バナー都甲_世界文学の体温アメリカ文学

第1回 聖書と論語(都甲幸治)

 冷たい雪が口に、目に入ってくる。秋田の雪はただ下には落ちてこない。風に吹かれて、地面の上で渦を巻き、正面から顔に当たってくる。顔が痛い。それでも僕は外で遊んでいる。
 その前は暖かい千葉にいた。だから、こんな冷たさは初めてだった。初めてのことは他にもある。春に幼稚園に入ったのだ。最初の日、お母さんが帰ってしまうと淋しくて泣いてしまった。するとクラスの女の子が慰めてくれた。「ねんど面白いよ!」そして一緒に遊んでくれた。嬉しかった。
 こんなに知らない人がたくさんいるのも、家じゃない場所にずっといるのも初めてで、ものすごく心細かった。おまけに不器用で、うまくご飯も食べられない。椅子に座って昼ご飯を食べているとき、お弁当の米粒を床にポロポロこぼして、恥ずかしくて足でこすりつけ続けた。ご飯はもっともっとこぼれて、おかげで床がネチャネチャになった。先生に見つかって、「汚いわねー」と言われて悲しかった。
 住んでいるアパートから秋田幼稚園までは歩いていく。太い道を越えて、ト一屋(といちや)という名前のスーパーの横を通って、田んぼの中の道を通る。ちょっと行くと、もう幼稚園だ。夏にはこの道を通って、竿灯というお祭りを見に行った。おじさんたちがたくさんの提灯のついた大きな竿を、腰や頭に乗せる。すごく華やかなお祭りだ。でも僕が憶えているのは、お父さんにおぶってもらって帰る途中、この田んぼで見た、無数の蛍だ。

 幼稚園で食べる昼ご飯の前にはお祈りがある。

天にましますわれらの神よ。
御名が崇められますように。
御国がきますように。
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 みんなでそう唱えてやっとご飯になる。お祈りの意味はわからない。でも、天という場所に神という名前のすごい人がいることはわかる。先生も熱心に一緒に唱えている。だから、それが本当だとわかる。
 幼稚園には日曜学校もあった。普段は遊んだり、お遊戯をしたり、お昼寝をしたりするのだが、日曜日は違った。神様についてのいろんな話を聞くのだ。たとえばこんなやつだ。
 神様が他の人たちとボートに乗っている。すると嵐になって、みんなあわてふためく。でも神様はあわてない。嵐に向かって「静かにしなさい」と言い、湖の上を歩いたりする。もちろんみんな助かる。日曜学校の終わりには、神様カードをもらった。野球カードみたいなやつだ。外国人っぽい顔をして髪の長い神様が、湖の上を歩いている絵が描いてあった。
 別にキリスト教の家に生まれたわけじゃない。幼稚園でそこまで宗教教育をやっているなんて、親も知らなかったのではないか。ただ家から近くて、標準語で教育をやっている幼稚園、という理由で親はここを選んだ。
 どうして標準語、と思われるかもしれない。実は九州出身の親は、秋田弁がものすごく苦手だったのだ。なかなか聞き取れるようにならず、ましてやしゃべれるようにはぜんぜんならず、とにかく溶け込めなくて苦しんでいた。
 ある日お父さんが激しい頭痛に襲われたことがある。奇妙なことに、頭の片側だけ痛むのだ。実は職場の隣の席に、秋田弁がひどくきつい同僚がいた。痛んだ頭は、もちろんその同僚の側である。
 とはいえ、両親も人のことを言えた義理じゃなかった。家の中では完全に九州北部の方言でしゃべっていたのだ。だから僕もまずはこの方言で育った。思うに、両親はこの言葉を標準語だと信じていたのではないか。小学生になってから、僕は家の中と外の言葉がどうして違うのかと悩むようになるのだが、それはまた後の話。
 さて、秋田の中心にありながら完全な標準語教育を行っている、という秋田幼稚園に戻ろう。得るものがあれば失うものもあるのは世の常だ。今思えば、ここの保育士さんは他地域にある同じキリスト教団体から派遣されてきていたのではないか。
 この学校には、秋田弁もなければ日本文化もなかった。あるのはキリスト教教育と、科学的だったり翻訳だったりする絵本の名著の数々だ。やがてひらがなを読めるようになった僕はずんずん絵本を読み進めた。絵本にでてくる地球や宇宙の歴史を思い、カエルや魚などの動物たちの苦しみに涙した。
 こうしてその後の人生を決めるものが僕の中にすっかり腰をおろしてしまった。キリスト教と科学、そして翻訳された物語への愛だ。逆に、日本への関心はだいぶ後回しになった。人生のほとんどの時間を日本で過ごしてきたにも関わらず、である。

