【試し読み】スリーク、イ・ラン『カッコの多い手紙』(吉良佳奈江訳)スリークよりイ・ランへ「もしも私が妊娠したらどうするかパートナーに聞いてみました」
スリーク、イ・ラン『カッコの多い手紙』(吉良佳奈江訳)
《手紙には何度も(カッコ)を使いましたね》
ミュージシャンで、フェミニズムの同志。先行き不明のコロナ禍に交わされたイ・ランとスリークふたりの往復書簡。
猫と暮らすこと、妊娠する身体、憂鬱な心の話を分かち合い、ヴィーガニズムや反トランスジェンダー差別を語り合う。私的なことと社会的なこと、共感と対話のあいだを行き来しながら紡がれる優しくゆたかな言葉たちは、あたらしい距離を測りつづけている。
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スリークよりイ・ランへ
「もしも私が妊娠したらどうするかパートナーに聞いてみました」
きょうは本当に変な気分の1日でした。文字どおり1日中眠っていたからです。昨夜はワインを飲みながら映画を観て夜中の3時にそのまま寝入ってしまって、今日は午後3時に目が覚めました。もともとたくさん眠るほうなので、ここまではそれほど驚くことではありません。めちゃめちゃお腹がすいてカレーをバクバク食べてもう一度ベッドにもぐりこんで野球中継の再放送を観ました。そこで、また眠ってしまいました。ちょうどルームメイトが仕事に出かけたので夕方の6時ごろだったと思いますが、目覚めてみると10時でした。本当に食べて寝るだけで1日が消えてしまいました。
ハッとして外に出ることにしました。近所の24時間営業のカフェを検索してみるとたったひとつだけあったんです。仕事を終えて帰ってきたルームメイトと一緒に、夜中の12時近くになって外に出かけました。少し小腹がすいていたので海苔巻き天国でキンパを食べてカフェに行ってみると、スタッフから、コロナでずいぶん前に24時間営業はやめてしまってもう店を閉めるのだ、と言われました。それで再び家に帰ってきました。本当に変な1日です。今はまたベッドにもぐりこんでランイさんに手紙を書いています。
送ってくれた手紙を何度も読んでいるうちに、本当に多くの記憶がよみがえってきました。それらをすべて書き出してみようかとも考えたし、ランイさんが手紙を書いたとき、そして書いてくれた内容を経験したときの感情をあえて想像してみようかとも思いました。そうしているうちに返事を書くのがめちゃくちゃ難しくなってしまいました。この手紙はいつもの返事よりもランイさんに届くのがずっと遅くなりそうで、申し訳ない気持ちになります。あれこれ考えながら時間を過ごしてみると、こうやって誰かと心を開いて手紙のやり取りをするのがどれほど大切なことなのかぼんやりと見えてきます。数々の文章が書かれては消されるのを繰り返している今、結局思いのまま正直に書いた言葉しか残らないのではないか、と心配になります。
女性として生きるということは、他殺が禁じられていない世界で生きる原始人のように、1日1日無事であることに安堵するどころか驚きを感じることだと思います。いつだって体や心を殺されても少しもおかしくはないのですから。今日だけでも数多くの女性たち、あるいは社会的マイノリティが体や心をずたずたに傷つけられていることでしょう。私もそのうちのひとりかもしれませんが、そうだとしてもそうでなかったとしても、生きて息をしてこの文章を書いている今が驚きです。
特定の性別だけが“私たち”という言葉に気づくことができるという話をしたいわけではありません。ただ、私たちはある状況、ある空間で特定のサインに気づくことがあります。すぐに思い浮かぶ例として、女子トイレに入るときの私のしぐさが挙げられるでしょう。私は公衆トイレに入るとき男性だと思われないように、視線をできるだけ下げて両手を特定の角度に下げてからゆっくりと歩きます。誰かが私を見て“無害な人”だと認識できるようにです。そんなサインを表していても誰かに0.5秒以上見つめられたら、自分の声が聞こえるように咳払いをするとか、“あなたと同じ性別ですよ”と伝えられるようなわかりやすい行動をします。
