に「昆虫」を寄稿しており、デビュー作は二つ存在する。

  馬は山をかけ下りて発狂した。その日から彼女は青い食物をたべる。夏は女達の目や袖を青く染めると街の広場で楽しく廻転する。
 テラスの客等はあんなにシガレットを吸ふのでブリキのやうな空は貴婦人の頭髪の輪を落書きしてゐる。悲しい記憶は手巾のやうに捨てようと思ふ。恋と悔恨とエナメルの靴を忘れることが出来たら!
 私は二階から飛び降りずに済んだのだ。
 
 海が天にあがる。  「青い馬」

 ちかは時々二階に顔を出し、詩のアドバイスを受けるようになった。「青い馬」を気に入った北園は、自身が編集委員を務める『越佐詩歌集』(一九三〇年一二月)に、この詩を再掲している。二人の出会いは理想の物語のように展開していった。

 北園の詩人評「二人の若い女詩人」(『今日の詩』一九三一年四月)は、詩壇で詩人としての左川ちかを本格的に紹介した最も早い例だ。

マドモアゼル左川ちかを知る人は殆んど尠(すくな)い。進歩的な詩人に於てすら、彼女の真の才能を識る人が凡そ幾人あるであらうか。そんなに、彼女は若いのである。しかし既に、彼女のエスプリは洗練され尽して朗朗たる一個の王国をなしてゐる。
 北園克衛「二人の若い女詩人」

     ◆

 北園は左川ちかの詩のどこに魅了されたのだろう。同時代の詩人の中で最も繰り返し彼女に言及した北園の言葉をもう少し拾ってみよう。

 最良の詩人はその最初の一篇から完全な独自性を持つてゐる場合が多い。左川ちかはそうした詩人の一人であつた。(略)間もなく僕は彼女の明快な詩に遭遇した。それは極めて単純な形式と構造を持つたものであつたが、僕はすぐにその作品の価値を理解した。(略)彼女はそこから堅実なそして価値高い詩人としての生涯を発足した。
 北園克衛「※」(『椎の木』一九三六年三月)

 彼女の様な特殊な頭脳は、教養や訓練に待つまでもなく、生れ乍(なが)らに完全なのかも知れない。そのように彼女の詩も亦、最初の一篇より完成していたのだった。その類推の美しさが、比喩の適切が、対象の明晰がそれらに対する巧妙な詩的統制が僕を驚かせた。そして今日まで一篇の駄作も作らなかったことを僕は彼女の詩に対する純粋にして高尚な態度に帰そうとする者なのである。
 北園克衛「左川ちかと室楽」『椎の木』(一九三二年一〇月/『天の手袋』)

 「生れ乍らに完全」とは北園らしい大げさな表現だと思う。それだけ最初から惹きつけられたということだ。より踏み込んだ一文を引用しよう。

 彼女は最初から、あまり多くの詩を書かなかつたが、一つ一つの作品は何れも均整のとれたものであつた。均整がとれた作品といふ意味は、単にレトリツクの上でのそつのさなといふ意味ではない。レトリツクの世界と、それからはみだしてゐるものとの均衡によつて整へられた安定といふ意味である。
 北園克衛前掲「左川ちか」

 「レトリツクの世界と、それからはみだしてゐるものとの均衡」。非常に的を得た指摘であろう。確かに彼女の詩には、硬質で統御された文体の一方で、ある種の熱量がほとばしっている。端正でモダニスティックな均衡を崩そうとする反作用の力、いわば詩的主体である「私」の絶唱と、世界とのせめぎ合いが最後の一行まで緊張を孕んでいるのだ。

 この均衡の危うさにこそ、詩の精髄があったことを北園は気付いていたはずだ。

 三二年、二人は春山行夫、竹中郁、澤木隆子、杉田千代乃との合作詩「冬の詩」(『若草』一九三二年二月)に参加する。詩で初めて原稿料を得たちかは、小さな自信を得た。

  五月には北園たちと芸術家集団アルクイユのクラブを結成する。二人の出会いからちょうど二年が経っていた。

  四十数名の大きなグルウプとなつてからも、目だつた存在であつた。ただ、目だつた存在といつても、それが言ふところの人間的な華やかさといふ意味ではない。病弱であつたし、口かずもすくなかつた。
 北園克衛前掲「左川ちか」

  アルクイユのクラブの会合は議論を戦わせるというより、コーヒーと菓子を用意しておしゃべりする場であったらしい。ちかはまめに出席している。詩人川村欽吾はクラブで出会った彼女を、常に寡言でわずかに微笑むぐらいの知的な女性だったと振り返る(「詩人左川ちか回想」『地球』一九七九年七月)。これは北園による印象とも重なっている。

 クラブの機関誌『マダム・ブランシュ』の創刊号では、ちかの「白と黒」が巻頭を飾った。あたらしいモダニズム詩誌の首途を彼女が象徴したことになる。

白い箭(や)が走る。夜の鳥が射おとされ、私の瞳孔へ飛びこむ。

たえまなく無花果(いちじく)の眠りをさまたげる。

沈黙は部屋の中に止まることを好む。

彼等は燭台の影、挘(むし)られたプリムラの鉢、桃花心木(マホガニー)の椅子であつた。

時と焔が絡みあつて、窓の周囲を滑走してゐるのを私はみまもつてゐる。

おお、けふも雨のなかを顔の黒い男がやつて来て、私の心の花壇をたたき乱して逃げる。

長靴をはいて来る雨よ、

夜どほし地上を踏み荒して行くのか。
 「白と黒」

  三三年夏まで『マダム・ブランシュ』の中心詩人として、「夢」「雲のかたち」「花咲ける大空に」といった詩篇を寄稿し、左川ちかは自身の詩風を深化させていく。いわば“マダム・ブランシュの時代”ともいうべき濃密な一年を過ごすことになる。

 東京で父親代わりの保護者的立場にあった百田宗治。初期の翻訳を監修しプロデューサー的立場にあった兄のような伊藤整。彼らとは少し異なるスタンスで、北園克衛は左川ちかのパートナーとなっていく。

プロフィール

島田龍(しまだ・りゅう)
東京都中野区出身。立命館大学文学研究科日本史専修博士後期課程単位取得退学。現・立命館大学人文科学研究所研究員。専門は中世~近現代における日本文化史・文学史。『左川ちか全集』(書肆侃侃房)の編者を務めた。関連論考に「左川ちか研究史論―附左川ちか関連文献目録増補版」(『立命館大学人文科学研究所紀要』115号)、「左川ちか翻訳考:1930年代における詩人の翻訳と創作のあいだ―伊藤整、H・クロスビー、J・ジョイス、V・ウルフ、H・リード、ミナ・ロイを中心に」(『立命館文学』677号)など。


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