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【試し読み】渡辺考『少女たちがみつめた長崎』Part1

長崎原爆投下からまもなく75年。被爆した元少女たちがたどった過酷な運命を日記や手記などを通してつぶさに追体験した長崎西高の高校生たちの奮闘を描く『少女たちがみつめた長崎』(渡辺考)を8月に刊行します。

本書の第3章「「あのとき」の記憶と記録」からの一部抜粋を、今日から3週にわたって連載していきます(第一回:7月16日、第二回:7月23日、第三回:7月30日)。

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原爆投下当日の日記

「お見せしたいものがあります」
元県立高女の立川裕子さんから興奮気味な口ぶりで電話がかかってきたのは、2019年7月のはじめのことでした。それ以上のことは電話で問わずに、さっそく長崎市内の喫茶店で落ち合うと、立川さんはこう切り出しました。
「日記が出てきたんですよ。3日前に」
どんな日記か問うと、立川さんはドキッとすることを口にしました。
「8月9日のです」
まさか、と思いました。わたしはちょっと混乱しながら問い返します。
「それって、1945年ってことはないですよね」
「いえ、1945年の8月9日です」
兵器工場の労働の実態に関しては、吉永さんの日記と「工場日記」、そして実際に働いていた県立高女の人たちの証言が揃いました。作家・林京子さんの小説『やすらかに今はねむり給え』も重要な資料です。次に番組を構成する上で大事なのは、1945年8月9日の原爆投下当日の詳細でした。証言はもちろんのこと、当時の心情が綴られたものがあればいいとわたしは強く願っていました。しかし、長崎では原爆について投下直後に記されたものはほとんどないといわれていたので、当日の日記など簡単には見つからないだろうと思っていたのも事実です。
大発見に興奮したわたしは飲みかけのコーヒーをそのままにして、自宅にお邪魔することにしました。
立川さんの家は、長崎湾や市街地が眼下に一望できる小高い山の中腹にありました。いかにも坂の街・長崎らしい立地です。
日記はもとの位置に戻してあるといいます。
「ここから出て来たんです」
そういって指差したのは、何の変哲もない段ボール箱でした。立川さんは日記を見つけた経緯を教えてくれました。
「この箱の中に何か入っていないかと前から思っていました。でも一番下にあったので、いろんなものが積み重ねてあって、重くて動かせなかったんです。3日前に息子が来たので開けてもらったところ、入っていたんです」
そういいながら箱を開けた立川さんは、1冊の小ぶりなノートを取りあげました。
「これです。古いでしょう。作りも昔のノートです」
可愛らしいイラストが表紙につけられています。
「大好きなジュンイチの絵をわたしはなんにでも貼り付けていました」
ジュンイチとは当時、少女たちに人気だった画家中原淳一のことです。目が大きく西洋風な中原特有の少女のイラストは過酷な時代の記録に不思議な温かみを与えていました。
「豆粒みたいなちっちゃな字で書いてある。読みにくいでしょうね?」
そういいながら、立川さんはノートを開けて、わたしのほうに差し向けました。ちょっと酸っぱい匂いがしました。茶に変色したノートには、立川さんの言葉どおり細かい字がぎっしりと並んでいました。
「原爆の状況をずっと書いてます。原爆投下の直後に書いたものがよく残っていたと思います。こんなものがあるとは考えてもいなかったですね。だから今となっては誰に会ったとか、どういう行動したのかなど、忘れていた細やかなことがいっぱい記録されていますね」
たとえばですね、といって、立川さんは、日記の一部を読んでくれました。
「『私は血まみれの顔をさわってみると、ぬるぬるとした血の中にたくさんの傷口があいている。私はもう目の前が真っ黒になってしまった。こんなに傷をうけて、人前にも出られないと思うと、急に悲しくなって、涙がポロポロと流れた』と書いています」
立川さんは微笑を浮かべながら語るのですが、その穏やかな表情と日記の強烈な内容の落差にわたしは胸苦しさを感じていました。そしてあらためて立川さんが背負っている修羅を重く感じました。
「お読みください」といって立川さんはわたしに日記を渡してくれました。緊張しながら恐る恐るページをめくり、わたしの目は文字を追っていきました。書き出しはこんな文章です。

