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【特別掲載】『パンクの系譜学』刊行記念エッセイ「パンクとの出会い」(川上幸之介)



パンクとの出会い

 私は行き場のない怒りと、それを変えることのできない自分の非力さを抱えながら、グレたり家出する勇気もなく悶々とした思春期を過ごしていた。だけど、そんな気持ちを解放してくれたのが当時、ドラマの主題歌で流れていたザ・ブルーハーツを通して出会ったパンクと、新しい世界を垣間見せて
くれたアートだった。パンクに傾倒し始めていた私は、せっせと小遣いを貯めては新しいバンドとの出会いに胸を踊らせ、実家の山梨から東京のレコードショップへと通い詰めた。当時はグリーン・デイのアルバム『ドゥーキー』の爆発的なヒットや、NOFX、オフスプリングなどの「メロコア」と呼ばれる新しいパンクシーンが全盛期を迎えており、高校ではDJをしている先輩たちがこぞって選曲していた。セックス・ピストルズといった王道パンクとニルヴァーナにはまり、カート・コバーンの急逝に滅入っていた私にとっても、このメロコアの到来は、音楽シーンの幅を一気に更新してくれる新しい救いだった。

 中でも特に気に入ったバンドは、スナッフやレザーフェイス、メガ・シティー・フォーといったイギリスのバンドたちだった。アメリカのパンクのもつ底抜けな明るさとは異なる、メロディーラインにどこか哀愁が漂う彼らのスタイルに強く魅了されていた。同時期にアートの世界においても、ダミアン・ハーストやチャップマン・ブラザーズといった、YBA (Young British Artist の頭文字をとったもの)が一堂に会したサーチ・ギャラリーでのセンセーション展が反響を呼んでいた。ホルマリンで満たされた水槽の中に浮かぶ、切断された親子の牛の作品や、何体もの小さな子どもたちの体がさまざまな部位で繫がり、鼻が男性器にすげ替えられているといった作品が世界に衝撃を与えていた。雑誌から得た情報とはいえ、その名に違わぬセンセーショナルな内容に、めくるめく衝撃を受けたことを思い出す。こんな作品はとても作れないと思いつつも美術部に所属し、進学するなら美大へと決めていた。

 卒業が近づくにつれ、周りが着実に進学を決めていくことに段々と焦りが募ってきた。ようやく重い腰を上げて進学の相談をしたものの、そこで説明されたのは日本の美大における独特のルールだった。国内の受験にはドローイング(デッサン)が必須であること、その描き方に関しても進学希望の
美大によって傾向があるとのことだった。ひとりひとりのもつ表現力や感性を総合的に評価するのではなく、必要とされるのは技術面のみで、しかも当日の一発勝負に向けて研鑽を積めというのである。型に嵌まることが嫌でパンクを聴きながら作品制作へと逃避し、美大だけはなんとかなるだろうと高
を括っていた矢先に待ち受けていたのは、新たな型に嵌ることだった。この受験のためのドローイングと世界で展開されているYBAのようなアートとは、一体どんな関係があるのだろうか。『美術手帖』から顔を上げ、部室の壁に隙間なく飾られた石膏像の模写や、美術部で称揚される絵画論との繫
がりが私には全く理解できなかった。

 インターネットのなかった25年前、私の求める情報源を提供してくれるのは『美術手帖』『DOLL』『BURST』『ガロ』といった雑誌だった。それらを貪るように読むことで私の思春期における自己は醸成されていった。雑誌で触れたイギリスのパンクやアートの情報に触発された私の感性は、日に日にイギリスへの想いを加熱させていき、ついには留学を決めることになる。しかし悲しいかな、決めたといってもその頃の私には大学を選べるほどの学力もなければ、イギリス留学に詳しい人も周りにいなかった。なんとか知り得た情報を頼りにイギリスの広報機関であるブリティッシュ・カウンシルに赴いた。そこでちょうど来日していた気の良さそうなスタッフと先生の勧めにしたがってイギリス北部の町、ウェスト・ヨークシャー州ブラッドフォードへ留学することになった。

