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【試し読み】渡辺考『少女たちがみつめた長崎』Part3

長崎原爆投下からまもなく75年。被爆した元少女たちがたどった過酷な運命を日記や手記などを通してつぶさに追体験した長崎西高の高校生たちの奮闘を描く『少女たちがみつめた長崎』(渡辺考)を8月に刊行します。

本書の第3章「「あのとき」の記憶と記録」からの一部抜粋、全3回の最終回です。

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学校に戻ったが

原爆に傷ついた県立高女の3年生の生徒たちがふたたび学校に戻ることができたのは、その年の10月の半ばになってからでした。立川さんはこう振り返ります。
「わたしに関しては半年、学校に行ってなかったですね」
市丸さんが頷きます。
「わたしも行かなかった。というより行きたくなかったのね、体がきつかったからね」
安日さんは疎開先での療養生活が長引いていました。
「わたしは諫早にいたけど、なんか学校が始まっているらしいという風の便りを聞いて11月頃に学校に行ったの」
三人は、安日さんの高女時代のアルバムを開き、入学当時の写真に目を落としました。
「50名以上原爆で亡くなったもんね」
「あと疎開したり、避難して他の地域に行かれ、随分減りましたね。でも今度は引揚の人たちがいっぱい入ってきたでしょう。それでひとクラス減の5クラスになった」
セピア色に変色した少女たちを指さしながら話は続きます。
「この方は原爆の時に亡くなってしまったわね」
「この方も亡くなったでしょう。エザキさん」
しばらくの間、亡くなった友人の話が続きました。それだけの数の友人が犠牲になっていたことに、あらためて驚かされました。命を落とした少女たちのあどけない顔を目の当たりにして、わたしは、突如として命が断たれた一人ひとりの無念を思い浮かべ、胸が重くなりました。
ねえ、なんでわたし死ななくてはならなかったの。何のため、誰のために死んだの。そんな少女たちの嘆きが聞こえてくるようでした。

安否確認ノートになった工場日記

三人の注意が、アルバムの中の目鼻立ちが整った若い女性の写真にそそがれました。
「今のそれを見せて、もういっぺん」
「立花先生」
「本当にきれいな人ね」
「ちょっと外国人の血が混じっていらしたから」
「なにしろね、眼がブルーで鼻がすごく高かった」
「きれいだった。背は高いしね」
生徒たちを兵器工場に引率していた先生たちは、三者三様に悲しい運命をたどりました。三人が口を揃えて「きれいだった」といい切るほどの美貌をほこり、少女たちの憧れの的だった立花玉枝先生は、原爆が襲いかかった時、工場の大きな柱が倒壊し頭部を直撃、即死でした。蒲地悦子先生は被爆して数日後に亡くなりました。
残された一人が第1章でも触れた「工場日記」を綴っていた角田先生です。「工場日記」は原爆投下前日の8月8日で終わっています。そこにはいつもと同じように、欠席した生徒の名前や工場で起きた出来事が簡潔に記されていました。原爆投下の日のページは真っ白です。めくっていくと、しばらく同様に白紙が続いたあとに、ノートの後半部分に記述がありました。
そこには鉛筆で人名がずらっと殴り書きされています。県立高女3年生の名前、その下には地名が記されたり、「死」、と書かれていたりします。角田先生は被爆した生徒の消息を訪ね歩き、それをメモしていたのです。
角田先生は8月9日、外で公務があったため工場には出勤せず、長崎中心部で被爆しました。しかしその場所は爆心地から離れていたため被害は少なく、角田先生はけがをしませんでした。燃え盛る火の海の中、先生がすぐさま目指したのは兵器工場でした。やっとのことで工場に到着すると、夜通しで負傷した生徒たちの看病にあたったといいます。その後、角田先生は9日間にわたって、爆心地付近と生徒が避難した場所を訪ね歩き、捜索を続けました。時には工場の瓦礫の中で寝起きしながら、生徒の遺体収容や、安否確認に駆けまわります。その時に、鉛筆でメモを取ったのが、前述した日記の後半部です。そして、角田先生は、メモした生徒たちの安否情報を別のノートにきれいに転記して、321人の「健在」「負傷」「死亡」の状態、居場所などをまとめました。
被爆直後は無事だった角田先生ですが、生徒たちの消息確認の最中に床につきました。残留放射能が高い地域を歩きまわったため、原爆症になったのです。
角田先生は病床で友達にあてて手紙を書いています。
「毎日のように四十度の熱に苦しめられて、本当にあの時私もそのまま職場で殉職していた方がどんなによかったかしらと、殉職された立花先生、蒲地先生の事がむしろ羨ましく思われました」
自身が生徒たちの捜索に力を尽くした理由も綴られています。
「また一方、監督三人の中二人までも失って取残された私に最後のはたすべき勤めがのこされている様な気がいたし、その夜から三年生三百二十一名、生存、負傷等の調査にあたりました」
手紙にはこの後、彼女がどのように生徒たちを看病し、安否確認を進めたかが詳しく記述されています。
9月7日、まだ31歳の角田先生は快復することなく、原爆症で帰らぬ人となりました。
こうして兵器工場で県立高女の生徒たちを引率していた三人の教員は、全員亡くなったのです。立川さんが、兵器工場に入る前に、校長が独身で子どものいない先生ばかりを監督に選び、「きっと現場に行くと爆撃されて亡くなる人が出る」と嘆いたと記憶していましたが、その言葉のとおりになってしまいました。