 自転車で図書館に向かっている。お母さんと、僕と、妹で。小平市の中央図書館に向かっているのだ。三十分ぐらいかかるけど、ペダルをこいでいる間もわくわくしている。小学校一年生の途中で、東京の多摩地区にあるこの場所に引っ越して来た。秋田で過ごしたのは三年ほどで、ようやく慣れたところだった。一緒に学校に通う友達もできたのに、結局一学期しか通えなかった。
 学校に行く最後の日に、玄関のところまでクラスメート全員と先生が来てくれた。なにかちょっとしたプレゼントももらった気がする。東京なんて、テレビのチャンネルが多いぐらいのイメージしかなかった。別に行きたいとも思わなかった。
 東京に来てはまったのは、図書館で借りた本を読むことだ。本はあまり買ってもらえなかったけど、図書館の本なら読み放題だった。おまけに、小平市は児童書が充実していた。絵本を読み漁り、卒業するともっと分厚い本に移った。
 僕が好きだったのは、岩波書店や福音館から出ている、翻訳物の児童文学だ。リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』は白っぽい装幀、ジュール・ヴェルヌの『二年間の休暇』はもっと暗い装幀だ。背の低い僕にとって、こうした本はものすごく大きくて重かった。
 それでも、棚から取り出して読み始めると、ヨーロッパの女の子や男の子が世界を股にかけて活躍する。僕も一緒に旅しているようでドキドキした。しかも、彼らの洋風な発言や考え方は、僕が幼稚園で受けたキリスト教教育とばっちり合う。とにかく、本がズラリと並んだ棚を眺めているだけで嬉しかった。
 学校の学級文庫でも、モーリス・ルブランの『ルパン』シリーズや、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物をたくさん読んだ。世の中にこんなに面白いものがあるのかと思った。だから今でも、新潮文庫の古い翻訳でシャーロック・ホームズ物を読むと、たまらなく懐かしくなってしまう。
 月に一回は吉祥寺に買い物に行くのも楽しみだった。北口の商店街にあるマクドナルドに必ず入って、ビッグマックを買ってもらう。ピクルスのすっぱさ、チーズのコク、ケチャップの甘さが口の中で混ざって、すごく美味しかった。新しい店内はピカピカ光っていて、そのアメリカンな雰囲気がかっこいい。
 その近くのビルの二階にはソニープラザがあった。輸入物の雑貨やお菓子、服、コスメなどがたくさん並んでいる。ある日そこで、トーキングカードという機械を買ってもらった。絵の描いてあるカードを丸っこい真っ赤な機械に通すと、下のほうに貼ってあるテープを読み取って音声が出る。そのままカードは右から左に動く。
 『メリーさんのひつじ』『ロンドン橋落ちた』といったマザーグースの歌。カード何枚にもわたる卵怪人ハンプティ・ダンプティのお話。『ヤムくんの冒険』みたいなオリジナルのストーリー。聞こえる音声のほとんどは英語だったけど面白くて、妹と二人でそれこそ、何百回も聞いた。しまいには全部憶えてしまった。今でも “Mary had a little lamb, little lamb, little lamb.” といった歌詞や、 “Humpty Dumpty is falling!!!” というセリフの声などをハッキリ思い出せる。
 もちろんアルファベットは読めなかったけど、トーキングカードのおかげで英語の発音は一通りできるようになった。とはいえ、カードの音声を真似していただけだけど。

