【試し読み】「朱と咲きいでよ」(『まぼろしの枇杷の葉蔭で』より)
金子冬実「朱と咲きいでよ」
大森の家で、祖母はたいてい食堂で仕事をしていた。長方形の大きなテーブル。その周りに、背もたれのない椅子がいくつか置いてあり、その一つに座ってあれこれと作業をする。
書斎がないわけではなかった。食堂と廊下を挟んだ反対側には、大きな書架と勉強机を備えた祖母の部屋がちゃんとあったのに、そちらにこもっていた姿をあまり覚えていない。食堂の方が明るく暖かいので、居心地が良かったのだろうか。
食堂のテーブルは食卓でもあるので、当然ほかの家族が食事をしたり、お茶を飲んだりもする。でも祖母は気にもせず、ひたすら紙に向かっている。その集中力たるや、すさまじいものがあった。たとえば母と伯母が同じテーブルで祖母の悪口を言っていても、全く意に介さなかった。母が若い頃の話だが、隣の部屋で体調を崩した母が嘔吐していても、作歌に没頭していた祖母は様子を見に来るどころか、声一つかけなかったという。母は這うようにして、病院にいた祖父に助けを求めたと言っていた。具合が悪い娘にとって、隣の部屋にいる母親が気遣ってくれなかったという思い出は、心の傷ともなる出来事だったろうと、今は思う。
祖母は随筆「アカシヤの花」の中で、
人が己の開花に生命をかけて悔いない情熱を持つて生れついてゐる場合、その周圍の者がそれを生かす爲に少からぬ犠牲を蒙ることは間々あり得る。併しそれらの犠牲の强要はそれにふさはしい秀れた「創造性(オリジナリテイ)」を持つた天才だけにゆるされてよい(*17)。
と述べている。祖母は歌人人生において、
「歌とはさらにさらに美しくあるべきではないのか」
「随所に朱となれ」
「あたりかまわず朱と咲きいでよ」
と自らを鼓舞し、脇目もふらず作歌に没頭した人だったが、祖母が朱と咲きいでるその周囲に、もしかすると誰かの心の血が流れてはいなかっただろうか。祖母の思い出の中に、時として錆を含んだ鉄のような味わいがあるのは、きっとそのためだろうと思うのだ。
*17 葛原妙子「アカシヤの花」『女人短歌』一(一)、一九四九年、五〇頁
※noteの仕様上簡略化されている文字があります。あらかじめご了承ください。
【続きは書籍『まぼろしの枇杷の葉蔭で 祖母、葛原妙子の思い出』でお楽しみください】
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『まぼろしの枇杷の葉蔭で 祖母、葛原妙子の思い出』金子冬実
四六判/並製/184ページ
定価:本体1,600円+税
ISBN978-4-86385-590-8 C0095
2023年9月2日、葛原妙子の命日に、全国書店にて発売予定。
装丁:成原亜美(成原デザイン事務所)
装画:杉本さなえ
【葛原妙子とは……?】
1907年東京生まれ。東京府立第一高等女学校高等科国文科卒業。1939年、「潮音」に入社し、四賀光子・太田水穂のもとで作歌を学ぶ。終戦後、歌人としての活動を本格化させ、1950年、第一歌集『橙黃』を刊行。1964年、第六歌集『葡萄木立』が日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)となる。1971年、第七歌集『朱靈』その他の業績により第五回迢空賞を受賞。1981年に歌誌『をがたま』創刊(1983年終刊)。1985年没。
【著者プロフィール】
金子冬実(かねこ・ふゆみ)
1968年東京生まれ。旧姓勝畑。早稲田大学大学院で中国史を学んだのち、東京外国語大学大学院にて近現代イスラーム改革思想およびアラブ文化を学ぶ。博士(学術)。1995年より2014年まで慶應義塾高等学校教諭。現在、早稲田大学、東京外国語大学、一橋大学等非常勤講師。1996年、論文「北魏の効甸と『畿上塞囲』──胡族政権による長城建設の意義」により、第15回東方学会賞受賞。