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【お砂糖とスパイスと爆発的な何か】『LEAN IN』はどこにつながったのか? ギークガールのロールモデルとシリコンバレーの闇(北村紗衣)

 前回の記事では、シェリル・サンドバーグの『LEAN IN』はいったいどういう背景から出てきて、なぜ大ヒット作となったのかについて分析しました。今回の続編では、『LEAN IN』が英語圏の出版業界に及ぼした影響や、それと連動して起こった動きを考えてみたいと思います。
 
 この記事では『LEAN IN』のヒットと関連づけて考えられる出版界の動向として、ざっくり2点に注目します。
 
 ひとつめは直接的な影響というよりは連動する動きと言ったほうが良いものですが、STEM(Science「科学」、Technology「技術」、Engineering「工学」、Mathematics「数学」の頭文字をとったもの)業界で働く女性の歴史に対する関心が高まり、コンピュータや科学技術が好きな女性(いわゆるギークガール)のロールモデルを求める動きの中で関連書がたくさん出るようになったことです。
 
 ふたつめはシリコンバレーで働く女性の回顧録がどんどん出版されるようになり、中にはアメリカのコンピュータ産業における問題などを告発するものも出てくるようになったことです。

◆ギークガールの歴史を探る

 前回の記事で、『LEAN IN』が出る少し前から、コンピュータの発展に貢献した女性たちへの関心が高まっていたことを説明しました。コンピュータ業界には黎明期から女性もいたのですが、あまり注目されておらず、2012年頃からその掘り起こしが盛んになりました。『LEAN IN』もそうした文脈で受容された本のうちのひとつでした (Blair, p. 65)。
 
 過去の掘り起こしが進む中、シリコンバレーで働く女性の回顧録である『LEAN IN』がヒットしたことで、STEM業界の女性のロールモデルとなるような人物は読者の関心を惹きつける主題であるということが示されたと言えます。
 
 しかしながらサンドバーグが就いていたのはフェイスブックの重役という目立つ仕事だったとはいえ、自分でプログラムを書いたり機械を設計したりする業務をしていたわけではありませんでした。『LEAN IN』のようなポジティヴな感じはありつつ、もっと科学技術に密着したところで業績をあげた女性について知りたいという需要が読者の間で高まったのか、この後には続々と女性の技術者や科学者についての歴史本が刊行されるようになりました。
 
 ここで人気になったのは、イギリスではブレッチリー・パーク、アメリカではNASAで働いていたような女性たちです。ナチスとの戦いや宇宙開発は英語圏では英雄的な業績として関心も高いので、こうした題材が読者に受けたのは驚きではありません。
 
 2015年にテッサ・ダンロップがブレッチリーで働いていた存命の女性たちに取材して内容をまとめたThe Bletchley Girls: War, Secrecy, Love and Loss: The Women of BletchleyPark Tell their Storyが刊行され、他にも暗号解読についてはコンスタントにいろいろな本が出ています(既に2012年からテレビドラマも作られていました)。
 
 アメリカでは2016年にマーゴット・リー・シェタリーがNASAで働く黒人女性の業績を扱った『ドリーム―NASAを支えた名もなき計算手たち』や、より広く宇宙開発分野で働いた女性を扱ったナタリア・ホルトの『ロケットガールの誕生――コンピューターになった女性たち』が刊行されました。前者は本が出た直後に『ドリーム』として映画化されています
 
 STEM業界の女性ロールモデルについて知りたいという潜在的な需要は大きかったようです。ここであげたような本は女性や非白人の読者のニーズを掘り出し、類書がどんどん出るようになりました。最近は子ども向けの本の分野でも、どんどん女性研究者や技術者をとりあげた伝記ものが増えています。『LEAN IN』はこうした2010年代の出版市場の傾向の中で位置づけられるべき本でしょう。

◆シリコンバレーを告発する

 さらに『LEAN IN』と直接つながる出版市場の動きとして、実際にシリコンバレーを中心とするIT業界で働く女性の回顧録や暴露本がどんどん出るようになったことがあげられます。
 
 技術者から経営者まで、さまざまな女性が経験を本にしたり、そういう女性をとりあげた本が作られたりするようになりました。わりとポジティヴなものもありますが、シリコンバレーの性差別に対する辛辣な批判を含んでいるものもあります。多くの本は『LEAN IN』よりもあからさまにフェミニズム的です。
 
 まずは2015年に、『LEAN IN』を批判的に発展させるような形でIT業界の性差別を告発するアンソロジーであるLean Out: The Struggle for Gender Equality in Tech and Start-UpCultureが刊行されました。これは詩やエッセイなどいろいろな文章が収録されており、非白人や性的マイノリティなどさまざまな寄稿者が自分の視点でIT業界の差別について書いています。
 