「日本良い国 神の国 八月八日は灰の国」とか「八月九日は長崎は灰にしてしまふ」とかいふアメリカの宣伝ビラが落ちたそうだ(中略)私は元気に満員電車にぶらさがって必勝を信じつつ工場へと通った。

冒頭から立川さんが綴っていたのは運命の日の描写でした。この頃、アメリカ軍が長崎に伝単というビラを戦闘機から撒いて原爆の警告をしていたことがわかります。この記述からすると、原爆投下が前日の8日の可能性もあったようです。わたしは長崎の被爆者の多くの人たちからこの伝単のことを聞いていたのですが、破壊を予告したセンセーショナルな内容は一少女の心にもインパクトを与えていたのです。「必勝を信じ」というあたりに当時「皇国少女」だったという立川さんの意気込みが感じられます。日記はこう続きます。

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昭和二十年八月九日!! 思ひ出しても恐しいあの日!! でもその日はせんでんビラの事もすっかり忘れ幾刻か後には恐しい運命にさらされる身ともしらず何時もの様にうす暗い中に家を出た。工場へ行くと何時もの如く空襲警報発令である。ひなんしたが、その時先生や多くの友とそれが最後の別れとならうとは神ならぬ身の私はしるよしもなかった。そしてそれから一時間の後あの恐しい恐しい原子爆弾が私達の頭上におちようとは誰が想像する事ができたであらうか。

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吉永さんの日記もそうでしたが、「神ならぬ身」など14歳とは思えない大人びた文面に驚かされました。これだけまとまった文章はどのように記されたのでしょうか。
「わたしもはっきりと覚えていませんが、怪我と原爆症で寝込んだ時期に、寝転びながら書いたのだと思います」
内容の重さに圧倒されながら、わたしはさらに日記を読み進めていきました。(Part2につづく/7月23日公開予定)

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渡辺考『少女たちがみつめた長崎

体重34キロ・青春が全部戦争昭和20年8月9日、長崎の兵器工場に動員されていた女生徒たちを原子爆弾が襲った。少女たちは苦しみをかかえ、どう生きてきたのか。彼女たちの日記が、今、女子高校生たちの心をゆさぶる。世代を超えた少女たちの交流の記録。
――青来有一(小説家)


2019年8月17日に放送され大きな反響を呼んだ、NHK 「ETV特集 少女たちがみつめた長崎」、待望の書籍化!
長崎原爆投下からまもなく75年。被爆者たちの命の灯が次々に消えていく中、元少女たちがたどった過酷な運命を日記や手記、対話などで、つぶさに追体験した長崎西高放送部の高校生たちの奮闘を描く。ぜひ、すべての高校生たちに読んでもらいたい1冊。

【目次】
 プロローグ 同じこころざし
 第1章 原爆を見つめ続ける
 第2章 原爆前夜の少女たち
 第3章 「あのとき」の記憶と記録
 第4章 高校生、十一時二分と向きあう
 第5章 戦後それぞれの苦難
 第6章 自責の念と罪の意識 
 第7章 わたしたちがつなぐ
 第8章 未曾有の時代の中で
 エピローグ 未来のために
 あとがき


【著者プロフィール】
渡辺考(わたなべ・こう)
テレビディレクター。1966年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒。1990年NHK入局、福岡放送局、番組制作局、大型企画開発センターなどを経て現在はNHKエデュケーショナルプロデューサー。制作した番組に、ETV特集『もういちどつくりたい~テレビドキュメンタリスト木村栄文の世界~』『シリーズBC級戦犯(1)韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』、NHKスペシャル『学徒兵 許されざる帰還~陸軍特攻隊の悲劇~』などがあり、3作品とも、ギャラクシー賞選奨(テレビ部門)を、またETV特集『戦場で書く』は、橋田賞を受賞している。他にも放送文化基金賞などを受賞。近年は映画制作にもかかわる。
著書に『戦場で書く火野葦平と従軍作家たち』、『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(大貫健一郎氏との共著)、『プロパガンダラジオ 日米電波戦争 幻の録音テープ』(筑摩書房)、『最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙』(重松清氏との共著)ほか多数。『ゲンバクとよばれた少年』(中村由一氏、宮尾和孝氏との共著)は第24回平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『まなざしの力』(かもがわ出版)。

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