ブラッドフォード

 それまで授業以外で英語の勉強をしたことがなかった私は、卒業記念に貰った分厚い辞書を片手に右往左往しながらも、ラッキーなことに見ず知らずの優しい人たちに手を引かれ、なんとかイギリスの北西の街、ブラッドフォードに辿り着いた。ブラッドフォードではアートスクール(美大)へ進学するための準備コースである「ファンデーション・コース」に入学した。私が滞在していたブラッドフォードは、産業革命以降、多くの移民を受け入れてきたユニークな場所として知られている。特に1948年のコモンウェルス市民も、国内の住民と平等に扱われることになった国籍法の制定以降、インド、パキスタンから多くの移民が流入してきた場所だ。そのためブラッドフォードは、アジア系移民の人口がイギリス国内で二番目に多い街で、至る所にカレー屋があり本場の味をそのまま楽しむことができた。また街中では、モスクからアザーン(Adzan)と呼ばれるアッラーへの祈りの言葉がよく聞えてきて、イギリスにいながらイスラム教の文化に触れることができるという、これもまたイギリスらしい特色を兼ね備えた街であった。

 このブラッドフォード、階級闘争の歴史といった側面においても興味深い街であった。例えば、1890年にブラッドフォードで起きたマニンガム工場のストライキは、労働者階級の闘争の歴史において、地元の運動だけでなく、イギリス全土へも波及したことで知られている。それは、かつて労働党
よりも急進的な社会主義思想を持っていた「独立労働党」が設立されたことにも繫がったものだ。また、このマニンガムは、近年、警察の移民への不当な取り調べがきっかけで起きた1995年の暴動や、排斥思想を掲げるイギリス国民戦線と移民との間に起きた2001年の暴動といった紛争の地と
しても記憶に新しい。

 そんな環境のもと、ある場所を介して私はその後の人生に大きな影響を与えてくれた友人たちと出会うことになる。中心街から少し外れた坂の上にある小さな複合ビル。地下がスケートとパンクのレコードショップ「ウィズダム」、1階にはオール・ジャンルを扱う「システム・レコード」、2階にレ
ザーショップが入っている。そこで、彼らと出会った。ウィズダムを経営していたのが、スケート、パンク、映画に造詣の深いデイヴィッド・ウィン。彼からはイギリスの労働者階級の文化やスケート、パンクについて多くのことを学んだ。ウィズダムでは「ストレート・エッジ」のハードコア・パンクバンド、ヴォーヒーズのボーカル、イアン・レッキーが店員をしていた。レッキーを通して「ストレート・エッジ」の思想やイギリスのハードコア・パンクシーンのメッカと呼ばれており、アナキストの社交クラブ兼インフォ
ショップでもある「The 1 in 12 Club」を知る。そこではエクストリーム・ノイズ・テラー、エクスプロイテッド、G.B.H、ドゥーム、ディスチャージといった80年代のイギリスを代表するパンクバンドたちを生で見ることができ、世界が一気に広がったような感動を覚えた。

 一階のシステム・レコードには、労働党の熱狂的な支持者であるDJのマット・ブラッドショー、ウェスト・ヨークシャーでは他のクラブと一線を画して60sダンスフロアーを流すクラブイベント「アンダーグラウンド・セット4」のオーガナイザー兼DJのマーク・カーシャウ、みんなよりも若干年配であった、オーナーのミック・ヘブバーンがいた。彼らはロンドンから300キロ以上離れた田舎町で日々の生活に不安を抱えていた私を、毎日のように新しい世界へと誘い出してくれた。英語に不慣れな私であったが、音楽という共通の話題のおかげで、学業を含めブラッドフォードでの生活は大変充実したものとなった。その後、日本でいう大学(Bachelor of Arts 通称BA )に進学するためにロンドンに移ることになる。

アートスクール時代

 私の通ったロンドンのアートスクールは、セントラル・セント・マーチンズという学校である。アーツ・アンド・クラフツ運動の核となったウィリアム・モリス、彼に影響を与えたジョン・ラスキンと繫がりの深い1896年に設立されたセントラル・スクール・オブ・アート・アンド・デザインと1854年に設立されたセント・マーチンズ・スクール・オブ・アートの合併により1989年に誕生した美術大学だ。スクールは、演劇、アート、デザイン、ファッション、グラフィック、ジュエリー、テキスタイル、ファンデーションコースの8つのプログラムで構成されていた。このアートスクール、日本の美大とは、かなり異なっている。始業式では、来賓で呼ばれていた卒業生のギルバート&ジョージが「学生に向けての一言」で「教員どもをファックしちまえFuck the Tutors」と言い放った。