 雑多な文章を集めるのはフェミニズム系アンソロジーではよくあることですが、ITだけをテーマにこうした本が編まれたことは新しい動きでした。本作には経営者視点の『LEAN IN』とは全く違う、人に使われる労働者としての経験もたくさん盛り込まれています。
 
 2010年代後半になると、IT業界で働くさまざまなバックグラウンドを有した女性による回顧録が次々と出るようになりました。
 
 たとえばゲーマーゲート問題で主な嫌がらせのターゲットになったノンバイナリのゲームデザイナー、ゾーイ・クインが2017年にCrash Override: How Gamergate (Nearly)Destroyed My Life, and How We Can Win the Fight Against Online Hateを刊行しています。
 
 この回顧録ではゲーマーゲートによるオンラインハラスメントの克明描写がほとんどホラーに近い形で描かれ、脅迫や個人情報晒しを受け続けたクィンはゆっくり自宅で休むことすらできなくなります。クィンはノンバイナリ/クィアを自認していますが、ゲーマーゲートのときはいわゆる「女の力」、つまり性的関係を利用して男性批評家に自分のゲームを褒めてもらおうとしたというデマを流され、激しいミソジニーに基づく攻撃を受けました。
 
 ベンチャーキャピタルのクライナー・パーキンス社を性差別で訴え、その後一時期RedditのCEOになった台湾系アメリカ人のエレン・パオも2017年に回顧録Reset: My Fight forInclusion and Lasting Changeを刊行しました。
 
 パオ自身の訴訟はうまくいかなかったものの、新興企業でのハラスメントの実態が知られるようになり、その後も続いて訴訟が起きて「パオ効果」という言葉まで作られています。パオの訴訟やその後の展開は「リーン・インすることが常にうまくいくわけではない」ということを示唆するものでもあり、この回顧録はある意味で『LEAN IN』に出てこないシリコンバレーを描いたものと言えます。
 
 パオの本は女性やマイノリティ同士の連帯に触れているところがひとつのポイントです。パオは前述のクィンをはじめとするゲーマーゲートの被害者たちと会っているほか(p. 235)、大物テレビプロデューサーで『グレイズ・アナトミー 恋の解剖学』などを作ったションダ・ライムズにも励まされています(p. 237)。
 
 実はライムズも『Yes ダメな私が最高の人生を手に入れるまでの12カ月』(Year of Yes:How to Dance It Out, Stand In the Sun and Be Your Own Person)というかなり自己啓発っぽい回顧録を2015年に出しているのですが、おそらくライムズの回顧録を読む女性読者層とパオの回顧録を読む女性読者層は一部重なっているのではないかと思われます。
 
 映画やテレビ、舞台業界で働く女性の回顧録というのは昔から一定の女性読者層がいるのですが(私も子どもの頃、ローレン・バコールとかパトリシア・ニールの回顧録を夢中で読んでいました)、パオのような女性の回顧録はシリコンバレーに興味がある人ばかりではなく、この手のちょっと啓発的な自伝を愛読する女性層もターゲットとしているはずです。
 
 IT業界で働く女性についての本はこの後も続々と刊行され、ヒットしたり高評価を得たりしています。テクノロジーニュースサイトであるパンドデイリーを創業したサラ・レイシーによるA Uterus Is a Feature, Not a Bug: The Working Woman’s Guide to Overthrowingthe Patriarchy (2017)、ジャーナリストのエミリー・チャンによるBrotopia: Breaking Upthe Boys’ Club of Silicon Valley (2018)、ちょっと変わり種ですがプログラミングを志す高校生が書いたソフィー・ハウザー、アンドレア・ゴンザレスの『ガール・コード―プログラミングで世界を変えた女子高生二人のほんとうのお話』(原著2017年)などがこうした流れの中で刊行されました。
 
 2020年にはスタートアップのカスタマーサービス部門で働いていたアンナ・ウィーナーの回顧録Uncanny Valley(「不気味の谷」という意味のタイトルで、ロボット工学の用語である「不気味の谷現象」にシリコンバレーをひっかけています)が話題になりましたが、これはIT版『プラダを着た悪魔』と言えるような内容です。回顧録というよりはフィクションのような、企業名をぼかしたちょっと不穏な書き方が特徴で、今のシリコンバレーの話なのにまるでSF小説のように読める作品です。

 一方でこうした新興企業において、実態が伴わない形で女性がまつりあげられる現象を批判的に検証した本も出てきています。2018年に出たジョン・キャリールーの『BAD BLOOD―シリコンバレー最大の捏造スキャンダル全真相』は、医療ベンチャー企業セラノスの創業者で、詐欺罪で告発されたエリザベス・ホームズを追ったノンフィクションです。
 