 どんよりとした曇り空。古い城下町はどこも灰色で、僕はタクシーの窓から不安な気持ちで外を見ていた。中学三年生になるところで、金沢に引っ越してきたのだ。石川県がどこにあるかもよくわからなかったし、どんな方言なのかも知らなかった。とにかく不安だった。
 それまで僕は駒場東邦中学校にいた。英語の発音が良くて得意になっていたのも束の間、文法も単語も興味が持てなくて、成績は急降下してしまった。代わりにはまったのがコンピューターで、当時出始めのパソコンでプログラムを書いてばかりいた。
 初めはメジャーなBASICだったけど、手続きを論理的に書いていくのが楽しくて、人工知能言語のPrologとか、逆に機械に直接命令を出す感じのアセンブリ言語などいろいろ学んでずんずんコードを書いていた。とはいえ、内容はたわいもないものだけど。
 そもそも駒場東邦は理系の強い学校で、理科の時間に教室に入ると、各班の大机の上に牛の眼球が一個ずつゴロリと置いてあったりする。「じゃあ解剖しよう」と先生に言われ、中学生自らがナイフでばらしていくのだ。ドロリとした中身を見たり、目の中のレンズを取り出したりするのはちょっと恐かった。
 男ばかりの画一化された社会で、下ネタを言い合いながら理系の勉強をするというのは面白かったけど、同時に違和感もあった。ずっとここに中高の六年間いるのは嫌だなあ、という感じだ。でもまさか、途中で転校することになるとは思わなかった。
 金沢で入ったのは地元の野田中学だ。ここは駒場東邦とは全然違う世界だった。十人ぐらいの不良の集団が授業中、各教室を巡回している。バンとドアを開けて勝手に入ってきては、挨拶して出ていってしまう。校庭ではたまに卒業生がバイクで来て、勝手にぐるぐる回っている。給食の時間には、通行人めがけて不良が牛乳パックをひたすら投げている。
 とはいえ、実際に付き合ってみると不良は良いやつも多かった。授業中しゃべり続けていたせいで後ろの席に追いやられた僕は、番長と隣の席になってしまった。恐いかな、と思ったけど、番長は優しくて、しかも意外とインテリだった。親は地元の銀行に勤めているという。
 当時の僕は谷川俊太郎と孔子にはまっていて、いつも角川文庫の『谷川俊太郎詩集』全二巻と岩波文庫の『論語』を持っていた。特に『論語』は大好きで、授業中も読んでいたのだが、ある日、番長に『論語』の特に好きな章を読んであげた。神妙にしていた番長は最後に、「いい話を聞いた」と言って喜んでくれた。やっぱり孔子の言葉は力があるなあ、と思った。
 駒場東邦の二年間で英語力が最悪のところまで落ちていたので、初級文法からまじめにやった。それだけではつまんないので、中心街の片町にある一番大きな書店うつのみやに行き、薄いリーダーを買ってきた。海外で出版されたもので、厚さはほんの三、四ミリかな。こうしたやつでサマセット・モームの短編なんかを読んだ。
 それからムーミンの英語版のペーパーバックも休み時間に読んでいた。クラスのちょっと活発な女子グループに、これかわいいね、とか言われて勝手に取り上げられ、女子たちの間を回されて嫌だった。いや、かわいいから読んでいるんじゃなくて、妖精の世界が好きだから読んでいるだけなのに。
 中学で成績が良いと、国立の金沢大学附属高校に推薦してもらえる。一校からは最大二名しか入れないので、とにかく勉強するしかない。だから不良が大騒ぎしたり、女子たちが松田聖子の新曲の話で盛り上がったりしている中で、ひたすら勉強し続けた。駒場東邦にいたときよりずっと勉強した。
 勉強だけじゃない。僕は勉強面に比べて精神面の成長が遅くて、中三でも小三ぐらいの感じだった。だから他の男子と鬼ごっこをしたり、消しゴムの車をボールペンのお尻で押していくカーレースをしたりして過ごした。女子たちは恋愛トークで盛り上がっていたのに。
 好きな女の子もいたけど、しゃべるなんて全然無理だった。というか、二年間の男子校暮らしのせいで、女子との接し方が完全にわからなくなっていた。ほんの少し前は男女とも小学生だったのに、いきなり大人の女性みたいになっているのだ。だからただ、遠くから眺めていた。家に帰って彼女たちの姿を思いだしたりした。
 久しぶりに真面目に勉強を始めたのだが、プログラミングをやめたのがよかったのか、勉強ぐらいしかすることがなかったからかは分からないけど、順調に成績は上がり、年末には金沢大学附属高校に推薦してもらうことができた。ようやく行く高校が決まってホッとした。

プロフィール

都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県に生まれる。現在、早稲田大学文学学術院教授、翻訳家。専攻はアメリカ文学・文化。主な著書に、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社、2009年)、『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社、2012年)、『狂喜の読み屋』(共和国、2014年)、『読んで、訳して、語り合う。――都甲幸治対談集』(立東舎、2015年)など、主な訳書に、ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(共訳、新潮社、2011年)、同『こうしてお前は彼女にフラれる』(共訳、新潮社、2013年)、ドン・デリーロ『天使エスメラルダ』(共訳、新潮社、2013年)、同『ポイント・オメガ』(水声社、2018年)などがある。

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