にもかかわらず月に1回くらいは「わっ」とか「ちょっと、ここは女子トイレですけど」って言われます。時にはむしろ、こんなハプニングがその場を早くすっきりと解決してくれるときもあります。私は声を出して「私、女ですけど」と言えるからです。でもこんな一連のハプニングも、私が普遍的な女性の声のトーンを持っていて、体格が小さくて、人に知られている職業だから当然受け入れられるのです。もしも私よりも“社会的女性性”からかけ離れた女性がこんなハプニングに巻き込まれたとしたらもっと困ったことになるでしょう。私はこのことで悔しく思ったり面倒くさいと思ったことは、ただの1度もありません。なぜなら、前にも書いたように、女性として生きていてその一瞬一瞬無事であることにとても感謝しているからです。
こんなエピソードを説明するのは私の手に余るので、家族以外の、すぐに共感してもらえない人との縁がすべて薄くなってしまいました。実際、自分の家族を説得するのも私の言語よりも私を認めてくれる第三者の視線がはるかに効果的なので、どうにかバランスをとって生きているようなものです。こんなに果てしなくて不便で絶対に消えそうもない感受性をぶらぶらとぶら下げて生きている私は、だからなのか、もうオンラインに現れるフェミニズムについての多様な(と書いて“あきれた“と読みます)視点からは大きな感銘を受けることができません。ただ、長い時間が経って、変わらないと思っていたものが最後には変わっていることを願うばかりです。そうはならないとしてもどうすることもできませんが……こんなときは小さくとも自分が残してきた足跡を振り返ったりします。まったく面倒くさいことです。私たちの仕事は。こんなときにはただ酒をたっぷり飲んで、“どうしよっか?”って考えてしまうほうがましだと信じたいですよね、ハハ。
今から書こうと思うエピソードは、私が妊娠可能な人間として体験した奇妙で疲れた出来事のひとつです。私も、何年間も誰にも話せなかったものをランイさんへの手紙を読みながら思い出して書いてみます。忘れようとしていたので正確ではないかもしれませんが、はっきりと残っている部分もあります。
(つづきは本編で)
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『カッコの多い手紙』괄호가 많은 편지
スリーク、イ・ラン 著
吉良佳奈江 訳
http://www.kankanbou.com/books/kaigai/kaigai_essay/0593
B6、並製、224ページ
定価:本体2,000円+税
ISBN978-4-86385-593-9 C0098
装幀 成原亜美(成原デザイン事務所)
装画 クイックオバケ
【著者プロフィール】
スリーク(Sleeq/슬릭)
京畿道九里市生まれのミュージシャン。本名はキム・リョンファ。アルバムに『COLOSSUS』、『LIFE MINUS F IS LIE』があり、2022年にはシングル『있잖아(あのね)』を発表した。オムニバスや同僚ミュージシャンの作品への参加も多い。2020年にMnetで放送された音楽リアリティショー「グッド・ガール」に“地獄から来たフェミニストラッパー”として登場して話題を集めた。誰も傷つけない歌を作りたいという。元野良猫のットドゥギとインセンイと暮らしている。
イ・ラン(Lang Lee/이랑)
ソウル生まれのアーティスト。イ・ランは本名。アルバムに『ヨンヨンスン』『神様ごっこ』『オオカミが現れた』。『悲しくてかっこいい人』(2018、リトルモア)、『アヒル命名会議』(2020、河出書房新社)、『何卒よろしくお願いいたします』(2022、タバブックス)ほか、多くのエッセイ、小説、書簡集が日本語訳されている。音楽、文学、イラスト、映像などマルチに活躍している。元野良猫のジュンイチと暮らしている。
【訳者プロフィール】
吉良佳奈江(きら・かなえ)
静岡生まれの翻訳家・韓国語講師。翻訳にチョン・ミョングァン「退社」「たべるのがおそい」vol.7(2019、書肆侃侃房)、ソン・アラム『大邱の夜、ソウルの夜』(2022、ころから)、チャン・ガンミョン『きわめて私的な超能力』(2022、早川書房)など。家族と植物と暮らしている。
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