 そして性的マイノリティをテーマとした初回の講座では、おもむろに黒板
へと振り返った講師のスーツのうしろが丸々切り取られており、漫画『おぼっちゃまくん』に出てくる「びんぼっちゃまくん」さながらの姿だった。日本だったらありえないよなと面食らったことを覚えている。こういった突拍子もない余興はともかく、カリキュラムというコアな部分で特に驚いたのが、作品制作以上に座学、レポート、論文の課題が矢継ぎ早に出されたことだった。ここ美大じゃないのかよ、と、制作に打ち込むだけだと思い込んでいた私は論文の提出日が迫るたびに息の詰まる思いがした。

 しかし、卒業後、この経験がどれだけ重要なものだったのかを痛感する。それは、作品のコンセプトを練り上げる軸となっただけでなく、例えば、アーティスト・トークや自分の作品を説明するうえで必要な「プレゼンテーション力」の強化、アーティストに必須と思われる、自分の立っている座標軸を確認したり、世界の事象を言語化することで、概念として摑み取ることにも繫がっていったからである。私を育くんでくれたこのイギリスのアートスクールは、アーティストだけでなく、ロックやパンクのキーパーソン、例えば、ビートルズ、セックス・ピストルズのマルコム・マクラーレン、クラスのペニー・ランボーらが学んだ場所としてもよく知られている。

帰国

 大学院を卒業後、私はアーティストとして運良くいくつかのギャラリーと契約をすることになり、年に数回あるアートフェアや、継続的に作品を購入してくれるコレクターとの出会いによって、ぎりぎり生計を立てることができた。またキュレーションに関しても、ダミアン・ハーストが学生の頃に
開催した自主企画展「Freeze」以降、ロンドンの美大生が年々その伝統を受け継いでいる影響もあり、2004年から私も定期的に企画していた。しかし、それも長くは続かず、そろそろ潮時だと帰国を考え始めていた矢先、ロンドンでの展覧会の準備で日本から友人の大庭大介さんがやってきた。彼は
国内外で成功している稀有なアーティストであり、情に厚く、気さくな人柄で色々と相談にのってくれた。2012年、日本の大学で研究者としての職を得ることになった。16年ぶりの日本での生活と、初めての就職に不安と期待を胸に抱きつつ、ついにイギリスを後にすることになった。


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『パンクの系譜学』川上幸之介

四六判、上製、384ページ
定価:本体2,600円+税
ISBN978-4-86385-610-3 C0070
装幀 宇平剛史

パンクとは常に問い、それについて行動を起こすことだ━━。音楽だけでなく、アート、思想、運動の側面からも「パンク」の根源に迫る画期的著作。

労働者階級の若者による現状への怒りからイギリスで生まれたとされるパンク。その叫びのルーツには、アナキズムやコミュニズムといった思想、そしてダダから脈打つ前衛芸術史も刻まれていた。
奴隷制からポピュラー音楽の誕生、その後のフォーク、スキッフル、ガレージ、パンクへの道のりに、シチュアシオニト・インターナショナル、キング・モブといった運動が交差し、セックス・ピストルズ以降に現れたOi!、クラス、ポジティブ・フォース、ライオット・ガール、クィアコア、アフロパンク、アジアのパンクシーン、そして橋の下世界音楽祭へとつながっていく。
パンクの抵抗の系譜を辿りつつ、正史の陰に隠れた歴史に光をあてる画期的著作。Punk!展、ゲリラ・ガールズ展ほか、話題の展示のキュレーションを行う研究者による初単著。松村圭一郎さん、毛利嘉孝さん推薦!

【著者プロフィール】

川上幸之介(かわかみ・こうのすけ)
1979年、山梨県生まれ。専門は現代美術/ポピュラー音楽。ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズMAファインアート修了。現在、倉敷芸術科学大学准教授。著書に『パンクの系譜学』(書肆侃侃房)。キュレーションに「Bedtime for Democracy」展、「Punk! The Revolution of Everyday Life」展、「ゲリラ・ガールズ展 『F』ワードの再解釈:フェミニズム!」など。


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