「一番さん――」

三人は熱心にアルバムに見入っていましたが、市丸さんが不意に顔をあげ、わたしに向かってこういいました。
「学校が始まり登校したらね、ちょうどあなたぐらいの髪の長さの人がいっぱいいました」
わたしの髪型は全体を短く刈った、いわゆる「スポーツ刈り」でした。市丸さんはこう続けます。
「みんな、被爆してすぐに原爆症が出ましたもんね。嘔吐とか、発熱とか下痢などに襲われて、それで多くの人たちの髪の毛が、抜けてしまいました。みんなが学校に集まった時、同級生たちの頭に生えてきた髪がようやっとそのくらいの長さになっていたのよね」
外見が気になる年頃です。おしゃれをしたり髪型を気にしたりする以前に、髪の毛そのものが奪われたことは年頃の少女たちにとってショックだったに違いありません。
立川さんが頷きながら、こう反応します。
「わたしの場合、頭にたくさん傷があったから、髪を伸ばせず短かった。ザクザクに切れてすごい傷だったので、母が鏡を絶対見たらだめといったので半年くらい見なかったですよ」
安日さんが、立川さんを見ながらこういいます。
「あなたはひどかったもんね。それに加えて、あなたずっと頭巾被っていたわね。だから立川さん、とても目立ってたもん」
市丸さんも声を揃えます。
「立川さんひどいなと思ってた。わたしはもう立川さんお気の毒でたまらなかった」
「あなたよく生きていたねって、絶対死ぬと思ってたって、生きているのが不思議って今もみんなからいわれる。みんなから『一番さん』っていわれていた、わたしが一番酷かったって」
「あなたが一番で、次がカイさんだったのよ」
三人の話は切れ目なく続きました。日が暮れて、そろそろお開きにしようというタイミングに立川さんは呟くようにいいました。
「でも、なんやかんやいいながらも、生きながらえてきましたね」
市丸さんは、こう続けました。
「いや、みんなよくここまで生きてきたと思います」
立川さん、安日さんは、大きく頷きました。

わたしは、立川さんの日記が見つかったこと、そして、立川さんと安日さん、そして市丸さんたちの会話の内容を長崎西高放送部の部員たちに話しました。みんなの表情から、強い興味を抱いていることが伝わってきました。
立川さんの許可も得て、日記の写しを部員たちに渡しました。とくに山口晴さんには、立川さんの日記の一部を朗読してもらうため、長崎県川棚町にある三菱の魚雷実験所の跡地に同行してもらいました。その日、長崎は大雨でしたが、原爆の言葉と対峙した山口さんの表情は真剣そのものでした。
朗読を終えた山口さんは、立川さんの日記から受けた印象をこう語りました。
「被爆体験は、本当は思い出したくないようなことのはずだけど、とにかく忘れないようにと思って、必死に詳細をずっと書いていた。だから言葉にも力があるし、リアルだし、だけど自分で想像できないところもあって、だからそれを必死に摑もうとしながら読んでいったのかな」
8月9日の体験を直に聞くために、みんなで立川さんに会いにいったらどうだろう。部員たちの間で、立川さんに被爆体験を聞きたいという希望が高まっていました。部員たちは立川さんに連絡し、インタビューの約束を取りつけました。こうして部員たちは、新たに立川さんにも取材をすることになったのです。

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渡辺考『少女たちがみつめた長崎』

体重34キロ・青春が全部戦争昭和20年8月9日、長崎の兵器工場に動員されていた女生徒たちを原子爆弾が襲った。少女たちは苦しみをかかえ、どう生きてきたのか。彼女たちの日記が、今、女子高校生たちの心をゆさぶる。世代を超えた少女たちの交流の記録。
――青来有一(小説家)


2019年8月17日に放送され大きな反響を呼んだ、NHK 「ETV特集 少女たちがみつめた長崎」、待望の書籍化!
長崎原爆投下からまもなく75年。被爆者たちの命の灯が次々に消えていく中、元少女たちがたどった過酷な運命を日記や手記、対話などで、つぶさに追体験した長崎西高放送部の高校生たちの奮闘を描く。ぜひ、すべての高校生たちに読んでもらいたい1冊。

【目次】
 プロローグ 同じこころざし
 第1章 原爆を見つめ続ける
 第2章 原爆前夜の少女たち
 第3章 「あのとき」の記憶と記録
 第4章 高校生、十一時二分と向きあう
 第5章 戦後それぞれの苦難
 第6章 自責の念と罪の意識 
 第7章 わたしたちがつなぐ
 第8章 未曾有の時代の中で
 エピローグ 未来のために
 あとがき

【著者プロフィール】
渡辺考(わたなべ・こう)
テレビディレクター。1966年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒。1990年NHK入局、福岡放送局、番組制作局、大型企画開発センターなどを経て現在はNHKエデュケーショナルプロデューサー。制作した番組に、ETV特集『もういちどつくりたい~テレビドキュメンタリスト木村栄文の世界~』『シリーズBC級戦犯(1)韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』、NHKスペシャル『学徒兵 許されざる帰還~陸軍特攻隊の悲劇~』などがあり、3作品とも、ギャラクシー賞選奨(テレビ部門)を、またETV特集『戦場で書く』は、橋田賞を受賞している。他にも放送文化基金賞などを受賞。近年は映画制作にもかかわる。
著書に『戦場で書く火野葦平と従軍作家たち』、『特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た』(大貫健一郎氏との共著)、『プロパガンダラジオ 日米電波戦争 幻の録音テープ』(筑摩書房)、『最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙』(重松清氏との共著)ほか多数。『ゲンバクとよばれた少年』(中村由一氏、宮尾和孝氏との共著)は第24回平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『まなざしの力』(かもがわ出版)。

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