 キャリールーはホームズがやたらと注目された原因について、「男性が支配するテクノロジー業界に風穴を開ける女性起業家を社会が待ち望んでいたところに、エリザベスが登場したからだ。ヤフーのマリッサ・メイヤーやフェイスブックのシェリル・サンドバーグはシリコンバレーである程度知られていたが、二人はゼロから会社を立ち上げたわけではない。エリザベス・ホームズはテクノロジー起業家として女性で初めてビリオネアになったのだ」(pp. 270-271)と述べています。
 
 アメリカ、とくにシリコンバレーには強い起業幻想とでも言えるものがあり、創業者やスタートアップ立ち上げに参加した社員ほど重んじられるというような価値観はUncanny Valleyでも描かれています(p. 169)。エリザベス・ホームズによる詐欺はシリコンバレーをめぐるスタートアップの狂騒に、若い起業家をもてはやし、とくに華やかな女性を持ち上げたがるマスコミの意図も絡んだ複雑な状況から生まれたものです。
 
 このようなシリコンバレーの女性たちの回顧録や暴露本の裏には、良い意味でも悪い意味でも先駆者としてのシェリル・サンドバーグの影がちらついています。回顧録のほとんどはサンドバーグの『LEAN IN』に比べるとだいぶシリコンバレーの労働環境について批判的で、非白人、性的マイノリティ、低給与の労働者、ハラスメント被害者などの周縁化されやすい立場からの視点を組み込んでおり、サンドバーグの本に足りないと言われていたような要素は今回あげた本のどれかでだいたいカバーされているというような印象を受けます。極めて批判も多く、問題点もある『LEAN IN』ですが、こうしたIT業界で働く女性の回顧録ブームをもたらしたという点では出版文化に及ぼした影響は非常に大きいと言えるでしょう。

参考文献
キャリールー、ジョン『BAD BLOOD―シリコンバレー最大の捏造スキャンダル全真相』関美和、櫻井祐子訳、集英社、2021(原著2018)。
サンドバーグ、シェリル『LEAN IN―女性、仕事、リーダーへの意欲』川本裕子序文、村井章子訳、日経ビジネス文庫、2018 [Sheryl Sandberg, Women, Work, and the Will to Lead,Knopf, 2013]。
シェタリー、マーゴット・リー・『ドリーム―NASAを支えた名もなき計算手たち』山北めぐみ訳、ハーパーコリンズ・ジャパン、2017(原著2016年刊行)。
シェーン、スコット・A『〈起業〉という幻想―アメリカン・ドリームの現実』谷口功一、中野剛志、柴山桂太訳、白水社、2017。
ニール、パトリシア、リチャード・ディニュート『真実―パトリシア・ニール自伝』兼武進訳、新潮社、1990(原著1988年刊行)。
ハウザー、ソフィー、アンドレア・ゴンザレス『ガール・コード―プログラミングで世界を変えた女子高生二人のほんとうのお話』堀越英美訳、Pヴァイン、2019。
バコール、ローレン『私一人』山田宏一訳、文藝春秋、1984(原著1978年刊行)。
ホルト、ナタリア『ロケットガールの誕生―コンピューターになった女性たち』秋山文野訳、地人書館、2018(原著2016年刊行)。
モラン、キャトリン『女になる方法―ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記』北村紗衣訳、青土社、2018。
ライムズ、ションダ『Yes ダメな私が最高の人生を手に入れるまでの12カ月』押野素子訳、あさ出版、2016(原著2015年刊行)。
Abbate, Janet, Recoding Gender: Women’s Changing Participation in Computing,MIT Press, 2012.
Blair, Kristine L., Technofeminist Storiographies: Women, Information Technology,and Cultural Representation, Lexington Book, 2019.
Chang, Emily, Brotopia: Breaking Up the Boys’ Club of Silicon Valley, Portfolio, 2018.
Dunlop, Tessa, The Bletchley Girls: War, Secrecy, Love and Loss: The Women ofBletchley Park Tell their Story, first published 2015, Hodder & Stoughton, 2019.
Lacy, Sarah, A Uterus Is a Feature, Not a Bug: The Working Woman’s Guide toOverthrowing the Patriarchy, Harper Business, 2017.
Pao, Ellen, Reset: My Fight for Inclusion and Lasting Change, Spiegel & Grau, 2017.
Quinn, Zoë, Crash Override: How Gamergate (Nearly) Destroyed My Life, and HowWe Can Win the Fight Against Online Hate, Hachette, 2017.
Rottenberg, Catherine, The Rise of Neoliberal Feminism, Oxford University Press,2018.
Shevinsky, Elissa, ed., Lean Out: The Struggle for Gender Equality in Tech and Start-Up Culture, OR Books, 2015.
Wiener, Anna, Uncanny Valley: A Memoir, 4th Estate, 2020.

初出:wezzy(株式会社サイゾー)

プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus

著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門(書肆侃侃房)


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