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【試し読み】川上夏子『小夏を探す旅』

書影小夏を探す旅

川上夏子『小夏を探す旅』 第1章「その瞬間のこと。」より

 11時に検診があった。そろそろ夫が来る頃だがまだ来ない。看護師さんが、しばらくお腹にドップラーをあてていた。若いけどしっかりした看護師さんだ。
「今日はなかなか心音が聞こえないなあ」
 そう思ったとき、ふとお腹の冷たさが気になった。冷房で冷えているのだろうか。看護師さんは長い間お腹の上に覆いかぶさるようにして心音を探っていたが、さっと身を翻すようにして部屋を出て行った。ほどなくしてやってきた少し年輩の看護師さんの判断は早かった。
「先生に診察してもらいましょう」
 私は嬉しくなった。今日は日曜で診察はない。しかし先生に診てもらえるということは、赤ん坊のエコー画像が見られる。のんきに尋ねる。
「診察ならトイレに行っておいた方がいいですか?」
「……いや、できれば後でいいですか」
 看護師さんは小さくて鋭い声で言った。あとから思い起こすと、看護師さんは混乱していたのだと思う。なんだか不自然に下を向いたままなのだが、私の背中に添えた手に「早く」という力がこもっていた。

 この辺りから記憶が断片的になってくる。
 いつも赤ん坊の様子を見るエコー画面がある。まず「どくどくどく」という瞬きが映し出される。心臓だ。そこに血流があり動いていることを確認する。それから足や手や顔つき、背骨などを確認しそれを家庭用のビデオに録画してくれる。日々感じられる胎動もうれしいものだが、映像で赤ん坊の動きや成長を確認できるのは格別だ。
 しかしその日そこには、心臓の形自体が確認できなかった。
「動いてないね」
 私の肩の辺りに手を当てている看護師さんが固まっていた。
「ほら、ここ。真っ白だ。心臓が動かないから影が映らない。こういうことは5カ月でも9カ月でも起こるんだよ」
 そう言われても困る。だからなんだというのだ。それで? どうするんですか? どうすれば動くんですか? なにか方法があるんですよね? 赤ん坊は助かりますよね?
 方法はなかった。終わっていた。
 気がつくと私は先生の机の前の診察椅子に座っていた。机の端っこに肘をついて頭を両手で抱えていた。とにかく頭が重たかった。鉛を抱えているようだった。私はそのまま耳を塞ぐような格好で顔を伏せ、机のカバーに挟んであった「妊娠の仕組み」みたいな図説の切り抜きを凝視していた。先生は私に何か説明をしていたけれど、先生の話を聞くことも、顔を見ることもできなかった。

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 やっぱり、不安は的中したんだ。全部なにかの予感だったんだ。私は安心なんかしてはいけなかったんだ。
 ぼんやりと、最初の妊娠のときにもここで同じように流産の宣告を受けたことを思い出していた。あのときも、先生の口から有効な救済策が高らかに発表されないことに憮然としていた。「妊娠の仕組み」の切り抜きは同じ場所に貼られていた。
「ご家族に連絡しますね。病室に戻るのはいやですよね……」
 看護師さんが言った。私は微かにうなずいた。

 ナースステーションの奥のベッドに寝かされた。カーテンレールのすぐ下20センチくらいが網目状に織られていて、その部分をじっと見ていた。看護師さんが夫に電話をしている。看護師さんは肝心なことを言わずにいる。
「とにかく来てください。……いえ、お産ではありません。ハイ、いえ……」
 夫はすぐに病院に来た。私はなんとか空気のような音を出した。
「だめやった」
「なんで?」
 私は腕で自分の顔を覆い、わずかに首をふった。横になっていた私をのぞきこんだ夫の顔には影がかかっていて、あまりよく見えなかったけど、私の夫の、いつもの心配顔だった。赤いTシャツを着ていた。朝遅めに起きてシャワーを浴びたところに電話があり、とるものとりあえず駆けつけたのだろう。夫のよく乾いていない髪が、急いで来たせいで風を含んで総毛立ち、即席のアフロのようになっていた。
 夫の髪を立たせた夏の風に、病院の外の、平和で明るい世界を思った。外に出たいなあと思った。今すぐここから出たいなあと思った。
 どこかに行ってしまいたいなあと思った。どこでもいいから。

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川上夏子『小夏を探す旅

妊娠34週、子宮内胎児死亡。
もう少しで産まれるはずだった娘「小夏」を死産した。
死産前夜から宣告の瞬間、心臓を止めた赤ん坊の出産。赤ん坊がこの手にいない産褥期、夫婦で耐える日々。新生活の準備が整っていた部屋で否応無く始まる日常、そして夫と二人で抱える孤独。
「私」の手元にそのとき有効なお手本はなかった。どうすればこの難局を切り抜けられるのか。朝起きるのでさえ苦痛を伴うこの毎日を。それでも、赤ん坊の記憶を抱いて生きていくしかない。
そのときの「私」の希望はただ一つ、「私」のような体験をした人がその後どのように日々を歩んでいったのか。それを知りたかった。それだけだった。

日々克明な日記をつけていた筆者が、そのときのことばを再編集。情けない弱音も、失意の中の小さな笑いも、黒い気持ちもそのままに。そしてリアルで切なる手記ができました。妊娠経験のある女性の、実に41%(※NHK福岡「九州沖縄インサイド」2010年9月24日放送より)が流産や死産を体験しているという現代において、かならず誰かの心の拠り所になる、これはそんな本です。

【目次】
はじめに
1章 その瞬間のこと。
2章 転院。
3章 産まれる。
4章 誕生と葬式。
5章 ここは棺桶ではなかった。
6章 私の中を確かに通り過ぎたもの。
7章 子どものいない産褥期。
8章 月命日を数える。
9章 あの暗い闇の一番奥へ、もう一度。
最終章 生きている。
おわりに

2020年2月中旬全国書店にて発売。

書影小夏を探す旅


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