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【日々の、えりどめ】第19回 シュトルム湖から

 百円もしない山崎パン。なかでも、うぐいすパン。それが好物で、なにより安いので、それだけをひとつ舎人駅前のスーパーマーケットで買って、それから舎人公園の丘の上へ向かう。うぐいすパンが好きなのは、いつ食べても爽やかな新緑の味がするからである。

 その丘は平地である足立区では、いちばんの高所である。いつものベンチに腰かける。たいてい、誰もいない。水色の水筒に自宅で安いドリップコーヒーを淹れてきているので、それを啜りながらさっきの菓子パンを食べる。まるで老人のようである。毎日、こんな生活である。実際こうしているうちに、気がついたら老人になってしまうかもしれない。

 それから公園の池の方へ下っていく。鴨を見に行くのである。これも大切な日課のひとつである。この池には、名前がない。公園の案内板にも「大池」とだけされている。その大きさや景観からしてみても、 湖と言ってもいいくらいの大きな溜め池である。

 鴨が多いので、鴨ヶ池と仮名をつけている。あるいは、その日偶然にポケットには岩波文庫の「みずうみ」が入っていたから、ドイツの田舎の湖畔のような陰影もなくはないので、西洋風にシュトルム湖というのはどうだろうと考えたこともある。もちろんどのみち、わたしだけの架空の名称である。毎日、こんなことを考えている。

 わたしはどういうわけか、子供に好かれる。いつも猫背である。そのために実際より小柄に見える。あるいはどこでも見境なく座り込んでしまうので目線は自然低くなる。よって子供たちも安心して寄ってくるのもしれない。仲間意識というやつである。くだけた言い方をすれば、きっと、見くびられているのである。

 その日も鴨を見ていたら、ちいさな女の子が二人、寄ってきた。「ねえ、このパン、あげるとね、寄っ てくるよ」と、女の子のひとりがはっきりとこちらを見て言った。わたしは「そう、ありがとう」と言って、そのパン屑をいくつかもらって、鴨にやった。鴨はぺたぺたとなんの躊躇いもなく寄ってきて、それらを啄んだ。

 こんなところから、ものがたりは、はじまる。――そんなことを思った。

 わたしはその後で、ふと一軒の喫茶店に立ち寄った。

 その喫茶店には、手づくりのものが多かった。手づくりのものが多い空間は、いい空間だと思った。

 その喫茶店は、舎人駅のすぐ真下にあった。その店構えは、どこかヨーロッパの田舎風であった。いまでは珍しい音楽喫茶のようなところで、夜になると懐かしい民謡や歌謡曲が聞こえてくる。小さいがそれなりの舞台もあるのだった。

 わたしははじめひそやかにマスターの淹れてくれたキャラバン珈琲を飲んでいたが、帰り際に、マスターに向かって自分は近くに住んでいる芸人であると挨拶した。そうしたらマスターはにこにこしながら喜んでくださり、では、うちで寄席をやりませんかという話になった。わたしは、ぜひやらせてくださいと率直に答えた。それですぐに決まった。その日もマスターは、優しく笑っていた。思い返してみても、いつも笑顔のお方である。

 それからわたしはこのカフェの常連となり、様々な出会いがあった。元経営者のSさんとはすぐに仲良くなり、富津市までドライブに連れて行ってくださったこともある。Mさんは酒と博打が好きなおじさんで、普段はスイミングスクールのバスの運転手をしている。口笛が得意なタクシー運転手のUさんはこのカフェの上階に住んでいて、都内を走り回ったあとで遅い時間に帰ってくることもしばしばである。わたしはこの方々とお人柄が、ほんとうに好きである。よく演奏会も催されているので、音楽家の方とも多く知り合いになった。そういう方々とお酒を飲みながら芸術談義ができるのは嬉しいことであった。

 他にも、様々な世代のお客がやってくる。駄菓子を握った子供もやってくる。ご常連の地元のお母さん方もやってくる。そうして朝五時まで起きているというろくな生活をしていない、しかもなにやらドイツ文学にもかぶれているらしい、若手のはなしかもやってくる。

 思えば、不思議な土地柄である。ここへ来るには、車でなければ日暮里発の空中を走る鉄道に乗るしかない。それも最近の話で、以前はこの交通さえなかったのである。それでもここは、歴とした東京である。

 わたしはこの喫茶店に、一度だけ大学の友人を連れてきたことがあった、その友人は北千住に住んでいて、東京の文化と地理にはなかなかうるさいひとだが、それでも同じ足立区の外れにこのような地域があるということに対しては面白いことだと言っていた。まさか武蔵野の風景とまでは言えないが、わたしもこの辺りには何やら近しいものがあるような気がしている。場末ともいいたいのだが、それでは少し失礼である。

 ここに、ひとつの、手づくりの、うつくしい村がある。――そんな近代文学調の表現はどうだろう。軽井沢でもあるまいしと、そんな皮肉も言われそうだが、たまには勇気をもって、そんな表現もしてみなくてはならない。表現をしたあとで、自分の中でじゅうぶんに恥ずかしがればいいのだから。――自分の若い「芸」もそうだ。

 それからこの喫茶店で何度か寄席を開いた。嬉しいご感想も厳しいご指摘もいただいた。(しかしこの喫茶店も、コロナ禍がきかっけで今年に入っていから閉店してしまった。それでもわたしは、今でもこの町で生きている。)

 民話の「鴨取り権兵衛」のような激動の生き方はできない。わたしは一羽の鴨でさえ、捕まえることができないのだから。のらくらものと称される生き方を選んだ軽業師たちが、僅かな自負も込めながら「われわれはネジ一本すら作れないのだから」と自虐するように。――それならば謙虚になるまでだ。わたしという手づくりの、不器用なひとつのものごとに。

 東京最北部。大きな公園と空中滑走路のある町。ものがたりは、こんなところから、はじまる。わたしはここで、しばらくは生きていく。そして、わからないが、もがいてみたいと思っている。

 いつかこの日を、回想する日がくるのだろう。そのときわたしは老人になっていて、わたしに餌をくれたあの二人の女の子はもうすっかりと大人で、それぞれ別の家庭を持っているかもしれない。そしてまたあの湖の辺りで、わたしとすれ違う。そんなこともあるかもしれない。

 その日もわたしは安い菓子パンをかじっているだろうか。


【プロフィール】
林家彦三(はやしや・ひこざ)
1990年7月7日福島県生まれ。
早稲田大学ドイツ文学科卒業。
2015年林家正雀に入門。現在、二ツ目。
若手の落語家として日々を送りながら、
文筆活動も続けている。本名は齋藤圭介。

著書『汀日記 若手はなしかの思索ノート』(書肆侃侃房)


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